◎変奏される台詞・生き残ってしまった人の物語
一つの劇団とある程度深く関わってしまったことで劇評が書けなくなるときもある。自分がどういう立ち位置でものを見ているのか話してしまうことともつながってくる。そんなわけで1カ月も経ってしまった公演の話ですが、やっぱりこの舞台は今年のベストに選んでしまうと思います。
先月、渋谷ギャラリー・ルデコの、ふつうはあまり演劇用スペースに使われない、四周に鉄骨の組まれた小さなスペースで、男二人女一人の三人芝居+出演者の一人は作・演出も兼ねている、超小規模な公演があった。
取り外しのできない鉄骨はそのまま二階建ての客席として流用し、舞台空間の鉄骨には黒幕を張って、下手から劇場の天井裏まで伸びている階段も舞台装置の一部に使って、床と鉄骨がぶつかる所には花が植わっている。
大道具移動による場面転換なし。
舞台中央の大きな柱の手前には木の、背もたれなしのベンチを置いて、それが長距離列車の座席になるところから舞台が始まる。
中学校以来40年ぶりにクラス会で再会した津田と手塚は、長距離列車に乗りながら中学時代の思い出や、死んだ母親のことを語り合う。
語り合うと言っても津田は昔から無口な性格だったようで、手塚は時々それをからかいながらしゃべり続けているのだが、二人が中学校時代にクラス劇でやった「銀河鉄道の夜」の話になるにつれ、練習を特訓した演劇部部長の荒川美幸のことと、美幸をめぐる二人の初恋の話が思い起こされて場面は徐々に劇を練習した公園に変わる。
戯曲を引用しないで「水の花」のことを話すのはとても難しい。今冒頭に挙げた津田と手塚の関係性だって、無言のまま二人が隣り合って乗り込んだ電車の中で、手塚が
「40年だってさ。」
「最初はね、誰だよこのおじさんおばさんはって……」
と言うだけで説明してしまう。冒頭のシーンで語られた一連の台詞が何度も変奏され、それとともに場面が次々と変化するのがこの話の魅力だ。また、言葉のはしばしに登場する昭和30年代の日本のイメージも印象深い。ザ・タイガースの「シーサイド・ゴーバンズ」「僕のマリー」で舞台は40年前の体育祭後の公園に変わり、無口な津田くんが美幸に告白しようとしてできなかった思い出が演じられる。
そして体育祭後の思い出から列車の中に場面が戻ってくる、というとなんかずいぶん叙情的だけど、おっちゃんの甘い思い出話で終わんないところが「水の花」のすごいところだ。
手塚がブログ上でぐうぜん美幸と知り合ったこと、「美幸と三人で会えるかもしれない」と打ち明けたところから、話は傍観者だったはずの手塚の無意識に侵入していく。もし津田と美幸が40年ぶりに再会したら、2人はふたたび恋に落ちてしまうんじゃないか、いやそれはまずい、なんでまずいんだ、それはおれも40年前、美幸が好きだったから……。
作・演出を担当する人間が出演を兼ねると、演出家の目が行き届かなくなるのと、演出家が冷静な立場で劇を見られなくなるのとで、舞台が壊れてしまう危険が高くなる。
だから芝居をわかってる演出家ほど、自分が出演するときは脇役を選ぶ。
「水の花」が後半、手塚(主宰の井上弘久)を主役に据えて展開するのはかなりばくちなんである。
それを補うのが「手塚の夢」という設定だ。
思い出の場所の有栖川公園で40年ぶりに再会して恋に落ちる津田と美幸は、実は手塚の無意識の中の人間で、手塚が自分の欲望に気がつくにつれ2人は化け物になって手塚に襲いかかる。
津田を殺して手塚が津田のふりをすれば美幸が津田の声になり、柱の周囲にも組まれた鉄骨をよじ登った津田が美幸の背中にのっかって手塚におそいかかってくるシーンはまさにアングラ。中盤に
「最近しょんべんが近くなって」
とおっさんだから書けるシーンがはさまったあとで化け物が
「おしっこもしていいんだよぉ?」
とのしかかってくるシーンは悪夢のシーンだけど爆笑シーンでもある。
あほだ。アングラ演劇の人ってすごくてあほだ。しょんべん近い歳になってなお、あほを出してくる先輩の前に若造は爆笑しながら降参するんだと思う。いいぞおやじ。すげえいい。
凄まじい化け物を必死の思いで手塚が打ち倒すと、美幸が死んだはずの母親になって
「あんた、『消えろ』って津田くんの胸を突いただろっ」「かわいい荒川さんを化け物にしたなっ」
となぜか先ほどの公園でのできごとを知っている。
56歳のまま母親に叱られていると母親は再び美幸に戻り、手塚は56歳のまま、有栖川公園で40年前とおなじく「銀河鉄道の夜」の最後のシーンを練習することになってしまう。
「水の花」とは噴水のことで、美幸が小学校のころに書いた詩のひゆとして出てくる。
「噴水は
いっしょうけんめいとびあがって
伸び上がって
空を見て
きらきら光って
水の花を咲かせます」
という詩に、美幸の担任が人間の生きる姿を見いだして涙したというエピソードが
(それもやっぱり美幸の「夢」をきっかけにして)出てくるのだが、
実際に小学生が朗読したあどけない声の詩とは裏腹に、何度も何度も飛びあがり、夢の中でまで追体験しても本当に安らかな、たとえば神様っぽいものに心から救われるようなことはないのだと言わんばかりの、悲しい確信が結末に満ちる。それは、冒頭から登場する「銀河鉄道の夜」の劇が、以下のシーンであることからもわかると思う。
ジョバンニ(手塚):
カムパネルラ、また僕たち、二人きりになったね。どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもう、みんなの幸いのためならば、僕の体なんか100ぺん焼いたってかまわない。
カムパネルラ(津田):
うん、僕だってそうだ。
ジョバンニ:
けれども、ほんとうの幸いはいったいなんだろう。
カムパネルラ:
僕、わからない。
荒川美幸:
いいこと手塚くん。嘘でもいいの! ううん、ジョバンニの台詞を本気で引き受けられる人なんていないよ。
「みんなの幸いのためならば僕の体なんか100ぺん焼いたってかまわない」なんて、平気で言えるのは嘘つきだけだ。
だから大嘘をつくの! カムパネルラをだましてやるの!
生き残る者は死んでゆく者の希望なんだ! だから大うそをつかないとだめなんだ!
そんなことぐらいわかるでしょう、いい歳なんだから!
「水の花」は手塚を救わない。書き手の井上弘久自身を一番救わない。
そんなことぐらいいい歳なんだからわかるだろう、と言われては夢の中のできごととすら信じきれない。しょんべんの出が悪くなって、という話に交じって一言二言ほのめかされる、津田の体の具合のことも、手塚が突いた胸を押さえて
「もっと前からね。時々……」
と言う津田の先行きも救わない。
「僕の体なんか100ぺん焼いたってかまわないっ」と言いきって「銀河鉄道の夜」が演じきられると、
場面は公園から長距離列車に戻っていく。が、元の世界には帰ってこられない。手塚はスーツに帽子をかぶり、杖をつく。手塚と隣り合わせて座りこむ津田は無言のまま、手塚のほうを見る視線さえあいまいである。冒頭と同じ長距離列車の中で、手塚は言う。
「最初はね、誰だよこのじいさんばあさんはって……」
「あれから60年か……いや、70年か? ……まあ、どっちでもいいか……」
冒頭のクラス会で話していた、呆けてしまったクラスメートのように、手塚は一人で話し続ける。
ほとんど同じ台詞だが、津田はあいづちすら一言も打たない。
そして
「噴水は いっしょうけんめい飛び上がって
(中略)
水の花を咲かせます」
という声に、手塚はもう一度、
けれども、ほんとうのさいわいはいったいなんだろう。
と答える。
津田が答えないまま列車の音が高くなって幕が下りる。観客は残される。僕、わからない。うわー。
技巧的に完成されたエンターテイメントを定期的に作ることができる人と、正確に観客に自分の意図を伝えることすらできなくても作品を書いてしまう人とがいて、個人的には後者のことは職人でもなく作家でもなく天才でもなく「作り手」と呼んでいる。ほめ言葉とは言いがたい。作らずにいられない人と心の病を抱えている人とは同質だと思う。
作り手は技巧的なことが苦手だから、自分の内面を全部投入して一個の作品を作れるかどうかで勝負をしている。職人的なアーティストとは土俵がちがう。だからとても冷静ではいられない。どうしようもなく惹かれるのだと思う。
作り手がでかい花咲かせる瞬間はうれしい。
見にこなかった人、残念ね。おれ、奇跡見ちゃった。せいぜい来年を期待するがいいぜ皆様。また奇跡かどうかはわっかんねえけどな。なんせ弘久さん、作り手だから。(文中敬称略)
<上演記録>
公演期間 2008年9月9日(火) ~ 9月14日(日)
会場 ギャラリー ル・デコ 4F
(〒150-0002 東京都渋谷区渋谷3-16-3 TOWAビル)
スタッフ 作・演出=井上弘久 照明=立川直也(満平舎) 音楽=渡辺禎史 デザイン=吉田了介 舞台監督=井関景太 制作協力=玉木康晃 制作協力=玉木千裕 制作協力=長野由利子 ほか
キャスト 七海大洋(オルガンヴィトー)/井上弘久(U・フィールド)/小林千里(U・フィールド)
当日券 3,300円/前売・予約券 3,000円/学生 2,500円/高校生以下 2,000円 (全席自由・税込)
U・フィールド
ufield@mbi.nifty.com