横浜・吉田町を舞台に10月3日-5日の3日間、「ラ・マレア横浜」と呼ばれる街頭パフォーマンスが繰り広げられました。アルゼンチンの劇作家・演出家の作品を、日本人の俳優をオーディションで選んで上演する国際企画です。(上)で3編紹介しましたが、(下)ではさらに2編を掲載します。(編集部)
4.「ラ・マレア」の干満
杵渕里果
急な坂スタジオの、上演プレトークが終わると、キャストたちが、参加者を吉田町までつれていってくれた。『ラ・マレア』は、吉田町での街頭演劇だ。
道すがら、ひとりの女優さんに、オーディションってたいへんだったの、と聞く。役者の生活に興味があったので、役者さんていつもオーディションをさがしているの、と聞いてみる。忘れちゃった、と彼女。たしか、海外の舞台をみたくていろいろ検索していたら、たまたま今回の募集をみつけたんだよ、という。うーん、私が受かるんだから、かわった演出家なんじゃないかなぁ。受かってみたら、家が遠くて、いましばらくは桜木町のウイークリーに滞在しているそうだ。オフシーズンって半額なんだよ、と教えてくれる。
一団が、吉田町に到着する。すると、銀色のピアスの大柄な男優が、みんなを止めて、「ここの唐揚げはおいしいんです」と、もう夜で閉店した店なのにたからかに指差す。彼は、地元っ子の俳優さん。「野毛で食べて吉田町でしあげに飲む」というひと。「ここで演じられてほんとにうれしい」と、プレトークで自己紹介していた。彼はまさに、吉田町のお店の人から、オーディションに誘われたという。
「開演は19時なんだから、唐揚げは閉店してるよ」と、小柄な男優さんが笑う。もう友達は誘ったの、と彼に聞くと、あしたあたりメールするかな、という。街頭演劇『ラ・マレア』には、いわゆる声の台詞がない。役者は、持ち場に立てられた字幕の前で、それらしい身振りを示さなくてはならない。今回は、台詞がしゃべれなくて残念だね、といってみると、覚えなくていいから楽できると思ったんだけどね、と笑う。でも案外むずかしいのだそうだ。字幕と動作がずれたり。でも、ずれたらそれも、豊かさじゃないかな、と彼はいう。日本人の風体の自分には、翻訳劇なのだし、タイム・ラグができても、それはそれで。
そのプレトークから一週間後、本番を見に行った。
桜木町から野毛、そのむこうの吉田町へ。
そういえば、浜っ子の私の友人は、桜木町のむこうに広がる、みなとみらいが嫌い、といっていた。中華街や野毛・伊勢崎が「ほんとうの横浜」で、みなとみらいは「うそ」なのだそうだ。桜木町駅から海の方向に顔を向けると、なんだか故郷が壊されたかんじがするそうだ。私は東京者なので、東京なんてもっと入れ替わり立ち代わり、新築新築、大きいたてものばかりなんだから、となぐさめたことがあった。
19時、吉田町の街頭演劇がはじまった。
音楽とともに、スタンバイしていた役者たちが動き出す。といっても、喫茶店でコーヒーを飲んだり、携帯を確かめたりと、さりげない動作を続けている。ところが、彼らの前の字幕は、「かつてマリファナを吸っていた」り、「その晩妻とシャンパン風呂に入った」りと、日曜洋画劇場のブラット・ピットのような、なんだか激しい人生の軌跡を指ししめしている。
うそくさいな、と思う。
『ラ・マレア』の字幕と役者の関係は、マグリットの「これはりんごではない」のラベルとりんごの絵のようだ。字幕まるごと、演者についてのほんとうの説明と見るべきか、街頭でみかけた他人の内面についての、あて推量とか偏見の、アナロジーと受け取るべきか。妙にガイジンみたいな日本人。吉田町での、ありうべからざる人物たちの群像劇。
浜っ子の友人なら、「これは吉田町の出来事ではない」というのだろうか。だけどね、と思う。私は、その日はじめて、吉田町も、そのまわりの野毛や伊勢崎も見物した。浜っ子の彼女の街を、この「うそのひとびと」があらわれる街頭劇がなければ、なにも知ることがなかったかもしれない。
『ラ・マレア』は、潮の干満を意味するスペイン語で、これは、街路を歩く人が、入れ替わり立ち代わり、あるいは、字幕が、浮かんでは消えるのに、重ねたそうだ。ならば私にとってのそれは、かつて友人が教えてくれた「ほんとう」のなつかしい横浜界隈に、いっとき私を運んでは、私をつれて流れ去る、「みなとみらい」よりはずっとやわらかな、やさしい「うそ」の潮だった。
(初出:マガジン・ワンダーランド 第109号、2008年10月15日発行)
【筆者略歴】
杵渕里香(きねぶち・りか)
1974年東京生まれ。演劇交友フリーぺーパー『テオロス』より、演劇批評を書き始める。『シアターアーツ』にもときどき投稿。保険営業。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kinefuchi-rika/
5.一人ひとりが今ここに在る
鈴木励滋(舞台表現批評)
レバー・とんとろ・かしら・しろ、店の軒先には串焼きを愛する者として魅力的な提灯が下げられている。ねぎま・てっぽう・たん・はつ、ガラス越しには旨そうな煮込みをつつき、酒をあおりながら盛り上がる客たちの顔や忙しく動き回る店員たちが見える。はらみ・もも・皮・テール、その店の前を寄り添う男女がゆっくりと横切る。そして手羽先と書かれた提灯の下を過ぎ、「備長炭火焼」と大きく記された全てのお薦めが載せてある、幅1メートル高さ3メートルもあろう壁面の巨大な看板の前で、今まさに口づけを交わそうとしている。
車道にはたくさんの人々がいて、にぎわう店の前で起こるその瞬間を見つめている。男女の前にはモニターが配置されて、「そう 今この瞬間です/はじめてのキス/これから 彼らにとってこの道はずっと/ファーストキスの場所として思い出されるでしょう」という字幕が。
「いやいや、ここじゃないだろっ!キミたち!!」という人々の心の声が聞こえそうだ。ここは横浜吉田町。桜木町駅と関内駅のほぼ中間に位置していて、野毛や伊勢佐木町、みなとみらいという新旧の繁華街に囲まれた比較的地味な通りである。
馬車道を通り観覧車を目指してみなとみらいへ抜けてもいいし、横浜スタジアムの脇を行って中華街ってのも雰囲気があるぞ。初めてってのならベタに山下公園まで足を伸ばすがいい若者よ、と気を揉んだ向きもあるかもしれない。
第一、ここからは海が見えないじゃあないか、と。
アルゼンチン人の劇作家/演出家、マリアーノ・ペンソッティが吉田町の一本の通りの空き店舗や路上の9箇所を舞台に10作品を現出させた。一ヶ月に及ぶ滞在製作、オーディションで選ばれた16人の俳優が1~3名のチームに分かれて稽古を重ねた。制作の者たちは商店主や地域の人々や警察に趣旨を説明して回り、界隈の人たちの多大な協力を得て、10月最初の週末の夜に限定三日間、通りがまるごとパフォーマンスの会場となった。
9箇所で10分の作品が10本(Barでは二つの作品)、2分間隔で上演される。つまり、俳優たちは同じ内容を10回(Barでは交互に5回ずつ)演ずるのだが、観客は一つずつ観て回れば2時間ほどの上演時間の中で全てを鑑賞できるという仕掛けである。
事故で転倒したバイクの脇に男が横たわっている。すぐ近くの部屋にはピアノの練習をする女と腕立て伏せや縄跳びで体を鍛える男、隣の建物のリビング-ダイニングには荷造りする女と料理をする男、その横のワンルームマンションの一室のような空間にあるベッドには寝付けない女がいる。向かいの建物の2階には騒がしい室内からバルコニーに出て浮かぬ顔をしている男がいて、通りの中ほどにある電話ボックスの横では男が佇み、彼が立ち去った後に女がやって来る。通りを挟んで反対側にあるギャラリーのような本屋には物色している女とその様子を見ている男があり、数軒隣のバーでは考えごとしつつメモをとる初老の男と彼が帰った後に手紙を読むウェイトレス、そこに若い男が現れて客席でニヤニヤしたりする。そのバーを出た男女は通りの逆側まで共に歩き、居酒屋の前の歩道で延々とキスする。
ただ、全てを観て回るのにギリギリという設定は厳しいというより、もったいない気がした。きっと月光菩薩像の傍を流れるプールのような人波の中で見せられた人たちもこんな感じであったか、などと思いつつ貧乏性のわたしは確実に全部を観たいと焦っていた。キスの現場でなかなか事が始まらないのを何かのトラブルかと早とちりし、スタッフに確認を取らねばと右往左往していると、背後のバーでゆったりとお茶をしてから御両人は現れ、すっかり字幕の見やすい場所には人垣ができてしまっていた。
そう、10本それぞれにテキストが用意されていて、10分の上演中にスクリーンや路面にそれが映し出される。キスのシーンでは、二人の登場に合わせて大きなモニターを、スタッフが歩道に設けられたレールの上を定位置まで転がす。
景観に溶け込むように配慮されつつ通りのあちこちに設置されたスピーカーや照明、なかには向かいの二階の空き部屋から当てられていた明かりもあった。同様に“舞台”も、バルコニーやバーは既存のものを使っていたのだが、本屋や三つの居室は空き店舗を利用してこの日のために組まれたセットで、営業中のバーの店先で上演するのもすごいが(実際、店内にはたくさんの客があり、上演中にも出たり入ったりする!)ショーウインドウのような四つの部屋は一見セットとは思えない完成度で、本屋はともかく道に面してガラス張りでベッドやダイニングが丸見えという奇妙な空間に説得力をもたらしていた。
まさにプロジェクトと呼ぶにふさわしい本作について、当日に通りの入り口でスタッフから手渡されていたパンフレットには「ブエノスアイレス国際演劇祭で「La Marea」を発表、その後ブリュッセル、ベルリン、リガ、ダブリンなどで、その都市のコンテクストに合わせたバージョンを発表」とある。
コンテクストか。そういえば、先月日本で初演されたベルギーを代表する王立フランドル劇場からの委嘱で平田オリザが書き下ろした『森の奥』のポストパフォーマンストークにて、チェルフィッチュの岡田利規はコンテクストの差異についてこのようなことを語っていた。
「僕が海外で公演するときに気になるのは、コンテクストを持ってそこで生活している人たちに、それを知らない僕が自分の作品を発表する際に、どういうものとして見られるのかということ」
そんなことを頭の片隅に漂わせつつ会場を回ると、実際、日本大通の役所に婚姻届を出したとか、野毛の居酒屋で待ち合わせだとか、元町近くに部屋を借りるとか、警友病院で生まれたなんて、横浜っぽいことが字幕にはあらわれていた。
その他にも、横浜以外の国内の地名や日本人の作家の名前などが散りばめられていて、「日本版」作成のための翻訳スタッフの苦心が伺えたのだが、セットのような説得力は持ててはいなかった。おそらくそれは、物語の根幹を成すためにいじられることのなかった、作家が譲れないいくつかの設定が存在感を持ちすぎていたからなのだろう。
ペンソッティ自身はコンテクスト云々ということには興味がなく、書き換えによって擦り寄せているようにみえるのは、その街で門前払いをくらわないためのご挨拶程度のものだったのではなかろうかと思えた。
だが、とりわけ本作のような、偶然に通りかかった人たちまでも巻き込もうという意欲的な仕掛けであるのならば、岡田のように意識的にあえてコンテクストの擦り合わせをしないという選択までをも含めて、この点はもっと探究されるべきであったのかもしれない。
けれども、この作品の課題は作品自体にではなく上演形態にあるのだと思っている。やはり、量の多さと時間の制限に無理があったのではなかろうか。
稽古場に訪れた際、繰り返しひとつのシーンを稽古していて、最初に俳優の演技だけを観て、その後にテキストと合わせて観るということをしてみたのだが、これが実に面白かった。字幕の情報量が多すぎて、一回では観客は演技の詳細に目をやることはかなり難しく、それが即ち俳優たちを添え物として用いているという批判にもつながるのかもしれないが、仮に余裕を持ってそれぞれの作品を観られたのであれば、全く異なった感想を得られたはずで、まことにもったいないことである。
それぞれの10分間のために用意されたさまざまなテキストによって、倒れている男や考えごとをする男の来し方を、リビングの女の荷造りの意味やバルコニーの男の浮かぬ顔の所以や寝付けない女の抱える煩悶を、手紙の中身やニヤニヤの真相を知ることとなり、仲睦まじい夫婦やすれ違う男女の本当の関係や、妻に去られる男やキスし続ける男女のその後までをも、まるで神の視座を得たかのように見通すことができる。
すると、眼前のどうということもない所作や表情、遣り取りなどが深い意味を帯びてくる。俳優たちは決して添え物などではなく、彼/女たちがしっかりと存在していたからこそそのような効果が生じていたのは間違いない。
作品数ないしはテキストの量を絞るのか公演時間もしくは会期自体を延ばすのか、はたまた字幕ではなく音声ガイドのようなメディアを用いるのか、構造的な問題を解決することで、一つひとつの作品に向き合うゆとりができたとしたら、そこに確実にあった俳優たちの存在感を味わえたであろうし、コンテクストのズレさえ乗り越えられたかもしれない。
では、作家はこんな大掛かりな装置を用いて何を表現したかったのだろうかなどと考えながら、いくつかを観ていくと、過去や未来、本当や真相といったものをまさに神の仕業のごとく啓示し、作家が自分の創り出した世界の全知全能なる者として君臨したかったというだけなのであろうか、という疑念も生じつつ、ちょうど通りの半ばに位置する本屋に差しかかった。
本屋で女性のことをチラチラと見ている男に添えられるテキストは彼の妄想であった。彼女と恋人同士になれるという何とも都合の良い彼の妄想は、やがてふられて傷心旅行するところまでも広がっていくのだが、唐突に目の前の彼女から、ある本に関して“現実に”話しかけられ大した受け答えもできずに終わっていく。
他のどのシーンも俳優たちはほとんど話すことはないし、例え会話があっても室内のそれは観客には聞こえないのであるが、唯一この会話だけはマイクを通してわたしたちにも届けられた。
もちろん、所詮この“現実”も作者の創作なのではあるが、この妄想と現実のズレという現象との出会いが、字幕によって登場人物たちの「本当」を追おうとしていたわたしの関心を変質させたように思う。
目の前のどこにでもいそうな人物たちの想像も及ばない「真実」が示されることで、対位法的な効果によって彼/女たちの凡庸さが際立ち、月並みな人生の掛け替えのなさを知る。つまり、これはまさにポタライブが街の異なった相貌を見せてくれたように、人々のことがもっと違って見える感覚を喚起させるアンプ(増幅器)のごとき企てだったのではないか。わたしが世界をもう少し鋭敏に感覚できるのであれば、装置の手助けがなくとも世界は、人々はちゃんとそのように見えるのではないか、という思いが湧き起こってきた。
雨で路上の作品「バイク」が中止になり、一コマ空いてしまったために、先ほどちゃんと観られなかったキスの現場へ急ぐ。強くなった雨の中、いつの間にか通りに溢れる傘を差すたくさんの人々をかき分けるようにして走る。
そうか、やはりこの通りにおいて二人がキスをするのは、最もにぎわいをみせるこの串焼き屋の前しかなかったのだ。二度目なので字幕は適当に読みつつこの場面全体を眺めてみると、観客たちはもちろん、先ほどは背景のようにしか見えなかった店の客たちの実に様々な表情をしている。彼/女たちの内面世界の豊かさが溢れ出しているかのごとくである。
この作品によって逞しくされた想像力で、一人ひとりの物語を妄想したくもあったが、それぞれの過去と未来を結ぶ軸と、この広い世界の交わる一点として、一人ひとりが今ここに在るという揺るぎない事実を感覚させられたとき、もはやそんなことは必要ではなくなっていた。
確かにここから海は見えなかったが、人々はまるで潮が満ちるように束の間つどい、引くかのごとくそれぞれの日常へと帰っていった。だれかへのまなざしがほんの少し温かくなったことに気がつかぬまま。(10月5日(日)観劇)
(初出:マガジン・ワンダーランド 第110号、2008年10月22日発行)
【筆者略歴】
鈴木励滋(すずき・れいじ)
1973年3月群馬県高崎市生まれ。栗原彬に政治社会学を師事。障害福祉の現場で喫茶店の雇われマスターをしつつ、演劇やダンスの批評を書いている。ウェブログ「記憶されない思い出」を主宰。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/suzuki-reiji/
【前号掲載分】
1.市街を読み物に変えた実験劇
芦沢みどり(戯曲翻訳家)
2.街の息遣いのなかに立ち現れるストーリー群
大泉尚子(ライター)
3.物語に傾斜する現代人の断片 練られているが文化ギャップも
水牛健太郎(評論家)
(初出:マガジン・ワンダーランド 第109号、2008年10月15日発行)
【上演記録】
「ラ・マレア 横浜」( La Marea Yokohama )
日程 2008年10月 3日(金), 4日(土), 5日(日)各日19:00~21:00(120分)
会場 横浜市中区吉田町 街頭(店舗内および路上)
料金 無料 / チケットの発券はありません。
日本語字幕付き / 解説資料配布あり
脚本・演出:マリアーノ・ペンソッティ / Text and Direction : Mariano Pensotti
美術・衣装:マリアナ・ティランテ / Set and Costume : Mariana Tirantte
照明:マティアス・センドン / Light : Matias Sendon
音楽:フェデリコ・マラル / Music : Federico Marrale
製作:ブエノスアイレス国際演劇祭 / Production : Festival Internacional de Buenos Aires 横浜バージョン
共同制作:急な坂スタジオ / Yokohama version Co-production : Steep Slope Studio
出演:オーディションにより選出された16名の俳優 / Cast : The actors and actresses selected by the audition
日本スタッフ / Project Team in Japan
ディレクター:相馬千秋(急な坂スタジオディレクター) / Producer :Chiaki Soma (The Director of Steep Slope Studio)
翻訳:岸本佳子 / Translator : Yoshiko Kishimoto
宣伝美術:先崎哲進(TETUSIN) / Design : Takayuki Senzaki (TETUSIN)
舞台チーム:清水義幸+カフンタ / Stage team : Yoshiyuki Shimizu + Kafunta 清水義幸、有島由生、井上達夫、江連亜花里、小川信濃、角隆司、武田幹也
Yoshiyuki Shimizu, Yu Arishima, Tatsuo Inoue, Akari Ezure, Shinano Ogawa, Takashi Kado, Kanya Takeda
技術制作:細川浩伸(急な坂スタジオ) / Technical Manager : Hironobu
Hosokawa (Steep Slope Studio)
制作:米原晶子(急な坂スタジオ) / Production Manager : Akiko Yonehara (Steep Slope Studio)
制作補:並河咲耶、米山淳一 / Production Assistant : Saya Namikawa, Junichi Yoneyama
主催:急な坂スタジオ
Organized by Steep Slope Studio
共催:アーツコミッション・ヨコハマ、吉田町町内会、吉田町名店街会
Co-organized by Arts Commission Yokohama, Yoshida-machi Cho-nai-Kai, Yoshida-machi Meitengai-kai
後援:在日アルゼンチン共和国大使館
Endoresed by Embassy of the Argentine Republic
特別協力:美術商はまゆう、ブック・ピック・オーケストラ、ポズ・ダイニング
Special Cooperation by Antique art dealer HAMAYU, Book pick orchestra, Poz Dining
協力:アサヒビール株式会社、株式会社ヤマハミュージック横浜、セゾン文化財団、吉田町バーズ・ストリート
Co-operated by ASAHI BREWRIES, LTD., YAMAHA MUSIC YOKOHAMA CO, LTD., The Saison Foundation, Yoshida-machi Bar’s street
平成20年度文化庁国際芸術交流支援事業
Supported by the Agency for Cultural Affairs Government of Japan in the fiscal 2008
本事業は、創造都市横浜国際レジデンス事業の一環で行われています。
This project will be held as a part of creative city international residential project.
▽「ラ・マレア 横浜」プレトーク
http://kyunasaka.jp/topics/mac/mac21.html
日時:9月28日(日)16:30 カフェオープン 17:00 トークスタート
会場:急な坂スタジオ
料金:1,000円(1ドリンク付き)
ゲスト・スピーカー:
マリアーノ・ペンソッティ(劇作家・演出家)
マリアナ・ティランテ(舞台美術家)
岡崎松恵(Offsite Dance Project代表・プロデューサー)