「化粧 二幕」

◎「劇」を動かしているものは何か 「母性」が観客と出会うとき
坂本俊輔

「化粧 二幕」公演チラシ『化粧 二幕』の公演を見終えた後、ワンダーランドのセミナーの一環として、主演の渡辺美佐子さんと舞台監督の田中伸幸さんから直接話を伺う機会が得られた。海外公演での観客の反応、「ゴキブリ」のくだりが生まれるきっかけとなった地方公演のエピソード、渡辺さんの演技に対する姿勢など様々な話を聞くことができ、舞台とは異なる面から劇を理解する上でも大変参考になった。気がついたのは、お二人の話には観客との距離に関係したものが多く、すし詰めの観客を間近にして行われた下北沢のザ・スズナリ劇場での初演を、渡辺さんはとても感激した、と感慨深く語っていたことや、逆に1000人を超えるような地方の大ホールで公演を行った際は、舞台を客席に近づけるよう田中さんが苦心された話など、観客との「近さ」にこだわりをもっていることが感じられた。

お話の途中では、渡辺さんから「舞台でお見せしたものが全てなので、皆さんの忌憚のない意見をお聞きしたい」との提案があり、幾人かの参加者からは舞台上の事実と、五月洋子の妄想の区別に関する意見が寄せられた。個人的には解体工事の人夫の声や、生き別れの息子(のはずだった)田上晴彦との再会の場面も含め、全てが五月の作り出した「劇」だった、という解釈が気に入っている。ただ、渡辺さんの見解では田上との再会は劇中の事実としてある、もしくはあったということで、この舞台はそういった解釈の自由度の高さ、またその変化を楽しめることが魅力の一つなのだろう。

ただ、理解し難い、というか腑に落ちなかったのは最後のシーンだ。舞台の後半、劇場の崩壊以降の場面は五月が逃げ込まざるを得なかった妄想の世界と、容赦のない現実との激しいせめぎ合いと捉えることができるが、もし五月の妄想が現実の侵食によって破綻したのならば、五月は「だれもいない」ことに気付いて「劇」をやめるか、劇場の崩壊と共にその存在を消すような結末になるはずである。逆に、五月の妄想がなんらかの形で現実を凌駕したのであれば、彼女の心的世界をそのままに、美しい形での母と子のやりとりで締めくくられるべきだ。しかし実際には、眉墨と白粉のまだらに混ざり合った異形の化粧をし、それでもなお恍惚の表情で「おっかさん!」と叫ぶ五月の姿があり、これでは五月の狂気のグロテスクさだけが際立ってしまうし、妄想と現実の対立はどうなったのだろうかと肩すかしをくらったような気分にもなる。脚本の井上ひさしが書きたかったのはこういったものなのだろうか。

渡辺さんの話によると、『化粧』の台本を書く前の段階で井上ひさしが考えていたのは、ある母親役を演じているとそのうちにその母親へと役柄が変わっていき、「母の、そのまた母の…」とどんどん遡っていく、という芝居だったそうだ。後にそれは女座長の一人芝居へと変更された。この二作の共通点は単純に見れば「母」だが、より詳しくは「母と子の関係」というテーマが『化粧』に引き継がれた、と考えるべきだろう。加えて『化粧』は生き別れのわが子を偲ぶ女座長を中心とした芝居なので、描かれているのは「母親の感情などを中心とした、母親側から見た母子関係」で、これをもう少しまとめて「母性」が主題とされていると表現してよいのではないかと思う。するとこのテーマとラストの異様さとは余計に結びつかないのだが、あらためて問い直したいのはこの「母性」とラストシーンの関連と、五月の妄想と現実との対立は一体どうなったのだろうか、ということだ。

このことを考えるには、この舞台が結末に向かってどのように進んでいくのかを整理する必要がある。その際にここでは、舞台上で起きることの意味だけでなく、それが観客にどのような影響を及ぼすかも合わせて考えていきたい。

まず舞台の内容は、五月の妄想と劇中の事実との区別が曖昧になるように構築されているが、それに加えて、作り事であるはずの舞台と観客側の現実との境界も曖昧になる、というやや複雑な構造になるよう演出されている。「よく見えない鏡ねえ」という台詞や多数発せられる渡辺さんのアドリブ、また五月がゴキブリを追いかけて客席に飛び込んでくることなどは、渡辺美佐子という実在の人物を見ているのか、五月洋子という仮想上のキャラクターを見ているのか混乱させる効果をもたらす。冒頭でも少し触れたが、こういったことが演出としてある程度意識的に行われているのは観客に五月を、テレビを眺めるような感覚ではなく、もっと距離の近い生々しい存在として感じさせるためだろう。

また、一見自明だが非常に重要なのは、この劇が一人芝居である点だ。仮にこの舞台を2歳くらいの子供が観た場合、この女の人はいったい一人でだれと会話しているのだろう、と子供ながらにいぶかしむだろうが、ふつう観客がそう思わないのは、ほとんど無意識のうちに五月以外の人物の存在を理解して人物像を想定し、それを舞台にあてはめて観るからである。一方五月は中丸のおじさんやTBSの局員を幻視としてリアルに「見て」いるわけだが、ここのポイントは、見えない登場人物を見ることは観客にとって、気付かないうちに現実からも、また舞台上の事実からも遠ざかって、五月側に近づいていくことにつながるという点だ。つまり全面的に正しいのは2歳の子供の見方であり、五月や観客はそれぞれ誤った現実認識をしている。

そのため、衝撃的な形で五月の狂気が露わになるとき(これもそうなるように演出されているそうだ)、観客は意識レベルでは五月が狂っていることへのおどろきや同情などを感じるだろうが、無意識レベルでは、たとえ一時間程度とはいえ、自分が「五月側」に足を踏み入れていたことに対するおそろしさのようなものを経験している。そしてこの、恐怖を感じているがそれを自覚していない、という状態は、劇場が崩壊した瞬間の五月の心理状態にかなり近いはずである。

ただし、ややこみいった話になるが、観客と違って五月は現実感を失うことに恐怖を感じているのではない。五月は現実などとうに捨てている。劇場の崩壊はそのまま五月の「劇」の崩壊とみなせるが、それでも五月が繰り返し演じるのはやはり「母子関係」だ。ここでようやく母性とラストシーンの関連という元々の問いに戻るが、つまり五月は母性を失うこと、より正確には母性の対象を失うことをなによりも恐れて自分の「劇」を繰り返している。なぜなら母性とは対象なくしてはその力が発現されることはないし、だからこそ一人二役の構造の「劇」を演じ続けることが必要となってくる。この対象を必要とする、という母性の性質は「愛情」といったものと似ているかもしれない。愛情を感じる、とは自分以外の人やものにそれを感じることだし、自己愛と呼ばれる状態も、対象は「自分」として必ず存在している。

だが、母性の力は愛情ほど生易しいものではない。五月の狂気とは結局、母性の力が強大になりすぎて、自我が正常に機能しなくなった状態と考えられる。つまり母性とはその対象だけでなく主体にも影響を及ぼすのだが、その二つを幸福に包み込むだけでなく、それを飲み込んでしまうほどのおそろしい力をも備えている。ラストの五月の異様な化粧は、母性のそうした暗い面を暗示し、また同時に五月が完全に母性にとりこまれたことを表しているのだろう。もはや主格は逆転し、五月が自分の母性を守るために「劇」をしているのではなく、五月の母性が五月に「劇」をさせている。

そして五月の母性の力が及ぶのは五月だけにとどまらない。それまで舞台を観てきたことにより、五月とかなりの程度まで感覚、感情を共有してきた観客の母性も影響を受ける。ここで「観客も」としなかったのは、母性の力はその対象に対して「母-子」「包み込む-包み込まれる」という関係の上で発揮されるので、その関係上にいない観客は直接の対象というよりも、その力に感化されているといったほうがより正確なように思うのだ。だから舞台の最後に五月が化粧台に飛び乗り、観客側に向かって「おっかさん!」と叫ぶとき、観客は自身の母性に突き動かされ、「母」としての立場を取ることを選択できる。

個人的な意見では、五月の狂気は劇中の現実に一度はかなりのところまで接近しながらも、そこにたどりつくことはなかったという意味で敗北したと思っているが、五月が繰り返しなぞり続ける母子関係に観客が「母」として参加したとき、五月洋子の「劇」は内閉した狂気ではなく、虚構の世界という枠を飛び越えて、人間との生きた接触をもつ「開かれた」劇として、われわれの現実世界上に成立し得る、と考える。
(初出:マガジン・ワンダーランド第145号、2009年6月28日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
坂本俊輔(さかもと・しゅんすけ)
1982年、東京都生まれ。国際基督教大学経済学部卒業。卒業後は学習塾の講師として主に小中学生の国語を担当。現在はアルバイトをしながら演劇、音楽、絵画、ファッションなどを勉強中。2009年5月から「劇評を書くセミナー 座・高円寺留学コース」に参加。

【上演記録】
座・高円寺オープニング企画「化粧 二幕
作 | 井上ひさし
演出 | 木村光一
出演 | 渡辺美佐子
座・高円寺2(区民ホール)(2009年05月01日-31日)
上演時間 約1時間35分

入場料金 全席指定4,500円(税込)
協賛:株式会社資生堂  企業メセナ協議会認定
後援:杉並区、杉並区文化協会
企画・製作:座・高円寺/NPO法人劇場創造ネットワーク


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