◎加害/被害…二元論の先へ
鈴木励滋
障害がある人たちが過ごす施設の現在を描いた二場冒頭、およそ50年前のチッソ水俣工場内を舞台とした一場で工場長や付属病院長を演じた俳優が、水俣病患者として登場したという仕掛けは、少なからぬ観客を当惑させたに違いない。その仕掛けが意図していたのが転生、つまり彼らに業を負わせるためのものであったとすれば、障害者が因果応報によって生まれるというえらく古い曲解に基づくこととなり、はたまたそれが罪に対する罰を表していたとしたら、障害そのものが悪であるということになってしまうのだから。
しかし、詩森はそんなことを表現したかったのではなかろう。彼女が「加害」と「被害」という問題を強く意識していたのは確かではあるが。
一場では、すでに中枢神経を患う者が現れていた水俣で、自社の工場からの廃水がその原因だと察知し始めたチッソ内部の研究者や医者たちと、それでも会社を護ろうとする幹部たちの、それぞれの想いが描かれる。また父親の身体に異変が生じてきた現地採用の女子社員と本社から赴任してきている青年の恋愛も見え隠れする。
上手寄りに柱と梁を部分的に表した大きな十字架のような構造物が配置され、正面奥には中央部を横長に四角く切り抜かれた壁が天井まで伸びている。ほぼそれだけのシンプルな舞台装置に長テーブルが三脚と椅子がいくつか用いられる。照明は薄暗く音楽は使われないために、白熱する議論とそこに漂うやり場のない怒り、徐々に緊迫感は高まっていき、ついには廃水を与え続けた実験用の猫に決定的な症状が出て、通産省からも通達が来る。1959年の晩秋のおよそ一時間を切り取った。
慌しく人々が退場していってしまった後の凪のような舞台で強く希望を語る女子社員の言葉は、その後の水俣の受苦を知る観客たちに、彼女の父親の病状や青年との恋が彼女の望まざる方へと向かってしまう「未来」を予感させ、静かに澱のような悲しみを堆積させていく。
二場に登場する若い女性の演劇人国東を演ずる俳優が一場で描かれた人たちの「その後」を語る中、場面転換がなされる。そこが前述の「役変わり」の場面となるのであるが、おそらく多くの観客に動揺に似た違和感を生じさせながら二場が幕開けとなったはずである。
二場では水俣病患者やその他の障害がある者たちが通う施設「みかんの家」のとある一日の様子が淡々と描き出される。全く同じ舞台に強く明るい照明が当たり、色とりどりの小物が持ち込まれ、一場で窓に見立てられた奥の壁の四角い穴はオープンキッチンのカウンターとなり、雰囲気は一変している。施設の利用者たちは職員や実習生の手を借りてポプリを作ったり、カフェやランチの用意をしたり、テーブルを囲み他愛もないおしゃべりをしながら、ゆるやかに時間が過ぎていく。そこには隠しようもなく悲しみが言葉の端々や振る舞いの後ろに浮かんでくるのだが、それを包み込むに足る笑いに満ちている。
ただ、若い女性の演劇人という役は、動きをもたらすために「外部」の存在として作られたのであろうが、水俣病患者たちや自閉症の青年を「演じる」ということの是非を登場人物たちが論ずるという、私には余計にしか見えなかった場面を導くこととなる。論文を書くために訪れた学生でも取材の新聞記者でも良かったはずなのに、敢えて彼女を登場させたのは、詩森がそれだけ「蛇足」を描かざるを得ないと感じたのだとは思うが、そんなことを言い訳がましく直接書き込むべきではなかった。そこは敢えて語らずに、たとえどのような批判に晒されようともそれを受けるという覚悟は、この題材を取り上げることを決めたときからせねばならなかったはずなのだ。
そこまでしても詩森が表現したかったものが存分に表せていなかった、二場ではそのために彼女がさらに踏み込んで語らねばならないことが自己弁護などでなく他にもっとあったのだと私は思っている。
詩森は観客を動揺させてまで、「加害」と「被害」について踏み込もうとしていた。だが、「誰もが加害者にも被害者にもなりうる」ということを意味していたのではない。誰かが加害者で誰かが被害者であるという二元論を揺さぶろうとしていたのだ。そしておそらくそれは、父親を水俣病で亡くし自らも発病しつつ未認定患者の闘争の精神的支柱であった男の思想に導かれている。
「チッソは私であった」。後に認定申請そのものを取り下げることとなる女島(めしま)の漁師・緒方正人の言葉である。彼は『証言 水俣病』(岩波新書)の中で、チッソという企業や行政と闘ううち次第にその相手がわからなくなり、便利さや物質的豊かさを欲してしまう自分の中に、経済成長のためならば他者を人間とも思わないという時代の構造的な病態と相似形のものを見出し、その構造を解体するどころか温存を図るような政府の用意する「和解」の道筋から離れていった経緯を語っている。
チッソ職員一人ひとりの中にもある構造的な暴力に晒された個人の被害性と水俣病患者さえ逃れることのできない人間の根源的な加害性。そのどちらもが私たちの中にも連綿と存在している。ややもするとその気づきは、私たちを鬱屈させるかもしれないし、二場冒頭の当惑はその胸騒ぎであったのかもしれない。詩森が誰かが加害者で誰かが被害者であるというわかりやすい二元論を揺さぶるのみならず、越えて行けたのであれば、いたずらに人々を塞がせたり惑わせたりするにとどまらなかったはずであった。
認定申請を取り下げた上で緒方は、水俣病患者としてではなく、人としてチッソ擁護に加担した人たちをも含めて救済されることを求め続けている。存在を賭した思想の前では、長期の取材に基づいたという今作も浅薄といわざるを得ないが、それでも詩森は自らに生じた衝動を信じて進むしかなかった。
会社の威信を護るためや国家の繁栄を築くために一部の人間たちを見殺しにしていくことに苦悩し葛藤し諦念する帝大出身のエリートたちよりも、その尺度の中では下層というか階層にすら入れられることのない人々が、人として実に生き生きとしている姿を示し、私たちが囚われている古く狭い価値観を組み直せたのかもしれなかったが、予感の域を越えることはなかった。詩森が二場で、一見すると無価値なものをかけがえのない輝きに、圧倒的非力を頑ななたくましさに、異形をこの上なく美しいものとして、立ち上がらせられたとしたら、一場と二場を結ぶあの仕掛けによって恨みや暴力の連鎖を断ち切る可能性までもを提示できたのではなかったか。チッソ職員たちの、水俣病患者の、そして私たちの中にある加害性と被害性を赦し/救うための途が見えたのではなかろうか。
「(演劇に)やれることが、あるんじゃないかと」「吉倉さんのポプリをすくう手がすごく綺麗で・・・。そういうことに、もう少し強い光をあてて、照らすみたいなことが」とラスト近くで国東は語る。
そんなことを登場人物にわざわざ語らせるのではなく、まさに詩森自身がやってのければよかったのである。生産性からみると無為とさえいえる吉倉の作業の手の所作が、奇跡のように美しいことを全身全霊傾けて表し、知らしめることからその先の可能性が開けていくはずであろうから。
(「劇評を書くセミナー2008春季コース」 2008年7月12日第7回課題公演評から)
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第106号、2008年9月24日発行。購読は登録ページから)
(編注)この原稿は劇評セミナーの課題作として匿名で執筆、ほかの作品とともに公開されましたが、筆者の希望により、あらためて署名劇評として個別掲載します。ほかの課題作は風琴工房「hg」(上)(下)をご覧ください。
【筆者略歴】
鈴木励滋(すずき・れいじ)
1973年3月群馬県高崎市生まれ。栗原彬に政治社会学を師事。地域作業所カプカプの所長を務めつつ、演劇やダンスの批評を書いている。「生きるための試行 エイブル・アートの実験」(フィルムアート社)やハイバイのツアーパンフに寄稿。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/suzuki-reiji/
【上演記録】
風琴工房公演「hg」
下北沢ザ・スズナリ(5月9日-18日)
【作/演出】
詩森ろば
【出演】
篠塚祥司
佐藤誓
金替康博(MONO)
栗原茂(流山児☆事務所)
西山水木(La compagnie an)
松岡洋子
宮嶋美子
山ノ井史
笹野鈴々音
浅倉洋介
海原美帆
北川義彦
津田湘子
【スタッフ】
舞台美術:杉山至+鴉屋
衣装/宣伝美術:詩森ろば
照明プラン:榊美香
音響プラン:青木タクヘイ
音響オペ:鈴木美枝子
舞台監督:小野八着
スチール:鏡田伸幸
演出助手:渡邉真二
制作:田中真実
前売 3200円 当日3500円
大学生2200円 高校生以下1500円 障碍1500円
ペア券5800円 トリプル券8400円
【助成】
私的録音補償金協会(sarah)
芸術文化振興基金
【後援】
水俣市立水俣病資料館
社会福祉法人さかえの杜 ほっとはうす(水俣)
株式会社熊本放送
水俣フォーラム
FM791(熊本シティFM)
坂西卓郎(財団法人水俣病センター相思社)
◆ファーストウィークエンドキャンペーン
最初の週末3日間、風琴工房を「はじめて見るお客さま」と来ると1名様分招待。
※詳細は「つたえて」プロジェクトを参照。
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