◎「ほんもの」を描くだけ 「容赦ない」舞台で
武田吏都(フリーライター)
高井浩子が描く東京タンバリンの作品を観るといつも、「なんて容赦がないんだろう」と感じる。日常にごくありふれて存在する無邪気な(ゆえにタチの悪い)悪意をむき出しにし、そこに何のフォローも与えないのが、私の考える高井作品の特徴だからだ。言ってみればマキロンも絆創膏もなしで、グジュグジュの傷口をほったらかし、みたいな。おおよその場合は自然にかさぶたとなって治癒に至るのだろうし、高井作品に登場するドライな(ときに記号的ですらある)キャラクターを見ていると、人間はそうしてやり過ごして生きていかざるを得ないのだなとも思う。
けれどもバイ菌で汚染された傷口が身体に深刻な影響を与えたり、醜い傷痕を残す場合もあるだろう。それに対するケアの意味でも何らかの救いを与えてカタルシスをもたらすのが演劇的手法としては(いい・悪いではなく)一般的だと思っていた。ゆえに高井作品のこの容赦のなさには毎回驚いてしまうし、観て数日間はどんよりとした澱のようなものが腹の中に溜まった感覚になる。そうした意味で、私にとって東京タンバリンの作品を観ることは快いとは言い切れない体験だが、けして不快ではない。取り繕わない自分と対面させられて暗澹たる思いがしながらも、同時に自己が浄化されてゆくような-そうか、それこそが“カタルシス”と呼ばれるものか。
で、「静かな爆」だ。
爆… なんだろう。タイトルのなんだかモヤッとした寸止め感とは対照的に、タイトル、劇団名、作・演出家名しか書かれていない、白一色のチラシビジュアル。予備知識は一切持たずに、劇場に足を運んだ。
舞台を囲むように、天井から数十本の単管がぶら下がっている。鉄製の幕、とでも言おうか。役者が少しでも触れると、耳をつんざくような轟音が響く。ちっとも“静か”じゃない。
主な舞台は、出版社の休憩室。某編集部で、聴覚に障害のあるイラストレーター・聡美が働き始める。彼女に対する周囲の反応はさまざま。かいがいしくフォローする者、あからさまに迷惑がる者、彼女にごく一般的な恋愛感情を抱く者…。聡美はもっと働きたいと意欲を見せるが、もろもろの事情からそれもままならない。そしてある日突然、彼女はみんなの前から姿を消してしまう。
というように物語の軸は聡美なのだが、観劇してしばらく経った今思い起こすと、案外と彼女の印象が薄いことに気づく。もちろん演者の演技の問題ではない。事実、大田景子は(まるでメリー・ポピンズのごとく)風のように現れて去る聡美を、持ち前の軽やかさと透明感で好演した。なので思うに、聡美は登場人物の中で唯一ブレない人間であるから、ブレまくる周囲の人々と違って印象に残りにくかったのではないだろうか。…だがしかし、ふと疑問が湧いた。聡美がブレていないとなぜ言い切れる? 聴覚障害者である聡美は言葉を発さず(発する場面も少しある)、自分の気持ちの動きを観客に表明しないが、その間にも胸中には当然ながらさまざまな思いが渦巻き、その結果が“姿を消す”ことであったはずだ。だがわれわれ、いわゆる健常者は(一部の人を除き)そのことに気づけないし、気づこうとしない。そこには障害というものがもたらす、どうしようもない隔たりがある。もちろん絶望的ではないにせよ。その事実の突き付け方にも、私は高井の“容赦のなさ”を感じるのだ。
オープニングからラストまでの間に登場人物の印象がガラリと変わることが、高井作品ではままある。わかりやすく言えば、善玉キャラが悪玉に、悪玉が善玉にいつの間にか入れ替わっていたりする。本作ではもともと聡美と知り合いだった編集者・原がその立場を担う。原は何かと聡美を気遣い、周囲の人々の彼女への無神経さをなじる。だがそこにはどこか偽善的な空気が漂い、最終的には聡美の自立を妨げるような行動をとるに至る。その逆で、聡美との距離を徐々に近づけて行くのが同じ編集部の三島と近藤だ。だが原を含めた彼女たちはある意味、こうした題材を扱うにおいてはステレオタイプな人物といえるかもしれない。
私が最も東京タンバリンらしいキャラクターだと感じたのは、編集部に出入りするカメラマンの真田だ。彼は聡美の耳が聞こえないという事実を誰よりもフラットに受け止めているように見える。聡美という人間自身に興味を持ち、筆談で対話しながらじっくりと彼女に向き合おうとする。事実、聡美と真田の筆談のシーンは、作品中最も体温の高さを感じさせ、観客に安堵感をもたらしてくれる。ところがだ。そんな真田も聡美が持ち歩いていた小鳥の死骸の処理を巡って、それまでには見せなかった黒い表情をのぞかせる。ダメ押しに、「きれいな人間なんているのかよ」のせりふとともに捌けていくのだ。ここでの彼の言動はとりたてて酷いというほどのものではないが、これまでの真田を信頼し、大げさかもしれないが彼を本作唯一の“良心”的にとらえていた観客を奈落に突き落とす威力はあったと思う。かく言う私もその一人だが、と同時にゾクッとした一種の恍惚感のようなものが湧き上がったのも事実。しつこいようだがこの“容赦なさ”を味わうことが、東京タンバリンの作品を観る醍醐味なのだ。M的感覚もそこにはある、のかもしれない。
それにしても、登場人物の誰をも信じることができないというのは、実はかなりすごいことではないか。
聡美を巡る物語と並行して、ある夫婦が描かれる。美大の同級生のカメラマン・五十嵐と結婚した由紀子はセンスもよく料理上手な主婦。その日常を事細かにブログにアップしているため、ブログを見ない夫よりもその仕事仲間(聡美がいる編集部の面々)の方が家庭の事情に詳しいという皮肉な図が成立している。今なら実際あることだろうし、ブログのコメント内容によって物語を進行させる方法もとても面白かったのだが、この夫婦のエピソード全体が聡美のエピソードともっとしっかり絡むと良かったのかもしれない。もちろん群像劇ではあるのだが、本作は大きな柱がこの2本なため、片足で立っているような少し心許ない感覚を覚えたのも事実。どちらのエピソードがクローズアップされるかは観客それぞれで異なるという面白さはあるのだが。
ところで、前出の聡美と真田の筆談のシーンで見逃せないやりとりがあった。
聡美「(省略)きたないものをきれいなものとしてわたしはみてるんじゃないかとおもうことがあります」
真田「ひとはきれいなものがすきですからね」
聡美「ほんものをみようと、みせようと、しないのかもしれません」
拍子抜けするほどストレートに、高井作品の本質を表している。この文中で幾度も“容赦ない”と書いたが、高井本人はきっとピンとこないだろう。彼女にとっては容赦ないこともなんでもなく“ほんもの”を描いているにすぎないから。人間は怠惰で、常に快いものを求めがちな生き物であるだけに、東京タンバリンにはこれからも“ほんものを、みせようと”する集団でいてほしい。いてもらわねば。
(初出:マガジン・ワンダーランド第131号、2009年3月18日発行。購読無料。手続きは登録ページから)
【筆者略歴】
武田吏都(たけだ・りつ)
1973年、北海道札幌市生まれ。早稲田大学人間科学部卒。情報誌の演劇・アート担当を経て、フリーのライターに。「シアターガイド」「ぴあ」「レプリークbis」「Audition」「Tokyo Walker」「DVDでーた」などで、演劇・映画・海外ドラマ関係の記事を執筆。
【上演記録】
東京タンバリン「静かな爆」(下北沢演劇祭参加)
下北沢・駅前劇場(2009年2月4日-9日)
作・演出:高井浩子
【CAST】
瓜生和成
森啓一郎
大田景子
遠藤弘章
大湯純一
斎木恭兵
島野温枝
田島冴香
萩原美智子
坂田恭子
柴田薫
青海衣央里
皆戸麻衣(今回出演予定のミギタ明日香が急病のため代役出演)
【STAFF】
作・演出:高井浩子
舞台監督:佐藤恵・松下清永+鴉屋
舞台美術:杉山至+鴉屋
音響:中村嘉宏
照明:橋本剛(colore)
宣伝美術:清水つゆこ
当日運営:高田制作所
製作:東京タンバリン
協力:財団法人東京都歴史文化財団 東京芸術劇場
チケット料金(日時指定・全席自由)前売・予約3,200円 当日3,500円
■各種割引(・ 杉並割引 2,800円
・ 高校生以下・シニア(60歳以上)割引 2,000円
・ ★特別割引(2月5日15時の回) 一律2,500円(高校生・シニアは2,000円)
・ リピーター割引 2,000円