◎「野良仕事」で得た越境の可能性
カトリヒデトシ
このところBeSeTo+やポスト・トークなどで「現在、演劇には三つの系がある」と、私は話している。「を」と「で」と「な」と名付け、分類している。まず、テキスト「を」やる人たちを「を」派と呼ぶ。完成したテキストを元に上演をしていくもので、ほぼ戯曲=作家中心主義といえる。次に、テキスト「で」やる人たちを「で」派と。古典などの既成戯曲を元に作品づくりをしていくもので、ほぼ演出中心主義といえる。最後の「な」はちょっと苦しいが、テキストは「ない」か、あっても作品の要素のひとつにしかすぎず、作品の中心にこないものを「な」派と考えている。身体表現を重視したり、物語性の「ない」テキストを使ったりするものをここに分類している。これらは固定したものではなく一つのカンパニーや作家でも、時に系をかえたり、横断したりもする。チェルフィッチュだから「な」とか、単純には言えない。

ある演劇人の名前がアチラコチラで目につく年がある。その意味で2008年は、じつにマキノノゾミの一年だった、といっても過言ではないだろう。
唐十郎の劇について今日何事かが語られるとき、かつて唐の提示した「特権的肉体」を初めとする術語群が用いられることほど、陳腐で心そがれる光景はない。唐の『特権的肉体論』が仰々しいマニュフェストとして読まれざるをえない時代のあったことを否認する必要もあるまいが、しかし、同書の中に並ぶ文章がすべてエッセイにすぎぬことは明白であり、ある状況下に置かれたある書き手の瞬発的な反応以上のものを『特権的肉体論』から読み取ろうとする試みは、すべて否応なく誤読となる。実際、書き手であるところの劇作家も、40年も前に書き捨てた例のエッセイを、もはや一顧だにしていないではないか。
・

★カトリヒデトシさんのお薦め