「化粧 二幕」

◎二人の女優と一人の女 または彼女たちは如何にして心配するのをやめ劇場を愛するようになったか
島田健司

「化粧 二幕」公演チラシ座・高円寺のオープニングで600回の上演を迎える渡辺美佐子の一人芝居『化粧』。再演という上演形式の定着に恵まれず、大量に作られては消費され、また作られては消費される奔流のような日本の演劇状況において、1982年の初演から27年の歳月をかけて打ち立てられたこの記録は継続することが可能にする演劇的醸成とはいかなるものかを僕たちに示している。

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「化粧 二幕」

◎「劇」を動かしているものは何か 「母性」が観客と出会うとき
坂本俊輔

「化粧 二幕」公演チラシ『化粧 二幕』の公演を見終えた後、ワンダーランドのセミナーの一環として、主演の渡辺美佐子さんと舞台監督の田中伸幸さんから直接話を伺う機会が得られた。海外公演での観客の反応、「ゴキブリ」のくだりが生まれるきっかけとなった地方公演のエピソード、渡辺さんの演技に対する姿勢など様々な話を聞くことができ、舞台とは異なる面から劇を理解する上でも大変参考になった。気がついたのは、お二人の話には観客との距離に関係したものが多く、すし詰めの観客を間近にして行われた下北沢のザ・スズナリ劇場での初演を、渡辺さんはとても感激した、と感慨深く語っていたことや、逆に1000人を超えるような地方の大ホールで公演を行った際は、舞台を客席に近づけるよう田中さんが苦心された話など、観客との「近さ」にこだわりをもっていることが感じられた。

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ハイバイ「ヒッキー・カンクーントルネード」

◎「他者性/関係性」の方に踏み出す 誰かの生き難さを救うためにも
鈴木励滋(舞台表現批評)

ハイバイという劇団の名の由来は「ハイハイからバイバイまで」だという。わたしは勝手に出会い(ハイ)と別れ(バイ)の間を描いているからハイバイなのかと思っていた。主宰の岩井秀人のプロフィールには「外科医の父と臨床心理士(カウンセラー)の母の元で育ち、夜尿症、多動症を抱え16歳から20歳まで引きこもっていた」という“乗っ取る”とか“刺す”などということに至ってしまった若者の紹介かと見紛う記述がある。もし、このプロフィールを先に見ていたとしたら、敬遠していたかもしれない。けれどもそれは、重いのが嫌なのではなく、自らの痛みのみを見せ付けるような表現が苦手なために、それを警戒し回避する直感が働いたかもしれないということだ。
実際には、贅というユニットのプレビュー公演に出演していた岩井の演技に好感を持ち、彼が主宰するハイバイを観始めたので、つまらない偏見で機会を逃さなくて本当に幸いであった。

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快楽のまばたき「星の王子さま」(寺山修司作)

◎瑞々しさが光る冒頭の冴え 戯曲から読み取った確信的な演出
鈴木厚人(劇団印象-indian elephant-主宰/脚本家/演出家)

「星の王子さま」公演チラシ新宿のタイニイアリスで上演された快楽のまばたきの公演「星の王子さま」はとても刺激的な舞台であった。「星の王子さま」は、寺山修司の戯曲で、かの有名なサン=テグジュペリの「星の王子さま」を下敷きに書かれたものだった。男装の麗人に連れられて、点子という女の子が、うわばみ(=大蛇)の老女が経営するホテルにやってくる。そのホテルには夜空からたくさんの星が集められていて、星のいくつかは人間の女(しかもレズビアンやおなべ)になって突然踊り出す、といういささか荒唐無稽な設定である。

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ダンスボックス「≒2」(エイブルアート・オンステージ)

◎豊かな混沌にいざなう表現へ エイブル・アートの出会い、共鳴、可能性
鈴木励滋(舞台表現批評)

「≒2」公演チラシ入り口反対側の奥まったところにあるトイレの方から強い照明が差し込み、ロビーに集い談笑していた人々は静まりかえり視線を送る。そこから大音量で音楽が流れてきて、光の中から現れた車椅子に腰掛けた女(山村景子)の手に抱えられたラジカセが音の源のようである。

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急な坂スタジオ「ラ・マレア横浜 (下)

横浜・吉田町を舞台に10月3日-5日の3日間、「ラ・マレア横浜」と呼ばれる街頭パフォーマンスが繰り広げられました。アルゼンチンの劇作家・演出家の作品を、日本人の俳優をオーディションで選んで上演する国際企画です。(上)で3編紹介しましたが、(下)ではさらに2編を掲載します。(編集部)

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風琴工房公演「hg」

◎加害/被害…二元論の先へ
 鈴木励滋

 障害がある人たちが過ごす施設の現在を描いた二場冒頭、およそ50年前のチッソ水俣工場内を舞台とした一場で工場長や付属病院長を演じた俳優が、水俣病患者として登場したという仕掛けは、少なからぬ観客を当惑させたに違いない。その仕掛けが意図していたのが転生、つまり彼らに業を負わせるためのものであったとすれば、障害者が因果応報によって生まれるというえらく古い曲解に基づくこととなり、はたまたそれが罪に対する罰を表していたとしたら、障害そのものが悪であるということになってしまうのだから。

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三条会「ひかりごけ」

◎歴史と作品の「分からなさ」を引き受ける 7年間の進化から浮かぶ表現  志賀亮史(「百景社」主宰)  5月3、4日栃木県那須町で行われた「なぱふぇす2008」で三条会「ひかりごけ」を観た。三条会が「ひかりごけ」を上演する … “三条会「ひかりごけ」” の続きを読む

◎歴史と作品の「分からなさ」を引き受ける 7年間の進化から浮かぶ表現
 志賀亮史(「百景社」主宰)

 5月3、4日栃木県那須町で行われた「なぱふぇす2008」で三条会「ひかりごけ」を観た。三条会が「ひかりごけ」を上演するのは、この「なぱふぇす2008」で10回目である。そして私が「ひかりごけ」を観るのも10回目。実を言うと、私は運のよいことに10回すべてのバージョンを観ているのである。ただまあ、正確に言うと海外公演(中国、韓国、台湾)はさすがに現地では観ていない。稽古場で観させてもらったのではあるが。

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時間堂「三人姉妹」

◎リボンをほどいて進み出る 「絶望に酔わず、希望に溺れず」の覚悟
鈴木励滋(舞台表現批評)

「三人姉妹」公演チラシ奥行きがあり細長い劇場の空間の両側に席が二段ずつ作られている。挟まれるように少し高くなった長方形の舞台。席と舞台の間には溝のように通路ができている。
談笑しながらひとり、またひとりと俳優が現れる。観客に視線を送り、会釈する者や言葉をかける者もある。オブジェのように組まれていた箱や棒を配置していくとテーブルと椅子、そして二つの入り口となった。各々発声をしつつ呼吸が整っていき、隊列を組み、深呼吸。踵や棒で床を鳴らしリズムを整えて行進が始まる。テーマ曲をハミングしながら暗めの照明の中、厳かな隊列は軍隊というより葬列である。

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青年団「隣にいても一人」

◎それでも誰かが隣にいる 平田オリザ流不条理劇
鈴木励滋(舞台表現批評)

▽「夫婦になる」とは

「隣にいても一人」公演チラシある朝、目を覚ますと昇平とすみえは夫婦になっていた。
高校で非常勤講師をしつつ小説家を目指す昇平と看護師のすみえは旧知の間柄である。昇平の兄で会社勤めをする義男とすみえの姉で国語教師の春子は別居中でありながらも、良子という子どももいる夫婦なのであった。

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