d’UOMO ex machina 「William ShakespeareのAntonius & Cleopatra、あのひあなたはあのかわは」

◎未完成でもよい、血の出るような鮮烈さを観よ  田口アヤコ(演劇ユニットCOLLOL主宰、演出家/劇作家/女優)  GWの終わりに、面白い舞台作品を観た。  団体名「d’UOMO ex machina」は「ど … “d’UOMO ex machina 「William ShakespeareのAntonius & Cleopatra、あのひあなたはあのかわは」” の続きを読む

◎未完成でもよい、血の出るような鮮烈さを観よ
 田口アヤコ(演劇ユニットCOLLOL主宰、演出家/劇作家/女優)

 GWの終わりに、面白い舞台作品を観た。
 団体名「d’UOMO ex machina」は「どぅおも・えくす・まぁきなぁ」と読む。
 「デウス・エクス・マキナ 機械仕掛けの神」という言葉があるが、もともとは古代ギリシアの演劇において使われた、
「劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、
 いきなり絶対的な力を持つ神が現れ、
 混乱した状況に解決を下して物語を収束させるという手法(Wikipediaより)」
だが、「デウス・神の力ではなく、人間&空間の力によりその収束をもたらしましょう」という意味からつけられたイタリア語とのこと。東京での公演は4度目である。

 その舞台は客入れ中から始まっている。4階の会場全体を見渡せるロビーのようにつくられた、建物の5階で受付を済ませ、階段にて4階の会場に降りる。アサヒアートスクエアの楕円形の空間に、弧を描くように設けられた2列の客席。舞台奥には4段のイントレが舞台装置として建てられているのだが、座る場所によって、それは「上手寄り」とも「下手寄り」とも見れる。座る場所によって、見えるものがまったく異なることは確かである。わたしが観劇したのは初日だが、二日目の楽日には客席数以上の観客が来場したため、舞台上にも客席を設けたらしい。
 真っ赤なブラジャーをつけた二人の女優と、牛の着ぐるみを着こんだ男優1人以外は、11人のパフォーマー全員白いTシャツにジーンズ。GAPのCMみたいで、アメリカ的なイメージを思わせる。また、舞台監督(役?)の男性一人は始終普段着で空間内にうろうろしている。パフォーマーたちは、客入れ中も思い思いに動き回り、観客に挨拶してくる者もいる。
 開演時間になり、演出家からパフォーマーに「今日の役割分担」の指示の声が出され(「○○さん●●担当お願いします」といったような)、始まる、その舞台の様子は、特異である。台詞らしい声を発している人物は、全員、台詞を覚えるではなく、手に持った台本を読みつづける。そのまわりでは、物語の内容に関係があるのかないのか、さまざまなことをしている男女が戯れる。飛び跳ねたり、寝転んだり、追いかけっこをしたり、毛糸で指編みをしたり、チェスをしたり、似顔絵を書いたり、写真を撮ったり、なにか乾杯の場面のようなパントマイムをしたり、台本を破り散らかしたり、そして踊ったり。この世界では、「踊り」が重要なキーワードになるらしい。ダンスミュージックとして、場内には音楽が絶え間なく流れつづけている。台詞を読む声さえ、ダンスミュージックのひとつなのかもしれない。
 シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』の42もの場面は、すべて唐突に始まり、唐突に終わる。音楽や照明の変化はあるが、速すぎて観客にはついてゆけない。物語はすさまじいスピードで運ばれるため、なんのことだかわからないシーンのほうが多い。役の人物はあいまいに演じられ、誰がどの役の台詞を読んでいるのかまったくわからない。クレオパトラ、シーザー、アントニーの3人だけは、かろうじて「らしさ」を保っている。また、ひとりの女優がすべての場について、シーンナンバーと場所の説明を入れる。
 途中に全員アカペラで歌うシーンが入る。物語、死んでゆくクレオパトラに対する挽歌のような、国歌斉唱、共同体の一員としての証を示しているかのような美しいシーンである。
 また、しばしば観客参加も促される。観客を舞台上のところどころに案内したり、舞台装置として転がっている毛糸玉を観客とキャッチボールしたり、死と女性的なものの象徴として「赤いもの」を使用しているのだと思われる「苺」を観客にふるまったり。この観客参加は、演出家角本によると、以下のような意味があるのだと言う。
「劇場にある・いる全てが作品に影響を何らかの形で与えるよねってことの確認。
一人一人の一人芝居だと思っているので演者も他の誰かにとっては観客だし。
一人の演者を中心に(物理的にとは限らないが)近いところにより共演者っぽい人がいて、遠いところにより小道具やら舞台やらっぽい人がいる。その全員が意識がある限りその一人の演者にとっては観客。」
 「遠いところにより小道具やら舞台やらっぽい人がいる。」という記述などはとてもユニークな考え方だし、演者と観客との垣根は、とても低く設定されているということなのだろう。

 演出家/角本敦の演出は、翻訳とサウンドトラックを作ることから劇作を始めるのだと言う。いままでに手掛けた演目は
・November 2005@Antwerpen, “Mandragola” (Niccol Machiavelli)
・August 2006@Toga, “Les Bonnes” (Jean Genet) (註:ジャン・ジュネ作『女中たち』)
・February & April 2007@Ikebukuro, Tokyo, “金春禅竹の定家に着想を得た一時間 あるいは 遺言”
・August 2007@Toga, “Lucretia” (William Shakespeare) (註:シェイクスピアのソネット『ルクレティア』)
・April 2008@Komaba, Tokyo, “Игорь Стравинскийのle sacre du printempsに着想を得た一時間 あるいは 鬪争とか逃走とか”
 (註:イーゴリ・ストラヴィンスキー作『春の祭典』に着想を得た、使用テキストはプラトンの対話篇『クリトン』)
・August 2008@Asakusa, Tokyo,『めでいあ』(Lucius Annaeus Seneca)(註:ギリシャ悲劇エウリピデス作の『メデイア』ではなく、セネカ作)
の6作。すべて、フランス語、英語、ギリシャ語、ラテン語の原文から、角本自身が日本語への翻訳を行っている。それは「角本語」とも言える、単語の直訳のみ、ぎりぎりの台詞として立ち現れる。
 『William ShakespeareのAntonius & Cleopatra、あのひあなたはあのかわは』のエンディングにて、演者を変えて5回繰り返されるシーザーの台詞は以下のような文体だ。

Caesar おそらくおそらくおそらく
それ、かく女が死んだ。だって女の医師は伝えた私に
女は追い求めてきたと、結論を無限に
楽な道の数々を死へ。担ぎ上げよ女の寝床を、
そして担え女の女中たち、この祠から。
女は葬られにゃならぬ傍らに、女のAntoniusの。
ない、墓は大地に他に、納めてるなどその中に
二人、かく誉高き。気高い結末・これら、は
うつ、それを結んだ者を、そして二人の物語は
ない少なくは、憐れまれることにおいて男の栄光よりも、それが
齎した、二人に悼まれるべき結びを。私たちの軍勢はしよう
厳かな装いで列することにこの葬儀へ、
それから、Romaへ。さぁ、Dolabella、みて
気高い秩序をこの偉大な厳かさに。

 原語のリズム感を重視し、古語も多用した翻訳である。この角本語の音声化が成功すると、台詞が音になって耳のなかにながれこんでくるかんじがある。独特のせりふ術を追及しているといえよう。意味よりも、音を重視した演出である。
 ちなみに、白水uブックスの小田島雄志氏訳の『アントニーとクレオパトラ』では、以下のような訳文になっている。

シーザー おそらくそれを用いて
死んだのであろう、女王の侍医から聞いた話だが、
女王は安楽に死ねるあらゆる方法を求めていたそうだ。
女王のベッドをかつぎあげよ、侍女たちはこの廟(たまや)から
はこび出すのだ。クレオパトラはアントニーのそばに
埋葬してやることにしよう。地上のいかなる墓も、
これほど名高い二人を納めることはまたとあるまい。
このようなおおいなる出来事には、それをひき起した
当の本人までも胸をうたれる。二人の悲しい物語は、
そのもとになったこの身の栄光とともに、永く
世人の同情を誘うだろう。わが軍は威儀を正し、
この葬儀に参列するように。それをすませてから、
ローマへ凱旋だ。ドラベラ、おまえに手配を頼む。
この大葬儀には最高の礼をつくさねばならぬ。

 角本訳に比べると、ずいぶんとわかりやすく無難な印象である。

 さて、このように、実験的な要素を積み重ねた公演の、どこが一番「面白い」のか。わたしは、この公演について、4/29の稽古場での通し、5/8の公開ゲネプロ、5/9の本番初日の3回、この作品を観劇しているのだが、じつは稽古場での通し、ゲネプロのほうが興味深く観ることができ、本番初日の観劇が、一番感動が少なかった。
 パフォーマンス自体にも即興的な部分が多々ある。台詞を誰が読むか、そのときにどの立ち位置で、何をしているか、すべてその瞬間のパフォーマーたちにまかされている。演出ががちがちに決まっている作品に慣れた観客にとっては、これは驚くべきことである。しかし、的に当たったときの快感は大きいが、命中率は低いと言わざるを得ない。
 稽古場での通し、公開ゲネプロでは光っていたパフォーマンスが、なぜ、本番初日には、爆発的な化学反応にならなかったのだろうか?
 角本氏から、「飼っていたハムスターたち」が演出のイメージソースなのだ、という話を聞いたことがある。多いときには何十匹と飼っていた経験があるらしい。その群れはいつまで見ていても飽きないのだろう。
 パフォーマーたちには難しいことを求めているわけではなく、「2、30年生きていれば誰でもできること」を舞台上でやってほしいと思っているのだと言う。それでも、この公演のためには準備期間半年以上、1ヶ月以上の稽古を重ねている。演出家が求めることと、パフォーマーが持っているものが合致したときが演劇の幸せな瞬間だ。この作品においてパフォーマーに求められていることは、「2、30年生きていれば誰でもできること」という言葉よりは、かなり高度なことであると思う。その言葉どおりの成果物をパフォーマーが提出できるかどうか、その精度を上げることが、作品の完成度、そして観客の満足度につながるのではないだろうか。

 しかし、演劇は、煮込みながら食べる鍋料理のようなものであるとわたしは考える。もちろん、フルコースディナーのような、順番もメニューも焼き加減も決まった演劇があることも否定できない。しかし、未完成でもよい、このことはなかなかわかってもらえないのだが、たとえばサッカーなどのスポーツの試合のように、二つのチームが死闘を重ねる、それはけっして「完成」することはない。ほかにうまい例えが思いつかないのだが、「つまらないくらいなら未完成でもよい」とわたしは考えている。もちろん上のレベル、そして完成を目指して稽古を重ねるのだが、本番、逸脱した冒険に出てもかまわない。それが失敗に終わろうと、少しでも上を目指す。なかなか出来ることではないが、それが成功したときの快楽。
 乱暴な言葉で言えば、すべての演劇は即興であるべきである。毎ステージの観客との出会い、触れたら切れ、血が出るような新鮮さ。その時分の花を生かすこと。d’UOMO ex machinaでは、わざと未完成をつくろうとしているようにも見える。
 また、演劇とは至極個人的なものである。客席で隣に座っている恋人がいたとしても、同じものを観ているとは限らない。同じ場所で笑い、同じ場所で泣くような作品は稀である。このd’UOMO ex machinaの公演のように、同時多発的なパフォーマンスならなおさらだ。

 この公演と共通項を見いだした公演があるので、書き留めておきたい。2006年4月4日(火)& 5日(水)に行われた、(-2)LDKという団体の『root in work』という作品である。わたし自身、この公演にパフォーマーとして参加し,客席から見たわけではないため、もしかすると観客からの見え方はまったく違うのかもしれない。しかし、どちらも、「パフォーマーはやりたいことをやればよい」という、パフォーマーの自立に立脚したこの2つのパフォーマンスは、渋谷のスクランブル交差点が青になった瞬間のように美しい。

 (-2)LDK『root in work』は、die pratze M.S.A. collection 2006の一企画として麻布ディープラッツで行われた。「(-2)LDK」は「まいなすにーえるでぃーけー」と読む。お散歩演劇POTALIVE主宰(現:PLAYWORKS主宰)の劇作家/岸井大輔氏と、建物を建てない建築家/miri-meterらによるアートプロジェクトである。岸井氏の呼びかけによって集まったパフォーマーが、照明家・音響家をあわせ、ダンサー・俳優など16名。2分おきに「on」「off」2種類のダンスを繰り返す、等、16種類の異なったタイムパターンに沿って、30分間の客入れ時間を含め、90分間のパフォーマンスを行う。タイムパターンは、上演時間60分の最後の2分間のみ、16人全員が「on」になるように組まれている。観客はそれを歩きながら体験する(実際は通路内に自分のスペースを見つけ、座って観劇した観客の方が大勢だった)。わたしが担当したパフォーマンスは、「off」5分はヒーリングミュージックをiPodでかけながら眠り、「on」7分は黒板に向かって、同居人の男性に対するメッセージを書き続ける、というものだった。タイムのルールだけが決まっており、そのなかでなにをしても自由、「on」のパフォーマンス内容には、「卵焼きを作る」「観客の一人を選び、デートする」「お菓子の家から外に出て、冒険する」など、奇怪なものが含まれていた。
 この2つの公演の共通点は、d’UOMO ex machinaの稽古場での通しを観た際に感じたことだったのだが、実際今回の初日のパフォーマンスを観劇しながら、何度も立ち上がって舞台上を歩き回りたくなった。d’UOMO ex machinaの公演を歩きながら観ることができたら、どんな感じになるのだろう?

 観客にとっては奇異にうつる舞台上のさまざまは、角本にとっては「ふつう」のことなのだと言う。
 「私にとってはいまの東京に転がってるいろんな舞台よりもShakespeareや古代地中海人の舞台の方がふつうの営みにみえるのです。
だからいまの東京の周囲のいろいろになんでそんな変なことをやってるんだろうといぶかしげにみつめつつ、自分のふつうがこれですって示してみてるだけ。新しいことを何一つやってはいないと思う。ほんとに何一つやってないと思う。」
 次回作は「楊貴妃」の物語上演を予定しているとのこと。どんな「ふつう」が出てくるのか、楽しみである。
(初出:マガジン・ワンダーランド第141号、2009年5月27日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
 田口アヤコ(たぐちあやこ)
 1975年11月12日生まれ。岩手県盛岡市出身。東京大学美学藝術学専修課程卒。演劇ユニットCOLLOL主宰。演出家/劇作家/女優。劇団山の手事情社・劇団指輪ホテル等での俳優活動を経て、自身の劇作を開始。95年より、劇作家岸井大輔氏に師事。blog『田口アヤコ 毎日のこまごましたものたち』http://taguchiayako.jugem.jp
現在、毎週水曜夜に(演劇雑誌)を読む会を世田谷区内にて開催中。

【上演記録】
d’UOMO ex machina 公演『William ShakespeareのAntonius & Cleopatra、あのひあなたはあのかわは』
アサヒ・アートスクエア(2009年5月9日-10日)

記憶と戀と運命と。
體制は變わり、二人は變わらず。ならば二人、生きてはいられない。
體制の記憶はのちに絶え、二人の記憶、絶えはせず。
想い懸く、よどみせせらぎながれおち、絶えずに川は何を聴いたか。

 記憶         秋山 江奈
  制作        吾妻 由日
    男       伊藤 敬市
  舞台監督      小川 貴大
翻訳・演出・美術    角本 敦
  記録        片山 春樹
    運命      金崎 敬江
   衣裳も      川合 恵生
 記憶         川口かおる
   記憶       北山 聖子
    照明      須川 唯
記憶          瀬上 摩衣
   女        土屋 麻悠子
     記憶     中西 弘樹
   記憶       中村 槙一郎
      記憶    中村 仁美
  戀         中村 理恵
     記憶     西山 啓介
 戀          藤田 祐子
   記憶       星 真弥
運命          丸房 君子
    記憶      免出 知之
  照明で       守矢 真由子
音響など        吉田 明代
   記憶       萬 直行 ほか

観劇料:2500円(1ドリンクつき)
会場協力:アサヒビール株式会社


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