◎「人間的な、あまりにも人間的な」ヤン・ファーブル
竹重伸一
観劇後というか観劇中から当惑した苛々とした気分が湧いてくるのを抑えることができなかった。8年のインターバルがあるとはいえこれがあの刺激的な「わたしは血」と同じヤン・ファーブルの作品なのだろうかという思いである。
小劇場レビューマガジン
◎「人間的な、あまりにも人間的な」ヤン・ファーブル 竹重伸一 観劇後というか観劇中から当惑した苛々とした気分が湧いてくるのを抑えることができなかった。8年のインターバルがあるとはいえこれがあの刺激的な「わたしは血」と … “ヤン・ファーブル「寛容のオルギア」” の続きを読む
◎「人間的な、あまりにも人間的な」ヤン・ファーブル
竹重伸一
観劇後というか観劇中から当惑した苛々とした気分が湧いてくるのを抑えることができなかった。8年のインターバルがあるとはいえこれがあの刺激的な「わたしは血」と同じヤン・ファーブルの作品なのだろうかという思いである。
◎「寛容のオルギア」があぶり出したのは コンテンポラリー・ダンスは今 堤広志 ●まずはヤン・ファーブル『寛容のオルギア』評判記 「今どきのコンテンポラリー・ダンスはどうなっているの?!」。最近こうした質問をよく受ける … “ピエール・リガル「プ・レ・ス」(第1回)” の続きを読む
◎「寛容のオルギア」があぶり出したのは コンテンポラリー・ダンスは今
堤広志
●まずはヤン・ファーブル『寛容のオルギア』評判記
「今どきのコンテンポラリー・ダンスはどうなっているの?!」。最近こうした質問をよく受ける。実は本稿も同様の執筆依頼による。そのため、本題であるビエール・リガル振付・出演『プ・レ・ス』(※1)の舞台評に入る前に、その前提となっている「今どきのコンテンポラリー・ダンス」をわかりやすく把握できるような例示と概説に大半を割くことにした。また長話になるが、お付き合い願いたい。
◎鏡に映る苦い自画像 「水洗」の枠を超えて
都留由子
オフ・ブロードウェイよりもっと小さな劇場(フリンジと言うらしい)で大好評を得て、ブロードウェイでの上演に至り、2002年のトニー賞まで取ってしまったというミュージカル「ユーリンタウン」を観た。流山児祥の演出である。
◎青春に取り憑かれた「夢想者」たち 燃えたぎる身体が放った鋭い閃光 高野しのぶ 演劇は、瞬く間に過ぎて忘れ去られていく、豊かでかけがえのない“今”という瞬間の連続だ。どんなに現実離れした夢や虚構を舞台上に作り出しても … “「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」” の続きを読む
◎青春に取り憑かれた「夢想者」たち 燃えたぎる身体が放った鋭い閃光
高野しのぶ
演劇は、瞬く間に過ぎて忘れ去られていく、豊かでかけがえのない“今”という瞬間の連続だ。どんなに現実離れした夢や虚構を舞台上に作り出しても、俳優と観客がいる劇場で上演される限り、演劇はライブ(生)の現実であることから逃れられない。そして、どんなに昔や未来の出来事でも“今”起こったことにしてしまう。そんな演劇の宿命を生かした作品をこそ観たいと思う。
◎神話的ヴィジョンの魅惑と個としての肉体の不在 竹重伸一(舞踊批評) 今迄のBATIKの作品を観てきて踊りのディテールが欠如しているという印象を受けてきた。唯一ディテールを感じたのは「SHOKU」のラスト、数人で横並 … “BATIK「another BATIK~バビロンの丘にいく~」(構成・演出・振付:笠井叡)” の続きを読む
◎神話的ヴィジョンの魅惑と個としての肉体の不在
竹重伸一(舞踊批評)
今迄のBATIKの作品を観てきて踊りのディテールが欠如しているという印象を受けてきた。唯一ディテールを感じたのは「SHOKU」のラスト、数人で横並びになって白い下着姿のお互いの肉体をまさぐりながらゆっくりと前に歩んでくるシーンだけである。ディテールがないということは、つまりダンサーの個としての肉体が感じられないということであり、個としての生(記憶)が感じられないということでもある。代わりに思春期から大人の女性になる微妙な移り目にしか発しないような独特な熱っぽい生理的エネルギーが集合的になって渦を巻くように奔出してくるのである。そして速度。黒田育代の振付の目的はダンサーから余計な自意識を奪い、速度と生理的なエネルギーの美にひたすら奉仕させる抽象的な存在にすることである。
◎未完成でもよい、血の出るような鮮烈さを観よ 田口アヤコ(演劇ユニットCOLLOL主宰、演出家/劇作家/女優) GWの終わりに、面白い舞台作品を観た。 団体名「d’UOMO ex machina」は「ど … “d’UOMO ex machina 「William ShakespeareのAntonius & Cleopatra、あのひあなたはあのかわは」” の続きを読む
◎未完成でもよい、血の出るような鮮烈さを観よ
田口アヤコ(演劇ユニットCOLLOL主宰、演出家/劇作家/女優)
GWの終わりに、面白い舞台作品を観た。
団体名「d’UOMO ex machina」は「どぅおも・えくす・まぁきなぁ」と読む。
「デウス・エクス・マキナ 機械仕掛けの神」という言葉があるが、もともとは古代ギリシアの演劇において使われた、
「劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、
いきなり絶対的な力を持つ神が現れ、
混乱した状況に解決を下して物語を収束させるという手法(Wikipediaより)」
だが、「デウス・神の力ではなく、人間&空間の力によりその収束をもたらしましょう」という意味からつけられたイタリア語とのこと。東京での公演は4度目である。
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◎「本人」が演じる「ウソ」と「本当」 演劇への根源的な問いかけ
第二次谷杉(劇作家)
●巧みなウソとぎこちない本当
すばらしい風景を眼の前にして思わず「まるで絵のよう」と言った事はないだろうか。あるいは「音楽が聞こえてきそう」だと思った事はないだろうか。絵画や音楽、それは時として褒め言葉として使われる。
では「芝居がかっている」「お芝居みたい」というのはどうだろう? ここには人が他者を演じる=演技に関するうさんくささ、不信が表われてはいないだろうか?
◎存在と言葉へのこだわり、たとえばオノマトペなど
高木龍尋
地上32階のレストラン…行ったことはないし、行こうともあまり思わない。高級なのだろうけれども、3階以上のところに住んだことがなく、10階以上の建物にもなかなかお目にかかる機会がないところで育った私には何となく縁遠い気がする。おそらくは、作・演出の鈴江俊郎さんもそのような気分の持ち主ではないだろうか。
◎「ほんもの」を描くだけ 「容赦ない」舞台で
武田吏都(フリーライター)
高井浩子が描く東京タンバリンの作品を観るといつも、「なんて容赦がないんだろう」と感じる。日常にごくありふれて存在する無邪気な(ゆえにタチの悪い)悪意をむき出しにし、そこに何のフォローも与えないのが、私の考える高井作品の特徴だからだ。言ってみればマキロンも絆創膏もなしで、グジュグジュの傷口をほったらかし、みたいな。おおよその場合は自然にかさぶたとなって治癒に至るのだろうし、高井作品に登場するドライな(ときに記号的ですらある)キャラクターを見ていると、人間はそうしてやり過ごして生きていかざるを得ないのだなとも思う。
◎舞踏の様式性と即興性の融合へ、そしてエロティシズム
竹重伸一(舞踊批評)
舞台は横浜BankART Studio NYKの眼前を流れる運河に泊められた艀の上である。開始時間は夜の九時半を過ぎていて、みなとみらいや赤レンガ倉庫が望める180度大パノラマの美しい夜景が広がる中、最初大野一雄の出演した映画『O氏の肖像』の映像が10分程写される。上映が終わると下手側の運河から上杉満代を乗せた水上ボートが音もなく近付いて来て、彼女が舞台に崩れ落ちるように登場した。