BATIK「another BATIK~バビロンの丘にいく~」(構成・演出・振付:笠井叡)

◎神話的ヴィジョンの魅惑と個としての肉体の不在  竹重伸一(舞踊批評)  今迄のBATIKの作品を観てきて踊りのディテールが欠如しているという印象を受けてきた。唯一ディテールを感じたのは「SHOKU」のラスト、数人で横並 … “BATIK「another BATIK~バビロンの丘にいく~」(構成・演出・振付:笠井叡)” の続きを読む

◎神話的ヴィジョンの魅惑と個としての肉体の不在
 竹重伸一(舞踊批評)

 今迄のBATIKの作品を観てきて踊りのディテールが欠如しているという印象を受けてきた。唯一ディテールを感じたのは「SHOKU」のラスト、数人で横並びになって白い下着姿のお互いの肉体をまさぐりながらゆっくりと前に歩んでくるシーンだけである。ディテールがないということは、つまりダンサーの個としての肉体が感じられないということであり、個としての生(記憶)が感じられないということでもある。代わりに思春期から大人の女性になる微妙な移り目にしか発しないような独特な熱っぽい生理的エネルギーが集合的になって渦を巻くように奔出してくるのである。そして速度。黒田育代の振付の目的はダンサーから余計な自意識を奪い、速度と生理的なエネルギーの美にひたすら奉仕させる抽象的な存在にすることである。

 実は笠井叡のソロや振付作品にも私は肉体を感じたことがない。ソロでは即興的な流れ、振付では反対にフォルムが重視されているという違いはあっても、彼の作品は個人的な記憶と切り離された所で展開されていると思うのである。そういう意味では両者には出会う必然性があったのであり、逆に言うとコラボレーションをしても全く新しい何かが生まれてくる可能性は小さいと予想されたのである。

 その予想が外されたわけではない。やはりBATIKのダンサーの個々の肉体が物質的に浮かび上がってくる瞬間はなかったと思う。彼女達のダンサーとしての今後のキャリアのことを考えるとほとんど何も肉体に蓄積されないまま、ひたすら若いエネルギーを消費させられてしまったのではないかという暗澹とした気分に陥ってしまう。

 だが一方でこの作品はBATIKの作品としても、私が今迄に観た笠井の振付作品の中でも最も優れたものに思えたの事実である。ある意味で笠井は自分の思想・ヴィジョンを表現するための絶好の素材を得たと言えるかもしれない。私はこの作品を観て、初めて笠井叡という人間が良くわかった気がしたのである。

 全体は五部構成だが、実質的には<バースデー><BATIKバビロン><ボレロ>の三部構成になっていて、それぞれのパートが「誕生」「成長」「死と再生」を表現し、更にそれに旧約聖書の悪徳の都バビロンの盛衰も重ねられている。そしてE・A・ポーの詩「大鴉」から想起したという、度々舞台中央の天井から降下してくる四角いガラスケースに入った一羽の鴉がこの作品の影の主人公である。笠井の狙いはBATIKの10人の女性ダンサーの肉体を使って、生死を持った一つの有機的な生命体(宇宙)を創り上げることだったように思われる。彼女達全員は90分間、何かに急かされるように速度を持ってひたすら踊り続ける。それ自体はこれまでのBATIKの作品と同じだと言えるのだが、笠井の振付は黒田の振付よりも女性の直接的な生理的感覚が希薄になった代わりにフォーマリスティックで緻密であり、BATIKのこれまではほとんど無目的で子供じみて見えた加速する踊りの先に断崖絶壁と死が待ち受けていることを<BATIKバビロン>の景辺りではっきりと我々に予感させ慄然とさせる。

 BATIKのダンサーは思春期の女性の特殊性から解放された。彼女達の踊る姿は我々現代人一人一人の生と重なってこないだろうか? 止まらずにひたすら先に先にと突き進むことを強いられる資本主義の過酷な競争社会に生きる我々の運命も彼女達は暗示しているのではないだろうか? 現代社会もこのままのペースで生を加速していけば、いずれ破滅は避けられないだろう。笠井はそう確信しているように思えるし、それに対して運命を哀れんだりといった何らかの異議申し立てをするつもりはないようだ。一つの自然現象のように冷酷にそれを観察しているだけである。

 それがこの作品の魅力と物足りなさの両方に結びついている。笠井には原罪というものは存在しないようだ。現代の人類がカタストロフに向かっているとしても、それに対して何ら倫理的責任は感じていない。寧ろ「誕生と死と再生」という神話的枠組みからすると一つの必然的なプロセスを歩んでいると考えている。古代世界文化の中心都市バビロンも衰亡したように。ユダヤ=キリスト教の教えではバビロンが衰亡したのはその退廃の倫理的罪故ということになるのだが、笠井にとっては衰亡は倫理的罪の報いではなく、エクスタシーの後の虚無のように膨れ上がったエロスと欲望が齎す生理的な成り行きである。「死と再生」の儀式こそが生命力を更新し、その儀式には供儀として捧げられる一人の人間が必要とされる。だから最後にラヴェルの「ボレロ」を持ってくる必要があったのだ。ちなみにこの<ボレロ>の景は、部分的に観れば振付としては最も秀逸な景であり、特に後方に半円形に並んだ九つの崩れた城壁の石の上や下の空間を自在に使った九人の黒いスリップ姿のダンサーのアンサンブルはひたすら一定のパターンの繰り返しながらもリズムに乗った腕や手のしなやかな波打つフォルムが美しい強く記憶に残る踊りだ。ただ中央の同じ衣装の黒田のソロは表面的な気持ちが上滑りした、肉体から発するものの弱い踊りだったのが残念だが。

 しかしデカダンスと結びついた逃れがたいある魅惑を感じながらもこの作品で示された笠井の神話的ヴィジョンに私はやはり疑問を提出せざるを得ない。神話はあくまでも集合的な記憶であり、個人の記憶は考慮されることはない。それ故に最初に述べたことに戻れば、この作品では<ボレロ>での黒田のソロを含めて個の肉体が見えてくることがないのである。もちろん現代人とて神話的世界観と全く無縁な所で生きているわけではないが、一方で社会的存在として歴史を生きているということも誰も逃れることができない現実である。その現実を無視して現代のダンスの表現も成立するはずがない。言葉を換えれば肉体に影がないということであり、そのことが黙示録的なモチーフに基づいたこの作品では表現を今一歩表面的な所で止めてしまったように思われるのである。

 アフタートークを聞くと実は笠井自身がこのことに全く気づいていなかったわけではなく、その肉体の影の不在を補う存在として使うことを思いついたのが鴉だったようである。確かにそれはこの作品に陰翳と核を与えはした。しかしポーの「大鴉」の詩では最後にランプの灯によって床の上に漂う鴉の影が話者の「私」と我々読者の内面に深く浸透していくのだが、この作品の鴉の存在は同じように深くは、最後は赤いカーテンに映る影と化したダンサー達の肉体にも我々観客の内面にも浸透しなかったのである。
(初出:マガジン・ワンダーランド第142号、2009年6月3日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
 竹重伸一(たけしげ・しんいち)
 1965年生まれ。舞踊批評。2006年より『テルプシコール通信』『DANCEART』『音楽舞踊新聞』『シアターアーツ』等に寄稿。現在『舞踊年鑑』概況記事の舞踏欄の執筆も担当している。また小劇場東京バビロンのダンス関連の企画にも参加。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takeshige-shinichi/

【上演記録】
BATIKanother BATIK~バビロンの丘にいく~
世田谷パブリックシアター(2009年03月26日-29日)

[構成・演出・振付]笠井叡
[出演]黒田育世/伊佐千明/植木美奈子/大江麻美子/梶本はるか/田中美
沙子/寺西理恵/中津留絢香/西田弥生/矢嶋久美子

全席指定 一般A席4,000円(1・2階)/B席3,500円(3階)※当日は各500円増
 ※学生A席3,000円/B席2,500円(ハイウッドにて前売のみ取扱い)
友の会会員割引 A席3,800円 世田谷区民割引 A席3,900円

[主催]BATIK
[提携]世田谷パブリックシアター
[後援]世田谷区


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