「化粧 二幕」

◎二人の女優と一人の女 または彼女たちは如何にして心配するのをやめ劇場を愛するようになったか
島田健司

「化粧 二幕」公演チラシ座・高円寺のオープニングで600回の上演を迎える渡辺美佐子の一人芝居『化粧』。再演という上演形式の定着に恵まれず、大量に作られては消費され、また作られては消費される奔流のような日本の演劇状況において、1982年の初演から27年の歳月をかけて打ち立てられたこの記録は継続することが可能にする演劇的醸成とはいかなるものかを僕たちに示している。

新たな劇場を建てるため、十日後に取り壊されようとしている芝居小屋。その芝居小屋の楽屋で大衆演劇の女座長・五月洋子は自らの出演を控え、鏡台の前で化粧をしている。楽屋にいる座員を叱咤し楽屋にやってくる客をもてなしながらも彼女は口上(挨拶)の稽古、これから打つ芝居の口稽古に余念がない。やがて促されるままに、そして芝居の口稽古に仮託するように彼女は自らの半生を振り返る。一座と自分を見捨てて去った夫のこと、どうにもならない状況で乳児院に預け、どこかの家に貰われていった我が子のこと、そして芝居に対する思い…。やがて、彼女は生き別れになっていた息子と芝居小屋の楽屋で20年ぶりに再会する。二人は互いを許し合い、母子としての新たな出発を誓うのだが、彼女の芝居の幕は少しずつ降ろされようとしていた…。

一人芝居なのだが二人の女優がそれぞれの一人芝居を舞台上で演じている、僕が『化粧』から受けたのはそんな印象だ。確かに舞台の上に立っているのは五月洋子という役を演じている渡辺美佐子ただ一人なのだが、僕には五月洋子と渡辺美佐子が別々の人物として一人芝居を演じているように感じられたのだ。この二人の女優は舞台上で顔を合わせることはなく、渡辺美佐子が「現実」を、五月洋子が「幻実」をそれぞれ生きていて、芝居の後半で舞台にカタストロフィが訪れたときに渡辺美佐子の一人芝居から五月洋子の一人芝居へと一瞬の間に入れ替わる。この入れ替わる一瞬の刹那に、通常の演劇を観る場合には意識することなくまたいでしまっている「現実」と「幻実」の敷居の存在を、その敷居に足を取られてつまずいてしまったといえるほど僕はかなりはっきりと知覚することができた。

まず僕たちが目にし、そして劇のほぼ全般を通して対峙するのが渡辺美佐子の一人芝居である。舞台上には積み重ねられた行李、梁に載せられた小さな扇風機、乱雑に化粧道具が置かれている鏡台(ただし鏡は不可視なものになっている)が舞台装置として設置されている。その装置はどれをとってもみすぼらしく、そのみすぼらしさは美しい装置を配した舞台や、何もない裸の舞台に比べると僕たちの日常に近く、例えば舞台上にある座布団からは防虫剤の匂いが客席まで漂ってきそうな印象を受ける。そのみすぼらしい生活臭の立ち込める舞台の上で一人動き回る渡辺美佐子が体現しているものも大衆芝居の華やかさではなく、その陰の部分、雑多で俗っぽい大家族の母親のような姿である。舞台上には親戚の気が置けない賑やかなおばさんの家のような、場末の汚いけれど気の良い主人のいる居酒屋のような親しみやすい雰囲気が流れている。

しかし、このような親しみやすさにも関わらず、僕は舞台上で行われている行為や流れている時間に意識を溶け込ませることを拒否されているような、舞台の前に立っている何かにとおせんぼをされているかのような気がした。どうしても舞台上で俳優と一緒に舞台空間を共有しているという感覚をつかむことが出来なかったのだ。そこには僕を客席に縛り付け、舞台に上がらせまいとする力が働いていた。最初は居心地の悪さを感じたが、すこしずつ体が慣れてくると、僕の目の前に現れたもの、僕が感じ取ることが出来たものは渡辺美佐子の一分の隙もない身体行為だった。鏡を見ずに化粧をし(とても難しいらしい)、衣装を着け、目の前にいない相手に向かって話しかけ、これから演じる『伊三郎別れ旅』の芝居稽古までやってみせる渡辺美佐子。劇場は完全に渡辺美佐子に掌握され、渡辺美佐子だけを観る場になっていた。

渡辺美佐子は絶えず動き続け、絶えず言葉を発し続ける。そこには静止も沈黙も存在しない。僕が舞台上の出来事に感情移入できなかったのは、渡辺美佐子のこの隙のなさゆえだったのだと思う。僕が芝居の間隙をうかがって舞台に上がろうとすると、舞台上の渡辺美佐子は「ここはあたしだけの場所よ」と言わんばかりに僕を突き放す。舞台の上には渡辺美佐子しかいないし、渡辺美佐子しかいてはならないのである。観客の衆人環視のなかに逃げ場もなくさらされる一人芝居、そんな孤独な状況に立ち向かう女優の覚悟を観客に示しながら、舞台上の渡辺美佐子という女優は僕たちに渡辺美佐子という演技を観させてくれる。その声、その仕草は情感たっぷりに五月洋子を演じていたとしても、行為の主体としての渡辺美佐子だけを浮かび上がらせるのである。

この渡辺美佐子による舞台の独占は芝居の後半まで続くのであるが、終幕部でこの芝居の真実がポンと明るみに出たとき、渡辺美佐子の一人芝居は終わりを告げ、渡辺美佐子の肉体は五月洋子に通じる単なる覗き穴へと変貌する。舞台上にはポツンと五月洋子だけが残され、彼女の一人芝居が始まる。遠く隔たっていた舞台は急速に接近してきて、僕の意識は渡辺美佐子という形質を触媒にして出現した五月洋子によって舞台の上に瞬時に引きずり上げられ、最後の瞬間まで五月洋子にしがみつき、五月洋子とともに舞台の暗闇の中へと没していった。

渡辺美佐子の作り出す客席と舞台の間の距離はある説得力を『化粧』という芝居に与えている。渡辺美佐子が話しかける人物は舞台上にはいない、しかし僕たちはその存在を強く感じることができる。それは渡辺美佐子の演技の巧みさによるところもあるのだろうが、その不在者の存在感を最も強く主張するのは見えない登場人物の曖昧な輪郭を想像力という濃く太い線で縁取る観客の目線の力だろう。観客は渡辺美佐子と空間を共有するのではなく、渡辺美佐子に協力して『化粧』という舞台を作り上げる。それは信じることで参与することができる作業である。その作業を通じて『化粧』は存在できるのであり、その目線を確保するために観客を舞台に上げずに距離を確保する必要があったのである。

27年間600回という上演をこなすには持続力とともに俳優としての魅力が絶対的に必要となる。しかも、舞台の上で絶えず注目を浴び続ける一人芝居ならなおのことである。僕は『化粧』の観劇前に渡辺美佐子という女優を圧倒的存在感と迫力を備えた怪物のような姿として想像していた。しかし、舞台の上に現れたのは怪物などではなく、普通の渡辺美佐子だった。「普通の渡辺美佐子」という言葉はおかしいが、僕が『化粧』の渡辺美佐子から感じたのは、まさに「普通の渡辺美佐子」という印象だった。

なにが普通なのか? それは彼女が渡辺美佐子であるということが「普通」なのである。はみ出ることなく、足りないこともなく渡辺美佐子という形のなかにピッタリとおさまっている渡辺美佐子。ただ本人であること、まさにそのことによって観客の注目を集め、期待に応えること。それは、「芝居」という非日常的な状況のなかで「私」という存在が何の脚色もなく現れていると思わせるほど自然な振る舞いで舞台の上に立つことだ。僕の目にはそれらのことが27年間600回という継続と時間のみが醸成しうる奇跡のように写った。そのような演技の地平に降り立つためには、芝居が俳優を叩き、俳優が芝居を叩くことによって、例えば職人の手とその手になじんだ道具のように、芝居と俳優が「この相手でなければだめだ」という関係になることが必要なのである。そのような芝居と俳優のオートクチュールのようにピッタリとした雰囲気は舞台を観に来た者だけが秘密の儀式のようにその姿を垣間見ることができる魅力である。

その域に達するには膨大な時間と反復が必要なのだと思う。たしかに、ある程度の時間をかけて稽古をつんだ他の俳優が『化粧』を演じても渡辺美佐子のような演技は可能なのかもしれない。しかし、それはあくまで「渡辺美佐子のような」演技であり、「普通の渡辺美佐子」という演技ができるのは、やはり渡辺美佐子しかいない。なぜなら『化粧』の「普通の渡辺美佐子」の「普通」な一挙一動に僕たちが感得するのは過去に演じられてきた動作の重複の厚みと、その厚みを無視するように現在目の前で実際に行われているもののズレであるからだ。渡辺美佐子は過去の上演の全てを背負って一回の舞台に立つのである。

なぜ、この『化粧』が座・高円寺のこけら落とし公演に選ばれたのだろうか? 僕が舞台を観て頭に思い浮かんだことは「人柱」という言葉である。「人柱」とは、建築物を建てる際に神にささげる目的で人を生贄として生き埋めにした風習である。『化粧』は渡辺美佐子演じる五月洋子が取り壊される舞台小屋とともに闇の中へ没していくというラストで幕を閉じる。このラストは最後まで芝居小屋を離れなかった女座長・五月洋子と、いままで演者として『化粧』を演じてきた渡辺美佐子が二重性を伴って芝居に生きるものの執念を現前させる凄まじいシーンである。彼女たちの魂は崩壊する芝居小屋とともに没し、その場所には新たな劇場が建つ。僕にはその新たな劇場というのが、自分がいま座っている座・高円寺のような気がしてならなかった。そして思うのである。凄まじい執念を宿した二人の女優の魂を人柱として建てて出発しようとしているこの劇場は、はたして彼女たちの魂に恥じることのない劇場になるのだろうかと。
(初出:マガジン・ワンダーランド第145号、2009年6月28日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
島田健司(しまだ・けんじ)
1986年、埼玉県生まれ。現在、大学と座・高円寺の劇場創造アカデミーに在学中。優れた観客の視点を学ぶため2009年前期の「劇評を書くセミナー」に参加。いまのところ、どんな舞台を観ても楽しいという幸福な日々を送っている。

【上演記録】
座・高円寺オープニング企画「化粧 二幕
作 | 井上ひさし
演出 | 木村光一
出演 | 渡辺美佐子
座・高円寺2(区民ホール)(2009年05月01日-31日)
上演時間 約1時間35分

入場料金 全席指定4,500円(税込)
協賛:株式会社資生堂  企業メセナ協議会認定
後援:杉並区、杉並区文化協会
企画・製作:座・高円寺/NPO法人劇場創造ネットワーク

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