悪い芝居「ベビーブームベイビー」

◎社会=他者関係を結ぶ鍵を模索 演劇と自分を思想する志の高さ
 藤原央登(「現在形の批評 」主宰)

 山崎彬が率いる悪い芝居の紡ぎ出す劇世界は極めてリアリスティックであるという一点においてこの集団は重要である。

 アングラポップを彷彿とさせる色彩豊かで瀟洒な美術・衣装・照明。若さを未熟であることを凌駕する特権であるかの如く、十全に駆動させ酷使させんとする演技体、くだらないギャグの応酬。表層に溢れ返るこういった要素から成る光景はもはやデジャヴュと言い切ることをためらわせないほど繰り返されてきた劇スタイルである。小劇場演劇の雄の一つとなった典型的なスタイルがデジャヴュと感じる理由に、作品の源泉があまりにも均質で安易なものが多いことに求められる。受け手側の演劇への一般的イメージは、青年期のイニシエーションとしてモラトリアムを保証し、遅延させることへの言い訳が作用する作り手側の演劇へのアプローチと近似値なのだ。

 悪い芝居は、そんな同朋の観客を伴なって人心を慰撫し、刹那の享楽に耽る全ての者たちへ厳しい視座を向ける。自らを含めて。新作『ベビーブームベイビー』を観て確信したのは、色彩豊かに施された装飾と笑いは自己批評の確認装置として必然となっていること、もっと言えば演劇の肯定のための演劇の嫌悪、反抗という地平に自覚的になることを通して、演劇をする自分というものを思想しようとする志の高さが今この劇団を支える動力源となっていることであった。他者との関係を取り結ぶ鍵の在り処を、自己規定を出発点に彼らなりに必死に模索している。決してペシミスティックやシニシズム、デカダンではなくリアリスティックに根ざしているとはそういうことである。

 初めて触れた前々作の『イク直前ニ歌エル女(幽霊みたいな顔で)』の劇世界に多分に充溢する自己否定から私は鬱々とした気分になったこと、坂口安吾の『堕落論』の「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。」をそのまま体現したかのような点に他に比肩するもののない独自性を劇評に記した。今作も同様の命題を取り扱っているが、自己否定の論理に他者の眼が導入されている。キーワードは「母殺し」と「迷子」。

 それは、進行する舞台を途中からメタ構造的に包摂してしまう外枠において明瞭となる。女子学生とのチャット会話することでしか慰撫されないハンドルネーム・エガオと称する小説家志望の男(四宮章吾)。彼が取った電話から流れる母親の叱責がそれである。賞への応募とは受賞者を賞賛することではなく、その他大勢の落選者に才能のないことを示すことにある、または貰った年金であんたの保険料払うなんて絶対嫌、といった言葉は息子に虚妄から目を覚まし自立することを促す。その時、空間にいた誰しもが親からの現実の洗礼を浴びる男に自分を重ね合わせざるを得ないだろう。何より、京都芸術センター舞台芸術賞2007をかけた作品をまさに上演している自分達自身への痛烈な皮肉にもなっているのだ。

 すると、劇中劇として展開される、餓鬼野一万(大木湖南)が同郷の多聞五日(山崎彬)から教わった母殺しの意味が判然としてくる。人生の幸福は死ぬ直前如何によるという考えの下に計画されるそれは、母親からの連絡を幾度も無視して心配を頂点にさせた時点でプレゼントを送り、一気に幸福と安堵へと浸らせた直後、母殺しマシーンであるプレゼントで殺すというものである。親に心配かけず笑顔でいてもらいたいと思いながらも、夢を捨てきれずに生活の一切を保障し、庇護してくれる親に依存せざるを得ないエガオは、小説内=劇中劇で母殺しを実行することによって現実世界で受ける抑圧から浄化を図ったのだった。そもそも日本から排出される廃物が全て溶けて染み込んでいるという餓鬼野里なる土地、そこに住む餓鬼野里一家なる登場人物に、欲求不満解消の掃き溜めとしての設定があらかじめ盛り込まれている。

 母殺しは六〇年代演劇のテーマの一つであった。実生活における関係という点では、寺山修司のそれに近いが、絶対的存在として良くも悪くも己の自我に立ちはだかって干渉する母に精神的隷属を感じた寺山とは違い、もはや情念や怨恨といったタームが共有し得ない現代の若者にとって、母親との関係は単純な生き死にといった生活に関する即物的なものでしかない。

 母を殺した一万はその後、次に心配してくれる者を求めて失踪するしかなくなる。劇中、デパートの館内放送風に描かれる一連の挿話シーンの行き着く先が「幸せな迷子をあずかっております」とアナウンスされるに至り、誰かがきっと探し出してくれる/引き上げてくれるといった、甘い期待をいつまでも抱き続ける幼児にも似た受身的な若者像が描かれている。いざ実家へと戻ったにもかかわらず妹・餓鬼野風船(大川原瑞穂)をはじめとする一家に歓迎されない一万は、結婚し子供がいる幸せの絶頂期の五日を殺し、父親の役割を手に入れてしまうことでとりあえずの幸福を手に入れることで迷子状況から脱する。

 しかし、現実世界で満たされることのないエガオを待つのは先に記した母からの電話なのである。腹から出てしまえば自由なんだから、とぼそりとつぶやくくらいの抵抗しかできない幕切れに解決の糸口は見つからない。唐十郎の紅テントが象徴する母体回帰のようなロマンティシズムの香り漂う願望ともまた異なる極個人的な依存の在り様、ネットの擬似自己と生身の身体との露骨な乖離を生きる帰属先の見えない我々の鏡像だ。笑いと瀟洒な劇スタイルを全て劇中劇でのこととしてまるごとひっくるめた劇構造と他者の眼の導入を加えることにより、この作品は享楽の謳歌と現実原則との間のとてつもない乖離を顕現させ、自己批評性をさらに押し進めたものとなった。もちろん、作品を具現化した山崎彬と悪い芝居の面々がこれまで述べたことに最も自覚的であろうとする者たちであることは言うまでもない。しばらくこの方向で活動することに間違いはない。物事の答えを出すには確固とした自己認識を探る時期を経なければならないからだ。この集団による演劇を巡る思想の軌跡今後も確かめてゆきたい。

 印象的だったその他のことについても触れておこう。餓鬼野里家の畳式の居間を取り囲むように上手と下手と襖を空けた先の三ヶ所に階段があり、奥で一つの通路となっている。横尾忠則による状況劇場のポスターを思わせるブルー地に真っ赤な太陽の色彩と背景の唇の道具が喚起させるアングラぽさは、真中にある普通の居間とのコントラストを演出する。通路に俳優が立てば天井すれすれになる、高さの利用は空間に注がれる視野を拡げることに繋がった。そこを縦横無尽に動き回る俳優から放出される運動量に驚愕しつつも瞠目させられたのは、同時進行のエピソードの演出処理の巧みさである。コロス役が階段を降りて居間に入れば餓鬼野里家の住人へとすぐさま役を交代するという不連続な連続性が劇世界の多様さを過不足なく提示する。俳優に関しては、コントラストの狭間で揺れる人間を悲しみを併せて体現した四宮章吾が強く印象に残った。

 ところで、避けては通れぬはずの事柄があたかもないかのごとき作品が無自覚に垂れ流される中にあって、悪い芝居の試みが珍しいと言ってしまわねばならない小劇場演劇の貧しさとは一体何なのだろうか。
(8月24日 京都芸術センター・フリースペース ソワレ)
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第58号、2007年9月5日発行。購読は登録ページから)

【著者紹介】
 藤原央登 (ふじわら・ひさと) 1983年大阪府生まれ。近畿大学演劇・芸能専攻卒業。劇評ブログ『 現在形の批評 』主宰。Wonderland 執筆メンバー。国際演劇評論家協会会員。
・Wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/fujiwara-hisato/

【上演記録】
悪い芝居『ベビーブームベイビー』
京都芸術センター フリースペース(2007年8月23日-26日)

【作・演出・出演】山崎彬

【出演】
大木湖南(ニットキャップシアター)
大川原瑞穂
四宮章吾
藤代敬弘
西岡未央
吉川莉早
三國ゲナン
梅田眞千子
央形そら(劇団西一風)
山崎彬

【スタッフ】
舞台監督:小島聡太
美術:@gm
大道具:丸山ともき・津田郁久
照明:真田貴吉
音響:中野千弘
小道具:藤代敬弘・四宮章吾
宣伝美術:星野女学園
チラシ衣裳協力:perori
衣裳・メイク:西岡未央・福田明日実(劇的集団忘却曲線)
ヘアメイク協力:大西亮介(No Brand)
演出助手:高田ひとし
演出部:植田順平・田浦明子・土井康治・鈴木暢・森本児太郎
WEB:岳山愛
広報:井上かほり
制作部:大川原瑞穂・村井春也。
制作:中栄遊子

【協力】(五十音順)
劇団西一風
ニットキャップシアター
劇的集団忘却曲線
No Brand perori

【関連情報】
京都芸術センター舞台芸術賞2007
ノミネート演出家は以下の通り。(8月23日から9月23日まで京都芸術センター フリースペースにて上演)

山崎彬・演出(悪い芝居/京都)
桑折現・演出(dots/京都)
筒井潤・演出(dracom/大阪)
笠井友仁・演出(hmp/大阪)
鈴木ユキオ・演出(金魚/神奈川)

▽授賞式・公開選評会
 日程:2007年9月24日(月・祝) 15:00開始
 会場:京都芸術センター フリースペース
 本賞:京都芸術センター舞台芸術賞2007 賞状
 副賞:50万円 2008年度首都圏における上演会場の提供(演出家に対して)


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