劇団青年座〈マキノノゾミ三部作〉(「フユヒコ」「赤シャツ」「MOTHER」)

◎連続上演企画にかける劇団の気概と思い入れ
  後藤隆基

青年座〈マキノノゾミ三部作〉公演チラシある演劇人の名前がアチラコチラで目につく年がある。その意味で2008年は、じつにマキノノゾミの一年だった、といっても過言ではないだろう。

年の瀬の常と顧みれば、まず4月に沢田研二の音楽劇シリーズ「ぼんち」(わかぎゑふ作)を演出。8月にはM.O.P.に新作「阿片と拳銃」を書き下ろし、同時に劇団を2011年をもって解散する〈ファイナル・カウントダウン〉を発表した。が、当の本人たちはいたって力の抜けた気構えぬ発言を各誌に寄せており、この劇団をよくあらわしているようにみえた。

 夏の終わり、何度も再演され定評のある「東京原子核クラブ」(宮田慶子演出)が俳優座劇場にかかると続けざま、旧作を改訂した「恋愛喜劇 青猫物語」(山田和也演出)がシアタークリエの舞台にのった。さらに10月に入ると、大阪松竹座で「女ひとり-ミヤコ蝶々物語-」(鈴木哲也共同脚本)を演出している。いわゆる、といちいち註を振るのも煩瑣ゆえ省略するが、商業演劇、新劇、小劇場演劇の諸領域にまたがった劇作、演出活動は、同世代の演劇人を見わたしても余り例のない守備範囲の広さであろう。

そして11月。青年座が〈マキノノゾミ三部作〉と銘打って、紀伊國屋ホールを一ヶ月間借り切り、かつて青年座で初演されたマキノノゾミ作品の連続上演をおこなった。初演時にはすべてが何かしらの賞を受けるなど評価は実証済みだ。一本ずつが看板を張れる力のある作品を、時間を区切って三本ならべる。この企画にかける劇団の気概と思い入れが強く感じられる。また、マキノ率いる劇団M.O.P.からも何人かの俳優が客演しており、青年座+M.O.P.という合同公演の体裁もひとつ花を添えた。

第一弾の「フユヒコ」は、科学者であり夏目漱石門下の随筆家、寺田寅彦をモデルにした作品。マキノノゾミ自身がタクトを執った。青年座に提供した戯曲を自ら演出するのは初めてのことであり、全編に通底するコメディタッチの描写で、冬彦とりんを中心とした寺田一家の心の機微をあたたかく包んでみせた。

第一場、置いておいたハズの煙草がない、妻のりんが隠したんだと騒ぐ冬彦に、次女から「自分で着物の袂に入れるのを見た」とりんの伝言がつたえられる。そんなバカな、と袂をさぐる冬彦。果して煙草はあった。と、悲愴な弦楽曲が流れ、愕然とした表情を客席へ向ける冬彦にピンスポットの照明が当てられる。そして暗転。次の場への楔として、寺田寅彦の随筆の抜粋がナレーションされる。このワンシーンに、マキノ演出のおもしろさが凝縮されていたと思う。ちょっと大げさな、しかし演劇的な操作によって舞台の愉しさが客席に拡がった。小道具の「招き猫」も、終始笑いを呼ぶ起爆剤として作用し、終幕の大きなオチにつながってゆく。ほのぼのとした明るさ、人間存在の肯定。マキノ戯曲の特質がよくあらわれた作品である。

二つめの「赤シャツ」は後述するのでひとまず措いて、大トリを飾った「MOTHER-君わらひたまふことなかれ」は、マキノノゾミが初めて外部に書き下ろした戯曲、ということは当然、青年座との初顔合せでもある。演出は1994年の初演に企画から関わった宮田慶子。舞台の完成度また緊密さにおいて、三部作中屈指であった。とくに、与謝野鉄幹を演じた山路和弘と、与謝野晶子役のキムラ緑子の好演が牽引力となっていたことは間違いないであろう。威厳と風格をかもしながら、真面目な顔で世話に砕けてみせる山路。一家の実質的な大黒柱として、また母として大きく構える強い女性を演じ、なおかつ夫への愛情を全身で表すキムラ。二人はその登場から、作品をつらぬくひとつのイメージを視覚化してみせた。

与謝野家の引越しの最中、手伝いに来ていた弟子たちがケンカをはじめ、全員外に出て行ってしまう。そこへ鉄幹晶子夫妻があらわれるのだが、一言もせりふを発さず、なぜか二人とも憮然として部屋の両端に分かれる。そしてみなが戻ってきても、気づかれるまでそのままの姿勢でどちらも何も喋らない。理由は追って明らかになる。が、ともあれ下手に鉄幹が斜に構えて立ち、上手には色彩あざやかな着物の晶子がデンと坐るという、この位置関係だけをとっても、詩人、作家としてしだい文勢を増していく晶子と、すでに過去の人と見られ始めた鉄幹という劇全体の構造がはっきり示されていた。以降、二人の関係性を軸に劇中のあらゆる出来事が展開されるのである。また、菅野須賀子と石川啄木が亡霊となって現れることで唯一「死」の影を感じさせるという側面も有する。三部作連続上演の最後にふさわしい舞台であった。

さて、そこで「赤シャツ」だが、これを主にとりあげるのは、戯曲を読んだときと、舞台を観たときに受けた印象の差が大きかったことによる。より正確を期すならば、戯曲を読んだ段階で不分明だったことが、舞台をとおして合点がいった。その点で「赤シャツ」をもっとも興味深く観た。

いわずと知れた夏目漱石の「坊っちゃん」が原作である。表題のとおり、主人公の敵役とされる「赤シャツ」を主人公にすえて、彼の目線から小説の出来事を見た。そのことで原作小説のさまざまな事件が逆転し、別の物語がうまれる。マキノの注目した「誤解」という見地が、劇を成立させる鍵言葉となっていたわけだ。裏から読んだ「坊っちゃん」。これは、初演時から幾度となく指摘された卓抜な趣向だし、作品の根幹をなす演劇的な仕掛けである。しかし発想の秀抜さはとまれ、そこだけを評価してオシマイというのは、いささか躊躇われる。問題となるのは、赤シャツ以外の人物の描かれ方なのだ。

舞台は終始、赤シャツ邸の各部屋でおこなわれ、漱石の「坊っちゃん」に描かれた人物たちが、ある種の実感をともなって登場する。けれどもその舞台を観ていると、一人一人の人間が深く書かれているとは言い難い。設定された性格というもの、これはじつにはっきりしている。すでに小説を読んでいる(であろう)わたしたちは「この人はこういうタイプの人間である」ということを容易に理解するし、またそのことによって劇中人物の立ち位置が定まり、相互の関係性によって随所に笑いが起きる。

けれども、各人物の「内面」が深く掘り下げられているかというと、けっしてそうではない。彼らは原作小説を踏襲したまま、むしろ類型的にキャラクターがつくられ、至極単純な性格をもって役割を与えられている。彼らが裏も表もない一枚の心理で形成されていることが感じられる。どの人物もそういうふうに書かれている。心ならず何かと対立してしまう山嵐はもちろん、赤シャツが自分と同類の「自分の損得の勘定ばかりを考えている様な」人間という野だいこやマドンナでさえ、おもてにあらわれる言動と心理はまったく一致している。それを象徴するのが、劇中には姿をみせず、場切れごとにナレーションでのみ登場する「坊っちゃん」であり、邪気も屈託もないアッケラカンとした声を聴くにつけ、ほとんど苛立ちを覚えるほどに実感するのだ。それぞれ系統だてられた性格の人物群に囲まれ、赤シャツだけが「近代的自我」ともいうべきものを有しているのではないか、とさえ思われる。

劇中では、坊っちゃんや山嵐のみならず、すべての登場人物に「誤解」された赤シャツの「本当の気持」が、彼の口から語られるだろう。赤シャツはじつに冗舌だ。弟の武右衛門に否定される徴兵忌避という過去も、自分の生き方も、他人の生き方でさえ、説明過多といっていいほどよく喋る。しかし、その心情はあくまで誰もいないところで吐露される。下女のウシという聴き手が設定してあり(彼女の「立ち聞き」という仕掛けは秀抜だ)、原作の坊っちゃんにとっての清のように、赤シャツの理解者として位置づけられている。そして赤シャツの言葉は彼女を通過し、客席に向けられる。観客は赤シャツの心だけがわかるから、それ以外の人物にたいしては好感情をもてなくなってしまう。赤シャツ以外の人物は、彼が事細かに心内の言葉を語るほど、自分の気持をいわない。しかし、赤シャツだけが弁護されているように見えながら、その実、赤シャツは何ら救済されていないのだ。

幕切れの描写はきわめて示唆的だ。物語は、坊っちゃんの辞職、帰京という原作どおりの時間と同じく終わる。赤シャツは、自分のような「当世流円滑紳士」のいるような未来には生きていたくないといい、そのまま涙に暮れる。そのとき彼の背に顔をあずける小鈴も、おそらく赤シャツの懊悩などまるでわかっていない。ただ、赤シャツへの思いと慈しみは確かなものだ。赤シャツは、そういったすべての感情にたいして、ある種の諦念をもっている。彼らのように表も裏もなく生きられたらいい。そう生きたいと願う。けれどもできない。そして最後の最後まで、彼の心は他者に理解されることがない。

この劇が、赤シャツという人物から見た小説「坊っちゃん」であることはハッキリしている。が、単に赤シャツを主人公として描いたのではない。赤シャツの目に映った世界のようす、赤シャツという一人称で見た世界、つまり「赤シャツ」という劇は、赤シャツによって「誤解」されている世界かもしれないのだ。その意味では、「野だいこ」「うらなり」「マドンナ」といった劇ができる可能性もあるだろう。世界は多面的であり、それを見る人の数だけ世界は存在する。文学士という履歴をもつ赤シャツをとおして、複眼の世界観の一断面を切りとった。赤シャツは作者の分身ではない。彼の懊悩が他者(劇中人物、また観客)に理解され得ぬものとして感知されるとき、なぜそんなことに悩むのかといった疑問とともに、けっして人は人を理解できないのではないかという諦念が浮びあがってくるのである。赤シャツ以外の登場人物の、せりふの背後には何もない。このことが、「赤シャツ」を観るべきポイントになるのではないだろうか。
(初出:マガジン・ワンダーランド第121号、2009年1月7日発行。購読(無料)は登録ページで)

【筆者略歴】
後藤隆基(ごとう・りゅうき)
1981年静岡県生まれ。立教大学大学院を経て出版社勤務。日本近現代演劇。川上音二郎を中心とした明治演劇史および、井上ひさしなどを研究対象とする。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/goto-ryuki/

【上演記録】
劇団青年座マキノノゾミ三部作〉(「フユヒコ」「赤シャツ」「MOTHER」)
紀伊國屋ホール

スタッフ
作 =マキノノゾミ
演出 =マキノノゾミ[フユヒコ]
=宮田慶子[赤シャツ、MOTHER]
装置 =川口夏江
照明 =中川隆一
音響 =高橋巖
衣裳 =三大寺志保美[フユヒコ]
=前田文子[赤シャツ]
=半田悦子[MOTHER]
舞台監督 =澁谷壽久
製作 =森正敏、紫雲幸一

▽「フユヒコ」(2008年11月4日-9日)
作・演出:マキノノゾミ

寺田冬彦:山野史人
寺田りん:津田真澄
寺田康一:太田佳伸
寺田早月:椿真由美
寺田秀二:五十嵐明
寺田秋子:加茂美穂子
大河内正親:佐藤祐四
沢木登:木下政治(劇団M.O.P.)

▽「赤シャツ」(2008年11月12日-18日)
作:マキノノゾミ
演出:宮田慶子

ウシ:今井和子
うらなり:宇宙
武右衛門:高義治
赤シャツ:横堀悦夫
野だいこ:小豆畑雅一
マドンナ:安藤瞳
金太郎:酒井高陽(劇団M.O.P.)
山嵐:若林久弥
小鈴:野々村のん
狸:堀部隆一
福地記者:松川真也
ウラジーミル:セルゲイ・ツァリョーフ

▽「MOTHER」(2008年11月21日-30日)
作:マキノノゾミ
演出:宮田慶子

与謝野晶子:キムラ緑子(劇団M.O.P.)
与謝野鉄幹:山路和弘
北原白秋:綱島郷太郎
石川啄木:奥田達士(劇団M.O.P.)
佐藤春夫:川上英四郎
平野萬里:田島俊弥
平塚明子:遠藤好
菅野須賀子:那須佐代子
大杉栄:大家仁志
刑事・蕪木:田中耕二
刑事・安土:永滝元太郎(劇団M.O.P.)

入場料(税込) 全席指定 販売窓口
一般 5,500円、ゴールデンシート(65歳以上)5,000円、3作品セット券 14,500円

投稿者: 北嶋孝

ワンダーランド代表

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