エジンバラ演劇祭2006-7(最終回)

◎明確な戦略で積極参加を 日本勢の活躍に期待
中西理(演劇コラムニスト)

写真はSt Stephenの全景(筆者撮影)AURORANOVA FESTIVAL(アウロラノヴァ・フェスティバル)*1はエジンバラ・フリンジフェスティバルで唯一、海外から参加の劇団も含めフィジカルシアターとダンスの演目だけを集めて行っているフェスティバルである。これまでの年でも複数のカンパニーがFringe FirstやHerald Angel Awards といった優れた公演を対象とした賞を受賞しており、Fringe公演ながら公演内容の水準の高さには定評があり、地元メディアからも注目され高い評価を受けている。 今年は全部で13演目ですべての演目を見ることができた。

劇場入り口(筆者撮影)
【写真は劇場入り口。上は全景 ともに筆者撮影】

このフェスティバルは2001年からスタートして今年が6回目。エジンバラ演劇フェスティバルでは英国圏の作品が演目の中心で、ダンスもアビニョンフェスティバルなどと比べるとそれほど充実しているとはいえないのだが、AURORANOVA FESTIVALはそのなかの例外的な存在なのだ。ドイツ人の振付家であるArtistic DirectorのWolfgang Hoffmann(ウォルフガング・ホフマン)がすべての作品を自らの目で実際に見て選び、招へいして上演していることもあってか、演目もきわめてユニークで、今回も英国以外にフランス、ドイツのほかにイタリア、ポルトガル、チェコ、ロシア、ノルウェーと国際色豊かなカンパニーが顔をそろえた。日本では見ることができないようなちょっと変わった作品に出会うことができる。

実は日本のカンパニーとしては唯一、「水と油」がここで公演をして、ここでHerald Angel Awards を受賞したことが、私がこのフェスティバルの存在を知るきっかけとなったのだが、その後もこのフェスティバルの作品を観劇することでスペイン・バルセロナに本拠を置くNATS NUS DANSA(トニ・ミラ)など日本には知られていない優れたカンパニーと出会うことができた。そしてそのことが、私をエジンバラの虜にして毎年訪問することになった大きな原因となった。

会場であるSt Stephenは教会を改装した建物で、エジンバラ・フリンジフェスティバルの中心エリアであるオールドタウンからかなり離れたニュータウンの真ん中に位置していて、立地からいえばお世辞にもいいといえない場所ではあるのだが、これまでの実績がものを言ってか、批評家も注目していて、作品がメディアに紹介されることも多いためか、新聞・雑誌などで好意的に紹介された人気の演目では入り口に長い列ができるような盛況ぶりとなっている。

写真は、En Forme公演。(Cie Didier Theron提供)
【写真は、En Forme公演から。 (Cie Didier Theron提供)】

個人的に今回もっとも注目していたのはCie Didier Theron*2の「En Forme」だ。フランス・モンペリエに本拠を置くディディエ・テロン(Didier Theron)の振付作品である。Didier Theronは毎年のように京都で開かれる国際ダンスワークショップフェスティバル「京都の暑い夏」に講師として参加しており、京都のダンスカンパニーMonochrome Circusにも振付作品「借家人」を提供するなど関西ではおなじみのアーティストだ。これまでソロ作品「ラスコーリニコフの肖像」などは京都で何度か上演を見たことがあるが、この作品は2004年に「カフカ 断章」の表題で静岡の演劇祭で上演されたが、その時は見ることができなかったので、今回が初の観劇となった。

舞台上には4つの家具(ベッド、マット、椅子、ソファ)が置かれていて、舞台が一度暗転した後、明転するとそれぞれの家具のところにひとりずつのパフォーマー(1人の男性ダンサーと1人の女性ダンサー)がスタンバイしているところから、このパフォーマンスははじまる。

ほとんど動かないあるいは非常にゆっくりとしているパフォーマーの動きがしだいに大きな動きとなってきて、それぞれ個別に動いていたのが、動きが大きくなるにつれて、接近したりついにはコンタクトしたりとそれぞれに関係を持ちはじめる。

邦題を「カフカ断章」としたようにこの「En Forme」という作品はいくつかのカフカの短編からインスパイアーされたイメージを基に振り付けられた作品だが、そこにはナラティブ(物語)の要素はあまりない。どれか特定の小説が原作であるというよりはカフカのいくつか短編から取られた断片的なイメージをコラージュするように作品は構成されている。最後の部分でモーツァルトの音楽が使われるが、ほとんどは無音の状態で進行し、家具の存在は空間配置上は重要なものではあるけれど、家具というリアルなものというよりは意味性を剥ぎ取られた一種の「モノ」としてそこに配置されている。しかも言葉はいっさい用いられずにダンサーの動きのみでこの作品は構築されている。

その動きは人間的というよりはある時には「変身」の虫を連想させるような一種奇怪なものでもあって、物語性はなくてもそこには確かにカフカ的な不条理の匂いが感じられた。

Didier Theronはフランス人の振付家としてはむしろ異色な存在で、ダンスのムーブメントをあるひとつの静止状態から別の静止状態への移行と捉える振付のアプローチは決してフランスのコンテンポラリーダンスの典型とは言いがたいユニークなものだ。それでもこのAURORANOVA FESTIVALのラインナップのなかで眺めると、そのダンスの抽象性は明白で、フランスのダンスと演劇的な要素を重視する英国やその周辺諸国のダンスとの違いがうかがわれて興味深かった。

一方、今年現地でもっとも高い評価を受けていた話題作がチェコのFarm in the Cave-International Theatre Studioによる「Sclavi The Song of an Emigrant」(St Stephen)である。AURORANOVA FESTIVALの魅力はこういう日本にいたらおそらく絶対に見ることができない国のカンパニーの作品を見ることができることだ。このFarm in the Cave-International Theatre Studioもそのひとつだが、少し見ただけで相当な実力を持つ集団であることが分かる。実はこの公演はScotsman Fringe First 2006 Herald Angel Award 2006 Total Theatre Award 2006とエジンバラフリンジの公演を対象とする3つのAwardsをいずれも獲得、トリプルクラウンに輝いたわけだが、ダンス的なアクロバティックなムーブメントや舞台で生で行われる演奏や歌におけるパフォーマーのレベルの高さは一目瞭然で、こうした賞を受賞したのも納得できる。

ただ、舞台自体は見ていてもどかしい気持ちも残った。これはあくまでこの舞台がどうかというよりは観客である私との関係性の問題で、どうやらこの作品はSong of Emigrantという副題からも分かるようにスラブ系移民を主題としたもののようなのだが、かなり多く台詞があって、歌もあるから、そこではなんらかのメッセージが当然こめられているとは思う。だが、その意味が全然分からないので、パフォーマンスとしての身体性や歌などで水準の高さは判断できるのだが、この作品が具体的に描いているものの内容を観客として見た私が理解できたかというと、ややこころもとないところがある。単純に言葉が分からないだけでなくて、ここで表現されている主題と、日本で現代を生きている私の間には大きなギャップがあって、文化的、歴史的な背景が分からないので理解できたという風には言いがたい距離感も感じたのである。

そしてこれは抽象化された表現(ダンス)であるというよりはフィジカルシアターつまり演劇であり、なんらかの具体的な事実を元にしているという感覚が舞台からは感じられただけに、それがいかなるものかが分からないことに対して隔靴掻痒のようなもどかしさを感じてしまった。そもそも異文化体験というのはそういうもので、日本にいるとそういう感覚を味わうこと自体が珍しいので、それこそが海外に来て舞台を見ることの醍醐味だといえばいえなくはないのだが。

写真は、The Convent公演から(Jo Stromgren Kompani提供)
【写真は、The Convent公演から。 (Jo Stromgren Kompani提供)】

対照的にJo Stromgren Kompani「THE CONVENT」(St Stephen)はノルウェーのカンパニーではあるがパフォーマンス自体はすごく分かりやすくて気楽に楽しむことができた。”Jo Stromgren Kompani (…) is the leading ambassador of Norwegian contemporary dance”などと批評に書かれているので、ダンスカンパニーではあるのだが、せりふめいた言葉がほぼ全編で使用される。これはノルウェー語だから分からないのではなくて、「誰にも分からない」言葉をあえて使っているらしい。だから、無言ではないけれど、構成としてはダンスというよりは無言劇に近い。山奥の僧院で暮らす3人の尼僧が登場するコント風の芝居で、そういうスラップスティックなコメディーのようなものだと思えば単純に笑いどころにはことかかないし、楽しく見ることができる。

ただ、やはり文化的な背景などを考えると実はよく分からない部分はある。ノルウェーといえばおそらくキリスト教といってもここに登場するような尼僧がでてくるようなカソリックではないと思われるので、「これはカソリック批判?」と思ったりもしたのだが、もっとも気になるのはなぜ尼僧なのかというのも含めて、宗教的なものを揶揄してるのは間違いなさそうでも、どこまでがそうなのか。あるいは単なるコント的なナンセンスコメディーなのかというのがよく分からないのだ。

Derevoはロシア出身でドイツのドレスデンを拠点として活動をしているダンスカンパニー。このAURORANOVA FESTIVALには毎年のように参加していていわば常連のような存在になっている。実は来日もしていて2004年には京都造形芸術大学の春秋座で「島々(ISLANDS)」という作品を上演していて、同じ作品をAURORANOVA FESTIVALで見たことがある。その時の作品はマイムの要素が強い作品であったが、今回の「KETZAL」にはややとまどった。というのはそのビジュアルが舞踏を思わせるものだったからだ。振付家は舞踏の影響を強く受けていることがうかがえ、なかんずく、この作品のなかに登場する異形のもののイメージは衣装といい、スキンヘッド、白塗りのメイクといい白虎社を彷彿とさせる。だが、舞台上のダンサーの技法は明らかに舞踏というよりはクラシックバレエなどの基礎を持つと思われる。そのために、舞踏に慣れ親しんだ目から見ると、変てこな「ニセモノ舞踏」に見えてしまうからだ。

このカンパニーのこういう側面は現地ではエキゾチズムとして好意的にプラス方向で捉えられるためか批評家の評価は高い。fringeでは毎年のようになんらかのアワードを受賞しているし、今年はそのコンスタントで継続的な活動が評価されて、Herald Arch Angel Award を受賞した。だが、舞踏を知る日本人としてはちょっと微妙なのである。もっとも、このカンパニーあるいは振付家が自らの作品を舞踏だとしているわけではないので、日本で生まれた舞踏という表現がここまで国際的になって舞踏以外のアーティストにもビジュアルプレゼンテーションとして影響を与えるようになったんだということを素直に喜べばいいのかもしれない。なぜそれができないのかということについて作品を見ながら自問自答してしまった。

Cocoon Dance「Lovers and Other Stranger」はドイツのカンパニーの作品。Viviana Escale, Volkhard Samuel Guist という2人の若いダンサー・パフォーマーによるデュオである。1組の男女の暴力的な葛藤、せめぎ合いを作品化したもの。といえばDANCEBASEで見たThe X Factor Dance Companyの「Certain Shadows on the Wall」に近いモチーフともいえるのだが、国が違うとこうまで表現形態が違うというのが面白い。その動きはThe X Factor Dance Companyのように荒々しいながらも、コントロールされた動きとしてダンス的なフォルムに落とし込んでいくというものではなく、舞台上に敷かれた紙の上、あるいはあるときにはその下にももぐりこんで逃げ回る女性の手や足をつかんで暴力的に引きずりまわすなどより直裁的な手法で展開される。

最初は2人が点取りゲームに興じている場面からはじまるのだが、それがしだいに互いに相手を支配しようというようなせめぎ合いに変化し、そのパワーゲームはさらに相手の身体への直接的な暴力へと姿を変えていく。ダンスの技法としてはコンタクトインプロが多用されるのだが、そこにかかわるダンサーのコミュニケーション・親和性を強調することが多いコンタクトとは違って、ここでは繰り返し繰り返し、触る(コンタクトする)ことの暴力性が強調されるのが大きな特徴。そういう意味ではムーブメントはまったく異なるがこの作品は明らかにピナ・バウシュの作品の延長線上にある。

この暴力的なまでにコンタクトし合う作品を見ながら、日本とヨーロッパのダンスの違いを考えた。簡単にいえば「そういえば日本のコンテンポラリーダンスのデュオ作品あまり濃密なコンタクトをしないな」ということだ。実は海外で海外のダンス作品を見ることが刺激的なのはそれが日本のダンスとは違うということにある。いささか逆説に聞こえるかもしれぬが、日本で日本のダンスを見ている時にはあまり考えない無意識の前提をそうではない作品を眼前にしているといやおうなく考えさせられるからだ。

例えばダンスだけじゃなく、演劇においても西洋のものと比較して日本のは演者同士のコンタクト(接触)が少ないわけだが、それは現実の実生活においてもそうであることを反映している。そこには人と人の間の距離感(物理的にも心理的にも)の違いがある。そのことはリフトなどを多用して接触によって愛の世界を歌い上げるようなバレエと日本の伝統舞踊である日本舞踊や阿波踊りのような伝統舞踊を比較してみるとよく分かる。それが不可視になってしまうのは西洋起源のバレエやモダンダンスが持っているコンタクトという形式をその背後にある文化的な背景を度外視して日本に持ち込んでしまったために日本においても一部のダンスはそうなってしまったので、そういう形式を取り払ったフリーフォームのコンテンポラリーダンスでは本来の関係性がおそらく無意識に反映されるのが興味深い。

バレエなどが隠蔽してきたコンタクトの暴力性や性的な意味合いにちゃんと気がついてそれを自らの舞踊においてしっかりと表現したのがピナ・バウシュの慧眼であった。ピナの作品を見ている時にはそういうことをあまりはっきりと意識して考えたことがなかったのだが、支配/被支配、他者の領域への暴力的な侵犯などをモチーフにしたこの作品を見ていて、そのことに改めて気がつかされた。そういう点でこれはなかなか刺激的な舞台だった。

以前にもこのフェスティバルで見て面白いと思ったドイツのHIPHOPカンパニー、Renegade Theatreの「STREETLIFE」という作品も面白かった。前に見た作品はHIPHOP版の「ロミオとジュリエット」で、コンテンポラリーダンスというよりはダンスミュージカルといった趣きだったのだが、今回の作品は映像や生演奏、舞台美術などを駆使したマルチメディア系のコンテンポラリーダンスで、動き自体はやはりHIPHOPの動きを主体とはしているが、映像と身体表現の組み合わせかたなど作品の構成はニブロールを彷彿とさせるところがある。

もっとも提示されるビジュアルイメージの印象はまったく異なり、映像や美術などは落書き(グラフィティ)アートやジャンクアートのようなビジュアルを多用したキッチュかつポップなもので、ニブロールの作品が今の東京の若者の雰囲気を反映しているようにドイツの都会に暮らす若者たちの群像をスケッチのように描き出していく。この作品からは受ける匂いは日本のコンテンポラリーダンスとは全然違うのだが、自分たちが描き出そうとしている対象に対するアプローチという点では異質な感じよりは同質感を感じた。

ダンス&フィジカルシアターのAURORANOVA FESTIVALではあるがJoao Garcia Miguel 「SPECIAL NOTHING」は映像などを多用しているもののほぼ演劇といっていい公演であった。ポルトガルの劇団ではあるけれど全編英語の台詞を使用している。アンディ・ウォーホルの自伝をテキストにしたほぼひとり芝居であった。もっとも、ウォーホルを演じている俳優は元ポルトガル人の振付家、ルイ・ホルタのカンパニーでダンサーをしていた経歴があり、映像も単に作りこんだ映像だけではなく、公演の前に演出家が公演がはじまるのを待っている観客に話しかけて、そこでビデオで観客の顔を撮影したものをそのままその後の舞台で使用するなどドキュメンタリズムの手法を取り入れており、舞台装置として舞台奥に配置されている白い柱のようなものに映像が全面に映りこんで、ウォーホルの日記から引用されたと思われる断片的なモノローグを時には叫び声などを交えながら演ずるそのありさまは身体表現の側面も強い。偶然だがエジンバラに来る前にアンディ・ウォーホルの自伝を読んでいたので、その分楽しく見ることができたのだが、演劇としてはテキストが断片的で物語があるわけではないので、難易度は高かったかもしれない。

このほかにもいくつかの作品があったが、今年は以前にここで見たNATS NUS DANSAのような本当の意味で突出したものがなかったのがやや残念であった。その代わりにどうしようもない駄作というのもあまりなくて、平均的なレベルはやはり高かった。もうひとつ残念なのは日本のコンテンポラリーダンスの海外での上演はフランス、ドイツ、ベルギー、オランダなど欧州大陸が中心だということもあって、「水と油」に続いてここで上演するカンパニーが現れないことだ。このフェスティバルの演目はWolfgang Hoffmannが実際に自分の目で見て確認したものだけを選んでいるようだから、その分ハードルは高いようだが、英国圏においてはロンドンのダンスアンブレラほどの知名度はないとしても、重要なダンスフェスティバルの地位を固めつつあるから、ひとつのターゲットとして目指してほしいフェスティバルなのである。

最後に今年(2006年)のエジンバラ演劇フェスティバル全体について振り返ってみると、ここで取り上げた「が~まるちょば」やロンドン留学中の若手狂言師、石田淡朗による狂言紹介の演目など日本人が主催する公演がなくはなかったものの、HIPHOPのカンパニーを中心にいくつかの集団が現地に乗り込み、公演をしていた韓国などと比べると日本からの参加カンパニーは少なく、これは私が見てきたここ数年を考えても減ってきている印象が強い。先にも書いたようにコンテンポラリーダンスなどで最近、日本では既存のパイプがあるヨーロッパ大陸がツアーの中心となっていることも一因ではあろうが、残念なことであった。もっとも、ことエジンバラに関していえば、ここに参加するのであればかつていくつかの劇団がそうであつたようなエジンバラで公演しましたというような箔付けのためのような公演では意味がないし、ただ行って上演するだけでは意味がないし、劇場の選定ひとつをとっても将来のステップアップを考えて継続的に公演するための戦略が必要であることも確かなのだ。

特にfringeを中心に規模がますます拡大していっているなかで、どういう戦略でエジンバラ公演をするのかというのはもし行きたいと思っているところがあればますます重要となっている。それでも私のように毎年出掛けて楽しみにしている人間にとっては日本からの参加者が少ないのは寂しいので、明確な戦略を持って、エジンバラの本陣攻略を目指すカンパニーが出てきてくれないかと期待しているのである。(了)
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第22-23合併号、2006年12月27日発行。購読は登録ページからお願いします)
(注)
*1:http://www.auroranova.org/index.html
*2:http://www.didiertheron.com/

【筆者紹介】
中西理(なかにし・おさむ)
1958年愛知県西尾市生まれ。京都大学卒。演劇・舞踊批評。演劇情報誌「jamci」、フリーペーパー「PANPRESS」、AICT関西支部批評誌「ACT」などで演劇・舞踊批評を連載。最近では「悲劇喜劇」2006年8月号に岡田利規(チェルフィッチュ)、三浦大輔(ポツドール)をとりあげた小論を執筆。演劇、ダンス、美術を取り上げるブログ「中西理の大阪日記」を主宰。

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