時間堂「三人姉妹」

◎リボンをほどいて進み出る 「絶望に酔わず、希望に溺れず」の覚悟
鈴木励滋(舞台表現批評)

「三人姉妹」公演チラシ奥行きがあり細長い劇場の空間の両側に席が二段ずつ作られている。挟まれるように少し高くなった長方形の舞台。席と舞台の間には溝のように通路ができている。
談笑しながらひとり、またひとりと俳優が現れる。観客に視線を送り、会釈する者や言葉をかける者もある。オブジェのように組まれていた箱や棒を配置していくとテーブルと椅子、そして二つの入り口となった。各々発声をしつつ呼吸が整っていき、隊列を組み、深呼吸。踵や棒で床を鳴らしリズムを整えて行進が始まる。テーマ曲をハミングしながら暗めの照明の中、厳かな隊列は軍隊というより葬列である。

一昨年観た中で最もすばらしかった舞台の一つ、リュカ.の「 vocalise (ヴォカリーズ) 」を演出した黒澤世莉率いる時間堂である。いやがうえにも期待の高まる見事なオープニングだ。雨森スウが作曲し星野奈穂子と堀奈津美が編曲したというテーマ曲は、ときに荘厳でときに勇ましくもあるというように、場面ごとに趣を変え、「簡素で素敵」を標榜する美術と同じく、控えめながらも強い印象を残した。

それにしても休憩を挟んで三時間、チェーホフの『三人姉妹』全編を淡々と上演するという、聞いただけでは無謀とも無芸とさえもいえる企画。上演時間はチラシにも明記されていたのだが、迂闊にも直前まで見落としていた。小劇場でこの作品をやる場合は部分を抜粋したりエッセンスを用いて翻案・改作したり、短縮されるものと無意識のうちに断じていたのかもしれない。

「三人姉妹」公演
「三人姉妹」公演

「三人姉妹」公演
【写真は「三人姉妹」公演から。提供=時間堂 禁無断転載】

終演後に黒澤に評判を訊くと、謙遜なのかもしれないが今ひとつであるかのような口ぶりだったが、どうも古典を上演する際には、あれやこれやと制約が多すぎて窮屈なように思われる。それは作り手にも受け手にもいえることで、「正しい解釈」という亡霊にいつまでたっても苛まれているかのごとくだ。批評というものが、「よく理解できました」と褒めてもらうために唯一の「正解」を目指して綴るあくまで副次的なものと思われがちなのも、その亡霊の仕業に違いない。けれどそれは、権威を笠に着て「正しい解釈」を求める誰かのせいではない。私たちが自縄自縛に陥って自らを限定してしまっていることを意識しなければ、亡霊は消えうせることもままならない。

演出家も劇作家の「真意」なんぞにビクビクすることはない。自ら信ずるやり方で、その戯曲が己の感覚で最も美しいと思えるよう立ち現れさせるべく努めればよい。

いくつか山場がある戯曲のわかり易い山など敢えてぶち壊し、滅茶苦茶にするような演出をした上で、もとの戯曲よりも格段に心を揺さぶる作品に仕上げる三条会の関美能留や、一見山場と感じられるもの自体をぼやかしたりずらしたり不確かなものにすることで、カタルシスを喚起させないかのようなチェルフィッチュの岡田利規。

取捨選択の感覚や破綻する限界を見極める眼力は現代屈指の彼らと比肩しうるほどであろうものの、黒澤の手法はシンプルで正攻法に見えるだけ守旧派に付け入る隙を与えぞんざいに扱われている気がしてならない。

もちろん、作品を織り成すのは演出家だけの仕事ではない。すべての俳優が黒澤の演出に充分に応じられていたとはいえないだろうが、ただ、俳優それぞれの鍛錬や稽古時間の積み重ねによってどうにでもなる点で、今後に期待するほかはない。嬉しいことに黒澤は、「ようやっとスタートラインについた『三人姉妹』を育てたいと」いう認識であるらしく、千秋楽の後に「ながい休演日」を迎えるのだという静かな決意をウェブログ上に綴っている。

留まっていてはいけないのは俳優だけでなく、私たち観客や批評家も同様で、己が設けた枠組みに拘泥して悦びを逃しているのはなんとも残念なことである。すばらしい表現に出会って、自らの存在が組み直されていくのは至極悦ばしい経験なのだ。
有名な古典というだけで先入観たっぷりなガチガチの身体で観るような舞台ではなかったはずなのに、飲食自由だという主宰からの冒頭の挨拶だけでは、そう易々と自らを縛る縄は解けゆくことはなかったらしい。それもまた現実と受け止めなくてはならないだろう。

*     *     *

三時間を経て、時間堂の『三人姉妹』は、まさしく現代の演劇であると思った。ここで言う現代とは近代の次の時代=ポストモダンではなく、コンテンポラリー=同時代ということで、演出の黒澤世莉は100年も前のしかも外国の戯曲を“いまここで”上演するということはいったいどういうことなのか、偉大な戯曲を前に臆することなく真摯に問い続け劇作していることが作品によく表れていた。
また割愛することなく全編を上演したとて、黒澤はおそらく戯曲を忠実に再現するつもりなんて微塵もなかったであろう。

オーリガは老けてはいないし、チェブトイキンもとても若い。アンドレイは太っていないし、トゥーゼンバフも醜くいとは思われない。一方、老人という設定のアンフィーサとフェラポントは腰が曲がりヨロヨロ歩く。典型的というよりむしろ戯画的だ。正確に描写しようというのでもなければ、わかり易くしているというだけでもなさそうだ。

衣装も三人姉妹はそれぞれ体の一部に暗示的なリボンを身につけている以外は戯曲の指定通りの色合いの服を着ていて、指定のない者は白やベージュの淡い色の服を、「軍人さん」と括られた人々は一様に白いワイシャツにネクタイを締めメガネをかけている。持ち物は大小の白く塗った板で、たとえば戯曲の中でチェブトイキンがいつも持っている「新聞」はケータイに置き換えられ小板をそれに見立てていた。鏡や時計や部屋の仕切りなどもその都度登場していない俳優が黒子のように木や布で表していた。(他にも俳優は演奏や音効も担っていて、負担が大きすぎやしないか、と気がかりになったのも事実だ)

それらの記号化ともいえる簡略化は、施された部分には過度に意味合いを持たせないように抑制を利かせる効果を狙った演出であろう。「名の日」などの慣習や独特な地名や歴史的背景や時おり差し込まれるラテン語などが回りくどく説明されないのも、それらの意味合いは舞台にいる者の関係から読み取れる範囲で伝われば充分であると言っているかのようであった。

むしろ重要なのは舞台にいる人間そのもの、そして彼/女たちの遣り取りそのもので、黒澤の手書きの「“三人姉妹”よくわかる紙」というものが配布され、そこに相関図が記されていたのだが、極端なことをいえば、聞き慣れない名前を把握しきれず曖昧なままでも、舞台上できちんと俳優が存在し関係すれば、全編を観せられる自信が黒澤にはあったのではなかろうか。

「三人姉妹」公演
【写真は「三人姉妹」公演から。提供=時間堂 禁無断転載】

チェーホフの作品について黒澤はチラシにこんなことを記している。
「彼の作品は、その愛すべき点は、絶望に酔わず、希望に溺れず、あるがままの「現実」を受け入れて、それでも生きて前へ進んでいこうという「覚悟」にある。それは、絶望や希望という極端な幻想を信じるよりも、ずっとタフで気高いことだ。」

没落する貴族や田舎のインテリの滑稽さを冷酷なまでに描き続けたチェーホフの意図は詳しくは知らない。本作でも将軍だった父親が死に田舎暮らしをしている女三人と男一人の四人きょうだいを中心に、屋敷に出入りする軍人たちや小間使いの織り成す淡々とした物語の中で、誰一人わかり易くハッピーにはならない。

けれど漠然と、チェーホフは人間を愛しているんだなと思える作品であった。それは黒澤が人間を信じたいと切望しているからではないかとも思えた。

それゆえかもしれないが、フェラポントとアンドレイ、アンフィーサとナターシャだけがダブルキャスト、しかもどちらも二人の俳優が互いの役を替えて演ずるという仕掛けに対して、こんな邪推が浮かんできた。
アンドレイに「議員どの」と呼ばないと叱責される市議会の老門番フェラポントと、ナターシャに「くたばりそこないの泥棒ばばあ」呼ばわりされる小間使いのアンフィーサの救われなさ。彼や彼女に当たるアンドレイとナターシャも同様に救われていないともいえるはずで、フェラポントとアンドレイ、アンフィーサとナターシャ上下関係にある不幸を緩める試みとしてのダブルキャストなのではないかという。

憶測はともかく、黒澤が上演の中で一人ひとりの役を大切にしているのは折にふれ見て取れた。その中のひとつがソリョーヌイの扱い方だ。

たびたび場を乱すようなひねくれた発言を繰り返すソリョーヌイは、ついにはイリーナと結婚することになったトゥーゼンバフに決闘を申し込む。彼ひとりが悪者として排除されていく解釈も可能で、それは筋立てとしてはわかり易い。

ところが黒澤は、ソリョーヌイが浮いた発言をした後に、指定は戯曲にはないにも関わらずトゥーゼンバフに声をかけさせる。トゥーゼンバフが上司と衝突すれば、今度はソリョーヌイが近づいて何事か耳打ちする。

戯曲からはみんなから弾かれたソリョーヌイがふられた腹いせに因縁をつけるという風にも読めるが、この二人の関係においては少し様相が変わってくる。

誰かがわかり易く悪いというのであれば納得もでき消費もできよう。そうではないのに物語にいざなわれるように、誰もが険しい方向へ進んでいかねばならない道のりには人生の不条理が影を落としている。あまりの理不尽さに怒りすら覚えるほどの。

それでも三人姉妹は彼女たちのユートピアであるモスクワへ行くという「夢」にすがり、その「夢」は、ヴェルシーニンが繰り返し“哲学”と称して口にする「二百年後、三百年後の地上の生活は、想像の及ばぬほどすばらしい、驚くべきものになるでしょう」という「理想」や「幸せ」と通じている。もっともヴェルシーニンは彼女たちとは違って、それらを端から「われわれのずっと後の子孫の取り前」と諦めていて、現実の人生を悲観しているのだが。

ユートピアの原義が「どこにもないところ」であるように、完璧な「理想」や「幸せ」などというものも、どこに行っても三百年経ってももたらされるものではない。

つまり、生きていくことに伴う理不尽なまでの不全感は絶えることなくいつの時代にも存在する感覚といえよう。決してなくなることなどない普遍的な感覚であるのだとすれば、若さの象徴のようであった末っ子イリーナさえもがとうとう「何もかも忘れて行く、毎日忘れて行く。だのに生活は流れていって、二度ともう返らない」と嘆いたとしてもなんら不思議なことではなく、仕事の悩みや報われない恋や火事などの災難に悩まされ、夢が破れ可能性が少しずつ閉ざされ老いへの不安は増していくなんてこと、もはや特権的に誰かにだけ与えられるものではないなどとは言うまでもなかろう。

舞台の周りが回廊のようになっていて、回っている間は役には入らず、舞台に上がることでその役を生きるという演出が巧妙で、観る者の意識は絶えず劇世界と現実世界を行き来せざるをえず、終盤の畳み掛けるような滑稽なまでの嘆き悲しみが普遍的な装いで漂ってくるとそれはもう、登場人物のものなのか俳優のものなのか、それとも対面する観客のものであるのか、いやこの私自身のものでもあるのだとの思いが、去りゆく旅団が奏でる美しいテーマを聞きながら湧き起こってきて、「楽隊の音は、あんな楽しそうに、あんな嬉しそうに鳴っている。あれを聞いていると、もう少ししたら、なんのためにわたしたちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ」というオーリガの叫びの響き渡る中、黒澤の言葉「絶望に酔わず、希望に溺れず、あるがままの「現実」を受け入れて、それでも生きて前へ進んでいこうという「覚悟」」が空間を満たしていくようであった。

立ち去るときにリボンをほどいた際、進んでいく覚悟をすることでイリーナが自由になったのだという思いがほんの束の間到来した。
そして誰もいなくなった舞台に残されたリボンは、彼女が、彼/女たちが確かに存在したという、はかない痕跡のようにも見えた。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第92号、2008年4月30日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
鈴木励滋(すずき・れいじ)
1973年3月群馬県高崎市生まれ。栗原彬に政治社会学を師事。障害福祉の現場で喫茶店の雇われマスターをしつつ、演劇やダンスの批評を書いている。ウェブログ「記憶されない思い出」を主宰。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/suzuki-reiji/

【上演記録】
時間堂『三人姉妹』
王子小劇場(3月13日~23日)

【演出】黒澤 世莉
【脚本】アントン・チェーホフ/翻訳 神西 清

【出演】
雨森 スウ
石田 潤一郎
大野 洋範
菅野 貴夫
木内 貴大(アーノルド・S・ネッガーエクスプロージョンシステム)
境 宏子(リュカ.)
鈴木 浩司
瀬尾 卓也
玉置 玲央(柿喰う客)
原田 優理子(トリのマーク(通称))
星野 奈穂子
堀 奈津美(DULL-COLORED POP)
松葉 祥子
山田 宏平(山の手事情社)

【スタッフ】
照明:工藤 雅弘(Fantasista?ish.)
舞台監督:佐伯 風土
宣伝/舞台写真:松本 幸夫
ビデオ撮影:$堂
宣伝美術:村山 泰子
当日運営:松本隆志
演出助手:佐伯 風土/谷 賢一(DULL-COLORED POP)

【チケット】
前売/当日 2,500円(全席自由)
シネマプライスシアター 1,800円 *13日(木)、14日(金)、15日(土)、16日(日)の公演
学生/北区在住者/シニア(60歳以上) 1,800円 *当日券のみ

企画・製作:時間堂2007計画実行委員会

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