ウジェーヌ・イヨネスコ劇場「授業」

◎迫力に満ちた暴力と狂気の表現 作品の潜在的可能性と現代性を開拓する
片山幹生(早稲田大学非常勤講師)

「授業」公演のチラシ今回四度目の来日となるイヨネスコ劇場は、ルーマニアの東側に位置する旧ソ連邦の国、モルドヴァの劇団である。モルドヴァ語での上演だったが、この言語は隣国の公用語であるルーマニア語と実質的にほぼ同一の言語だということだ。

『授業』 の作者のイヨネスコは、フランスで活躍した作家だが、ルーマニア人の父を持ち、青年期の大半をルーマニアで過ごしている。したがってルーマニア語を母語とするモルドヴァの劇団である当劇場には、その劇団に冠された作家名からも、この偉大な前衛作家の「本場」の公演であるという強い自負を感じとることができる。『授業』はイヨネスコの作品の中でも最もよく知られたものの一つだが、公演当日に配布されたパンフレットによると、意外なことに、この作品がこの劇団のレパートリーに組み込まれたのは比較的最近(2005年2月初演)のことだという。演出のヴィタリエ・ドルチェックは劇団の第二世代にあたり、1971年生まれのまだ若い演出家である。

存在も知らなかったような東欧の小国の劇団の来日公演に私が関心を持ったのは、何と言っても野田秀樹がちらしに魅力的な推薦文を寄せていたからだ。しかも上演演目がフランスの前衛劇の《古典》となれば、それが東欧の未知の国の劇団であるだけになおいっそう強く好奇心を刺激されたのだ。果たして、この公演は私が期待していた以上に刺激的な感興を呼び起こすものであった。

『授業』は1950年に書かれ、翌年、パリで初演された。この前年に上演された処女戯曲『禿の女歌手』と『授業』によってイヨネスコは、1953年に初演された『ゴドーを待ちながら』の作者、ベケットと並んで、前衛的な《不条理劇》を代表する作家となった。彼らの前世代のサルトルやカミュは世界の不条理性を思想的な問題として既に捉えていたが、彼らの劇作品は、世界の不条理性を主題としつつも、明晰な論理と流麗な言語と緊密な伝統的な劇作法に基づいている。これに対し、イヨネスコやベケットの《不条理劇》では、人間の生きるこの世界の不条理なありさまを、舞台表現そのものによって提示していくという方法が取られている。

『授業』の登場人物は初老の教授と若い女子学生、そして女中の三人である。ある教授の家を、若い女性が個人教授を受けるために訪問する。彼女は博士号の試験に合格するため、教授の個人指導を受けにやって来たのだ。彼女とこの教授は初対面である。この教授はこうした試験準備のための個人教授で生計を立てているようだ。彼は極端に内気な性格らしく、最初のうちはおどおどとして、いかにも頼りなげである。これに対し女生徒は快活で、その態度は堂々としている。授業は初歩の算数からはじめる。最初のうち、足し算については教授の出す質問に自信に満ちた態度で正しい答えを返していた女子学生だが、引き算になると彼女が全くその概念を理解していないことが露呈される。この時から、教授と女子学生の間の立場が徐々に逆転しはじめる。教授は徐々に生徒に対して威圧的・攻撃的になり、生徒は逆にどんどん生気が消失し、思考停止の状態に陥る。授業が算数から言語学の講義になると、この「支配/被支配」の関係はさらにエスカレートしていく。ナンセンスそのものの珍妙な言語学理論を教授は興奮した口調で説明するものの、女性とは歯痛を繰り返し訴えるのみで、もはや教授の狂騒的な饒舌に対し対抗することができない。女生徒の出来の悪さに逆上した教授は、女生徒をナイフで刺し殺す。正気に戻った教授は打ちひしがれた様子だが、女中はこんな事態にもうんざりと言った雰囲気。というのもこれでこの日、四十人目の犠牲者だからだ。授業が行われていた居間を女中が片付けていると、呼び鈴が鳴る。新しい女子学生がやって来た。

イヨネスコの『授業』と言えば、パリ、セーヌ左岸のカルチェ・ラタンにある小劇場、ユシェット座でのロングラン公演が知られている。この小劇場では1957年以来、『授業』が『禿の女歌手』とともに、日曜を除くほぼ毎夜上演されている。初演時(1951年)の演出家、マルセル・キュヴリエの演出プランを踏襲するユシェット座の『授業』公演は、いわばこの作品上演の指標となる舞台と言ってよいだろう。

私は昨年夏にパリに滞在したときに、あまりにも有名なこの劇場のイヨネスコ二本立て公演を観に行った。『授業』の上演時間は約六十分で、展開はスマートでテンポ良く感じられた。役者の世代交代はあったにせよ、半世紀にわたって基本的に同じ演出プランによって上演が続けられているのだから、表現としては完成の極にあると言っていい。ルーチンとして延々と繰り返される公演にもかかわらず、退廃の気配は乏しく、舞台はクオリティは維持されいて、思いの外、楽しむことができた。ただし初演当時感じられたであろう前衛的挑発性は当然現在では薄れていて、『授業』のダイアローグのナンセンスなやりとりは、現在ではむしろ不条理ギャグのコントを見るような軽やかな娯楽性を感じさせた。舞台美術や劇場の雰囲気、そして演出は、1950年代の前衛についてのノスタルジーを喚起させる一方で、そこで提示される世界は、計算された演出によって細部まできっちり構築されており、無機的で抽象的な雰囲気が漂っていた。

イヨネスコ劇場の『授業』は、かつての前衛作品を洗煉された古典作品として提示するユシェット座の『授業』とは、対照的な舞台だった。イヨネスコ劇場の『授業』からは、「性的欲求」「暴力」「支配」「生々しさ」「嗜虐性」「狂気」「制御不能」と言ったことばが思い浮かぶ。

私が見たtheatre iwatoの公演では、舞台は4,5メートルほどの幅の狭い間口に作られていた。簡素な舞台美術が殺伐とした雰囲気を作り出していた。黒背景で、三方は半透明のビニールで囲まれている。中央には粗末なスチール製の椅子と机が配置され、片隅にはバケツと観葉植物が置かれている。

開場されると舞台では白いランニングシャツを着た初老の男が机にうつぶせになっていた。彼は教授役を演じることになるのだが、その風貌および部屋の雰囲気は、中流階級のインテリというよりは明らかに生活に疲弊した労働者階級を想起させる。開演すると男はいったん舞台奥に退場する。舞台奥からはとんとんとトンカチをたたくような騒音が断続的に聞こえる。巨体の女中が舞台に登場し、部屋の片付けをはじめる。しばらくするとおそろしく派手なピンク色の服装に身を包んだ、いかにも頭の悪そうな女子学生が客席の方から登場する。この女子学生を演じる女優も見事な肥満体だった。

人物造型は戯画的な誇張がされていて、芝居開始早々からエキセントリックな緊張感が漂った。女中はあからさまに意地悪そうであり、その言動には常に何か含むものが感じられる。女子学生は品性を欠く、脳天気なバカ娘。そして教授は田舎のエロ親父のごとく、無遠慮に女子学生を性的な視線でなめ回す。

先に示した概要にあるように、教授と女子学生の態度は反比例的に変化していく。はじめおどおどとしていた教授は徐々に攻撃性を露わにし、最初は快活で生意気でさえあった女子学生は逆にだんだんと無気力・無抵抗の状態に陥っていく。最初の算数の授業で、引き算の概念を女子学生が理解できないことが、教授の嗜虐性の引き金となる。ここで教授の「モード」が変更されるのだ。その次の言語学の講義では教授の攻撃性はさらにエスカレートしていく。

パリのユシェット座での公演では、ナンセンスな言語のやりとりは喜劇性を強調するものだった。しかしイヨネスコ劇場の舞台では、言語の不条理性はある種のテロリズムとして、乱用される権力を象徴するものとなる。教師の倒錯的なことばは女子学生を混乱に追い込み、身体的痛みさえ引き起こす。算数と言語学の授業は、権力者である教師の淫行の欲求、そして暴力衝動のはけ口として用いられ、それが最後には性的オルガズムを伴う殺人へと帰着する。この発展的な動きは、音楽的に、ひたすらクレシェンドがかかるようなやり方で、明確に示される。女中の介入や女子学生の発言は教授の狂気をさらに促進させる。教授の狂気の段階が上がる度に、サイケデリックな照明への変化と「ジャン」という音響とともに、舞台上の演者が観客の方に振り向いて演技を停止させる。これが繰り返されることによって、教授の暴力衝動の昂進に人工的なリズムが刻まれる。この行為の結末は、女中によって最後に引かれる黒い幕に貼り付けられた多数の女子学生の写真である。彼女たちはこれまでの教授の狂気の犠牲者に違いない。

イヨネスコ劇場の舞台では、言語的倒錯に伴ってエスカレートしていく破壊衝動の表現が実に生々しく激しい。教師は自分のことばが発する熱に浮かされるように踊り狂い、服を脱ぎ、バケツに入っていた水をまき散らす。女子学生の胸をはだけ、豊満な乳房を露わにしてもみしだき、ナイフをちらつかせ、最終的にはナイフを女子生徒に突き立てる。役者たちの表現主義の絵画を連想させるようなその荒々しい暴力と狂気の表現は、観客をたじろがせるような迫力に満ちていた。

野田秀樹がちらしに推薦文を寄せているが,不条理な世界の中で暴力が歯止めもなくエスカレートしていくありさまを容赦なく描くイヨネスコ劇場の『授業』は、先々月までシアタートラムで上演されていた野田の『THE BEE』を連想させるところがある。『授業』が含有するこうしたサディズムもしくは病的異常の問題については、作者のイヨネスコがト書きの中でちゃんと記しているのだが、展開の非現実性とナンセンスな会話のもたらす喜劇性の影で、こうした側面は後退してしまった感がある。

イヨネスコ劇場の『授業』では、支離滅裂なことばによって相手を支配しようとするゆがんだ権力的欲望、そしてそうした言動と連動して成長していく暴力衝動の姿を寓意的表現の身体性が極めて印象的である。そこでは人間心理の奥に潜むグロテスクな現実がエキセントリックな形で表現されているように思える。その過激な表現の延長線上で暗示される様々な現実のおぞましさに、観客である私は戦慄を覚えた。
《不条理演劇》の古典作品である『授業』が今なお持っている潜在的可能性の豊かさ、現代性を開拓する意欲的な解釈が提示された、刺激的な公演だった。
(観劇日:2007年8月30日(木)19:30@theatre iwato)
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第59号、2007年9月12日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
片山幹生(かたやま・みきお)
1967年生まれ。兵庫県出身。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。研究分野は中世フランスの演劇および叙情詩。現在、早稲田大学ほかで非常勤講師。ブログ「楽観的に絶望する」で演劇・映画等のレビューを公開している。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/katayama-mikio/

【上演記録】
ウジェーヌ・イヨネスコ劇場 「授業」 La Lecon (1950)
上演時間:約75分
東京 theatre iwato (2007年8月28日-9月2日)
横浜 相鉄本多劇場 (2007年9月4日-5日)
埼玉・富士見市 キラリ☆ふじみ劇場(2007年9月8日)

作:ウジェーヌ・イヨネスコ
演出:ヴィタリエ・ドルチェック
出演:マリーナ・マダン、ゲオルゲ・ピエトゥラル、マイヤ・グロス

主催:日本・モルドヴァ演劇交流会(七字英輔、志賀重仁、宗重博之、菊地 廣、一宮 均)

コーディネーター:七字英輔
http://eastern-theatre.blogspot.com/

通訳・字幕:志賀重仁
制作協力:川村容子、杉田有希、川上直毅
共催: theatre iwato

協力団体:劇団東京乾電池、劇団1980、劇団黒テント、日本映画学校、東京演劇アンサンブル、横浜ボートシアター、京楽座、劇団俳小、名取事務所、シスカンパニー、金沢・アンゲルス、龍昇企画、MODE、東京演劇集団風、楽天団、木山事務所、コースケ事務所、パニックシアター、モルドバ復興支援協会

チケット:一般:3,500円(当日、4,000円。整理番号付、自由席)

【関連情報】
・イヨネスコ「授業」(新・ちくま文学の森 「ことばの国」 所収、筑摩書房、amazon)


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