◎共時的構造を重ねて「歴史」を提示する 平田版「桜の園」の予感も
中西理(演劇コラムニスト)
平田オリザによる「ソウル市民」3部作は非常に興味深い舞台であった。この3部作はそれぞれが独立した作品でありながら、あきらかに同一の形式(最後に明らかに不条理なことが起こって終わることなど)が変奏を加えながら反復されるという特異な構造を持っている。そして、その形式性がちょうどクラシック音楽における交響楽がそうであるようにそれぞれ独立した音楽としてのまとまりをそれぞれの楽章が持っているのにその形式がひとつのかたまりとしての一体感を与えるというような構造を持つ、ここにこの3部作の大きな特徴があった。
2005年12月にシアタートラムで、フレデリック・フィスバック演出の「ソウル市民」を観た。そこではすでに今回の「青年団」による「ソウル市民」三部作予告の仮チラシが配布されていたが、そこに「本物は一年待ってください」というような意味のキャッチコピーが使われていて、「なんと傲慢なことよ」と記憶に残っていた。が、なるほど、今回の三部作を並べて観ることができたのは貴重な体験であり、あながちあのキャッチはおおげさというわけではなかった気がし始めた。
1990年代初頭、現代日本演劇の静かな破壊者として現れ、シーンを大きく揺さぶった平田オリザだが、1982年生まれの自分は深夜のNHK-BS2で初めて彼の芝居を観たとき、「何だか地味なことやってるなぁ」とひどく冷淡だったことを覚えている。これは演劇である必要があるんだろうか、とも。
ポツドール的なるものを挙げるとすると、以前なら例えば暴力やエロといった言葉が浮かぶこともあっただろうが、今となってはそういったことを切り口にポツドールを捉えようとしてもどこか本質を取り逃がしてしまう気がする。本質というと何か実体がありそうだが、そういうものでもなく、あえて言うなら「空気」と呼ぶような目に見えないものである。舞台の上に充満する「空気」を感じるために私たちはポツドールを観ているのだろう。観客だけでなく、俳優、スタッフ、演出も含めて全ての者がその「空気」に奉仕しているような感覚を受ける。
私たちは、生きるために生まれてくる。その前提があるから、懸命に生きようと思うことができる。では、死ぬために生まれさせられるのだとしたら? いや、そうでなくとも、ある目的のために<生>を強いられるとしたら? それでも、私たちは同じように懸命に生きることができるだろうか。