◎「人間的な、あまりにも人間的な」ヤン・ファーブル
竹重伸一
観劇後というか観劇中から当惑した苛々とした気分が湧いてくるのを抑えることができなかった。8年のインターバルがあるとはいえこれがあの刺激的な「わたしは血」と同じヤン・ファーブルの作品なのだろうかという思いである。
この舞台が「わたしは血」のような肉体の論理ではなく、あくまでも言語の論理で創られていることは上演が始まってしばらくすると直ぐ明らかになる。純粋にダンス的と言える部分が少ないということが問題なのではない。「わたしは血」の時もそうだったはずだ。そもそもファーブルは三年前に同じ劇場で上演された女性ダンサーのソロ「主役の男が女である時」を観ればわかるように精緻な振付の技術を持っている人ではない。しかししばしば裸体にまで還元されるパフォーマー個々の肉体の個性、パフォーマー相互の肉体と肉体の関係、更にはその肉体達と舞台空間の関係を探求することから舞台が創られており、それが彼自身による独創的な舞台美術とあいまってフィジカルシアターとしての密度の濃さとして表れていたと思う。
ところがこの作品では冒頭の銃を持った人間達にせつかれながらの非快楽的なオナニー競争のシーンから始まって、ほとんどのシーンが言葉で説明できるレベルに表現内容が記号的に納まってしまっていている。例えば冒頭のシーンなら「氾濫する性情報によってもはや強迫神経症的に快楽を強制されてしまっている人達」、その他「商品化されるイエス・キリスト」や「とめどのない消費欲に支配されているスーパーマーケットで買物する女達」といった具合である。唯一「ネオナチに惹かれるロシア女性」を演じた女性の恐らく映画「愛の嵐」のシャーロット・ランプリングを引用した妖しい衣装・演技の魅力が記憶に残っている位である。つまり肉体や空間に対する興味を全く感じさせないのだ。そうした印象に支配されてしまうのには「わたしは血」の時の詩的な言葉とは違って、風刺や皮肉や反語に満ちているとはいえ散文的でわかり易いパフォーマー達が発するセリフの影響も大きい。
この作品のテーマが資本主義の消費文化と極右民族主義に対する批判であることは明瞭である。観客を冷酷に突き放すことを厭わない美学的芸術至上主義者・神秘主義者というイメージが強いファーブルがあえて(だと思う)こうしたアクチュアルで啓蒙的な作品を創ったのは、アフタートークで自ら述べていたようにベルギーの極右勢力の台頭がそれほど危険な状態にあるということなのだろう。それにしてもそうした極右民族主義に対する批判という面は肯けるにしろ、この作品の資本主義批判の描き方は私には些か古めかしくステレオタイプである。
日本の状況でいえば1980年代のバブルの時代ならばこの作品にももう少しリアリティーを感じただろう。だが今現在の、資本主義がテクノロジーの進歩とあいまってその本来の過酷な弱肉強食性を剥き出しにしている時代において問われているのは「消費」ではなく「労働=生存」ではないだろうか。実際今の日本では特に若者の多くは消費以前の段階で最低限生きていくだけのお金を手にするのにさえ四苦八苦しているのが現実であり、まさに肉体そのものが淘汰されようとしているのに反抗の身振りを示すこともできずに「去勢」されたような生を余儀なくされているのだ。ヨーロッパでもそれほど状況が違うとは思えない。チェスターフィールドのソファーになど誰が座っているというのか。肉体を使った表現で今アクチュアリティーを獲得するためにはそうしたところまで観客に考えさせなければいけないはずだ。
ファーブルだけでなく最近来日したほとんどが退屈させられる欧米のダンス公演を観て考えたのは、日本に比べて段違いに恵まれている振付家やダンサーの経済的条件が逆に真にアクチュアルな表現を生み出す足枷になっているのではないかということである。日本の場合ほとんどのダンス関係者がアルバイトをしなければ食べていけないため上述したような底辺労働者の一部であり、みんな身を持って資本主義の暴力に曝されながら日々生きている。ところが欧米の場合ダンスだけで食える人も多いため、逆に生活が家と稽古場とツアーだけに限定されてしまう。こうした「ダンス公務員」のような生活が現実とはずれた、コンセプトやアイディアが先行した抽象的な作品ばかりが生み出されてくることと関係しているのではないだろうか。だからといってもちろん日本の現在のダンス環境を肯定するつもりなどはさらさらないが、アーティストと社会の関係は一筋縄ではいかないようだ。
同時にもう一つ考えさせられたのが演出家とパフォーマーの関係だ。誤解されると困るので前以って断っておくがこれは政治的な嗜好とは全く関係がなく、純粋に芸術的な問題である。この作品はテキストの署名もパフォーマー達との連名になっており、彼らとファーブルの共同創作作品といってもいいもののようだ。しかし残念ながらその民主主義的な作品創りが作品の緩さにつながっているように思われる。一方「わたしは血」の面白さは明らかにファーブルがパフォーマーをほとんどオブジェとして扱い、彼らの存在を生物学的な「血」にトランスフォーメーションさせるに至るまで作品を全体主義的に彼の美学で統制したことによって生まれている。そのようにパフォーマーから表面的な主観性を剥ぎ取っていく行為が、グループ作品の強度のある演出・振付にはまず最初に必要であるように私には思われる。パフォーマーの自由・即興性はその次に問われてくる問題で、あくまでもその順番を間違えてはいけないのだ。
私がファーブルの仕事に魅かれるのは、人間存在をヒューマニズムから遠く離れて動物や昆虫と同じレべルで探求していこうという姿勢故なのである。その点からするとこの「寛容のオルギア」は「人間的な、あまりにも人間的な」作品に止まっていた。
(初出:マガジン・ワンダーランド第151号[まぐまぐ! melma!]、2009年8月5日発行。購読は登録ページから)
【筆者略歴】
竹重伸一(たけしげ・しんいち)
1965年生まれ。舞踊批評。2006年より『テルプシコール通信』『DANCEART』『音楽舞踊新聞』『シアターアーツ』等に寄稿。現在『舞踊年鑑』概況記事の舞踏欄の執筆も担当している。また小劇場東京バビロンのダンス関連の企画にも参加。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takeshige-shinichi/
【上演記録】
ヤン・ファーブル『寛容のオルギア Orgy of Tolerance』(2009年1月初演)
彩の国さいたま芸術劇場 大ホール(2009年6月26日-28日)
演出・振付・舞台美術: ヤン・ファーブル
出演:ダンサー、ミュージシャン、俳優
料金:S席7,000円(メンバーズ6,300円)A席5,000円(4,500円)学生A席(3,000円)