◎訪れるものの形象、宙吊りの悲喜劇
柳沢望
『一月三日、木村家の人々』は、介護に疲れた30代独身の娘が認知症の父親を巻き込んで心中をはかる場面から始まる。とはいえ、この戯曲をある種社会派的なリアリズムとして受け取るべきではない。そうすれば、中途半端な出来と評価するほかは無い。
現実感を欠いた現実がどこまでもつきまとってくるようなうんざりとさせられる情況と、そこにあるかもしれないわずかな希望。おそらく、21世紀の日本を覆い尽くしているであろう馬鹿げた悲惨さ、ある種のどうしようもない「不条理」さを舞台に造形できている点で、この上演は、現代日本を、その欠如において、正確に写し取っていると思う。
この作品は、「家族で介護の話をコメディーで書く」という課題を引き受けて書かれた戯曲である、と宮森さつき自身が当日パンフレットで明かしている。実にその通りで、娘が父と心中するまで追い詰められるという悲惨な場面から始まるこの劇は、前半、心中が中断されたままになるという状況をコミカルな仕方で描いて行く。現実を描いているようでどこかリアリティに欠けるこのグレーなコメディを、多田淳之介はリアリティのあいまいさが極まる方向に嘘を重ねるように演出することで、戯曲を裏切り出し抜きながら、忠実に舞台に造形して見せている。
冒頭の場面は、心中を決意して七輪の練炭に火をつけ、部屋の窓にガムテープで目張りをする娘が投げやりに、鼻歌を歌い、一人で歌番組のモノマネをしてみせるという風に始まる。
「ノリノリでしたねー」「これで最後です」「スワンソングですね」「白鳥の歌です」
睡眠薬を父に投与し、自らも服用して、そのまま眠り込んでしまおうとした1月3日の午後、予期せぬ来客によってその心中は中断されてしまう。
まず訪れるのが、心中をはかる娘=明子のいとこで、幼馴染でもある健一。新年会に来なかったのを心配して訪問したという健一に、明子は、心中の意図を見抜かれないように「七輪は暖房だよ」「お父さんは寝ているから会えない」とはぐらかし続ける。ここで、自殺を邪魔されてしまったバツの悪さや、心中をはかろうとしたことが露見することへの焦りと、それに気付かずにのんきに居座る健一のかみ合わない会話が、ある種のコミカルさをもって進む。
早く帰ってほしいと焦り、どうでも良い話を続ける健一にいらだつ明子の思いを、過剰にコミカルにもならず、しかし、単純に深刻というわけでもない淡々とした質において演じ続けた木崎友紀子はきわめて高度な技量を示したと言うべきだろう。
やがて明子が心中しようとしたその家に、明子の兄の妻、明子の妹、兄の裕之が順々に集まってくる。兄が介護の方針について、家族会議を開くことを決め、明子に知らせないまま、父が居る家に集まるように告げていたという設定だ。
練炭に火のついた七輪が居間に置かれている不自然さに疑いを持ちながらも、はじめ誰も自殺の意図に気がつかず、やきもきする明子がそれをごまかし続ける筋立ては、古典的な意味で喜劇として成り立っている。
そして、明子が席を外した隙にカーテンで隠されていた窓の目張りが発見され、集まった家族が明子の心中に気がつくまでがこの戯曲の前半部をなす。ある種リアリスティックな描写が重ねられては行くが劇の進行はあまり現実的ではなく、喜劇として構想されていたわけだ。
たとえば、明子の兄が家族会議を開くと明子に事前に知らせていなかったことや、介護の現状についてあまりに無知であることは、うっかりというにも程がある。しかし、このような無知もまた、喜劇的人物に特有の粗忽さと見ることができるだろう。
無知は、たとえばオイディプスがそうであったように、悲劇を決定付けるものとしても機能する。しかし、この作品では、無知は、心中という悲劇を中吊りにするものとして作用するように配置されている。明子を取り囲む人々は、喜劇的な人物類型に沿うように、若干の誇張を伴う仕方で現れている。
ここで、演出面に触れておこう。この戯曲は1月3日の午後に木村家の居間で起こることだけを、古典的な三単一の法則に従うように、飛躍の無いひとつらなりの場面として描いている。それを多田淳之介は、基本的に戯曲をリテラルに追いながら忠実かつリアリスティックに演出しているが、幾分か奇妙で少し過剰な処理を施している。
この作品では、舞台の入り口が「木村家の玄関」になぞらえられていて、観客は全てそこで靴を脱ぎ、下駄箱に靴を入れるよう指示される。舞台セットも、窓には実際のサッシを使うなど、現実に家屋に用いられているものをそのまま使って、現実感を醸し出している。
そして、舞台開始前に「携帯電話をお切りください」と注意を促す上演前の案内そのものが「新年早々木村家にようこそいらっしゃいました。木村家ではお客様に携帯電話の電源を切っていただくしきたりになっています」と、虚構として示されている。
これは、舞台上の全てを、1月3日の木村家の居間へと一致させることで、逆に舞台が極めて現実らしく見せるように仕組まれた嘘であるということを際立たせる逆説的な演出であると言える。
あるいは、健一が登場するとき。そこで、健一役の佐藤誠が客席に何度か会釈してみせている場面がある。居間を取り囲んで客席があって、舞台上の今が見られているという、リアリスティックに解釈しようとすれば無いことにしなければならない奇妙な状況が舞台表象から排除されず、むしろ、舞台上の虚構に現実の客席を取り込もうとしている。これは、上演台本には指示されていない演出上の仕掛けである。舞台の後半では、その延長線上で、登場人物が観客にむかって直接語りかける場面もある。
客席と関係を結び現実を虚構に取り込むという仕掛け自体を成り立たせる「演技という虚構」が、虚構内の現実をはみ出し、虚構と現実を区別するフレームの位置に演技が置かれている。舞台表象がリアリスティックであればあるほど、うそ臭くなる、そういうものとしてこの上演は演出されている。
森内友紀子が演じる明子の兄嫁、由美が登場する場面では、舞台上には居ないはずの、何か小動物のようなものに由美が「よしよしよし」と半ばヒステリックなほど誇張した仕方で戯れてみせる場面がある。この戯曲からの逸脱は、戯曲が保とうとしているリアリティを裏切るのだが、戯曲自体がどこかリアリティを欠いたある種の喜劇であることを強調してみせるものでもある。
この見えない小動物は、まるで、戯曲の上では居なくなったはずの、かつて木村家で飼われていた犬(ハッピー)を連想させる。舞台上には居ない幻の犬(?)は、客席という幻と同じ位置にある。幻の視聴者となっているのは我々なのだ。
この上演で、冒頭で明子が歌うのは「ダンシング・オールナイト」だった。上演台本ではただ「鼻歌」と指示されており、この曲は演出上の意図において選ばれている。そのサビの部分の歌詞は「言葉にすれば、嘘に染まる」だ。この引用は、演技や演劇そのものが、現実を表象しようとすれば、嘘になってしまうという認識を示すことから作品がはじまっているものと解釈できる。
冒頭の投げやりにおどけて歌番組を演じてみせる場面でも、明子が意識したTV番組のスタジオにいる観客、あるいは同じことだが、想像上の視聴者のイメージとして、その居間に居合せていないはずの観客たちが明子の自意識において想像される劇場の中でバーチャルな実在性を得ているかのようだった。
そのようにして、前半、明子の不安定な主観が投影されたものとして舞台は解釈される。新たな来客がベルを鳴らす度に、あまり不自然に成らない程度に、しかし、よほど不注意でなければ気がつく程度に、照明がその色彩を変え一瞬その調子をゆらめかせる演出があった。これも、来客のたびに動揺する明子の意識を表しているかのように解釈できるものだ。
明子から見れば、家族の言葉の全てが嘘に見えてくる。家族の存在そのもの、その振る舞いそのものがうそ臭く見えてくる。演出の不自然さを、そのように解釈することもできる。舞台が現実に近づこうとすればするほど、どこか居心地が悪い。舞台を去ろうとしているのに、演技をしなければならない舞台に無理やり立たされてしまうような感覚。作品の前半は、そのような意味で寝覚めの悪い夢のような悲喜劇として成り立っている。
ここで、舞台上にテレビが無かったことに注意しても良いかもしれない。どの家にも団欒の中心にあるはずのテレビが無いというリアリティの欠如は、そのまま、舞台全体がテレビスタジオの収録セットであるかのようであることに裏返しの仕方で一致するのだ。
前半では、一人ずつ集まってくる家族の台詞を通して、家族構成や問題の背景などが説明されていくことになる。ひとりでサスペンス的情況に置かれた明子と、それに気がつかず呑気にしている親族たちの落差がコミカルで、その情況を知っている観客は自ずと明子に感情移入することになる。だが、明子の心中が露見した後、後半の場面では、不意に明子が姿を消してしまう。
ここで、明子の主観を中心とした前半の調子は消え去り、宙吊りになったままの介護の問題をめぐるちぐはぐな対話のなかで、明子の心情が前半とは逆に観客から一番遠くに行ってしまい、そこから家族の団欒の中に明子がもどっていくというプロセスを見るのが後半の調子になる。
明子の心中が露見した後で、不審な男が登場する。演じるのは太った体形で青年団関連の舞台でもおなじみの島田曜蔵だ。父親が認知症になる前に離婚していたという母も家族会議に呼ばれていたのだが、出席を拒み、その男に手紙を託していたというのだ。その男は高齢女性ばかりが集まるホストクラブで母と出会ったという設定で、手紙の中身では母の恋人と語られるが、本人はただのお客さんだとそれを否定する。母の人生を狂わすな、と長男は男に怒りをぶつけていく。そのどさくさにまぎれて明子はこっそり家の外に出て行ってしまう。
明子の不在に気が付いた長男の妻と明子の妹は明子を探しに外に出かけてしまう。長男といとこの健一がそのホストと残される宙吊りの時間、手紙を届けに来ただけですから、と男が帰ろうとすると、「それはあまりに無責任だ」と引き止めるというちぐはぐな諍いが進む。そこで、離婚した母親から何も知らされていなかったホストがこの家族の介護問題に気付き、意外な一言を発する。「介護職員なんで、前職」。
このホストの男が、どこまでも突き放した立場から、家族に向かって介護を継続するために気をつけるべき基礎的なポイントを専門家として語っていくことになる。
この戯曲では、介護が家族にのしかかってしまうような現代日本の問題が扱われている。そして、介護保険制度の現状に問題があることも示唆されている。しかし、その介護をめぐる問題は、どうしたら根本的に解消できるのか、という方向では扱われない。ホストが実は介護のスペシャリストだったという馬鹿馬鹿しい展開のなかで、専門家からの意見として語られる事柄は、「ケアマネージャーに相談して、ショートステイで自由になる時間も少しは作らないと」といった、一般的で初歩的な対処法を伝えるだけのことだ。
この戯曲では、介護の負担が間違っていると気付いて家族会議を開くにしては、兄は介護の制度や家族内で起こりえる問題に対して無知すぎる。長男夫婦は仕事の都合や子育てのため父親の介護ができず、明子の妹春香は演劇活動をしているので介護を手伝えないという設定だ。実は設定上、この家族には全く余裕が無いわけではなく、各自が少しうっかりしていただけで、明子は追い詰められたということになっている。最終的には解決できるという印象が残るのはそのためだ。
劇作上、あまりに大きな問題をあまりに軽く扱いすぎているといえなくも無い。しかし、またこの作品は、あまりに多くの問題が、単にうっかり気が付かないことによってこじれているのだ、ということを示唆しているとも言える。そして、この作品では、うっかり間違いを犯してしまうことが、一切糾弾されていない。
もちろん、単に運良く最悪の結果が回避されたに過ぎないという戯曲の構成は甘い。だが、この筋立ては、それぞれの立場の人がどこかでうっかりしているもので、そうした間違いは、いつだって、少しずつ正せば良いのだ、というメッセージとして読み取ることもできる。この戯曲の根底にある寛容と希望の原則は、倫理的にその価値を認めるべきものだ。それが、あまりに馬鹿馬鹿しい悲惨さとセットに提示されている点でも、この戯曲はあいまいな悲喜劇なのであり、この上演はそれを十分に造形してみせていただろう。
さて、ここで、小劇場演劇の役者をするために介護を手助けすることができない明子の妹、春香が、明子が心中を図ったことに最後まで気が付かないほど現実を見失っているという仕方で、喜劇的な人物として表れていることは興味深い。そして、妹が出演に向けて準備している作品は『DNAの憂鬱』というもので、妹は遺伝情報を担う塩基の一つ「シトシン」役だというのだ。「生物と言う名の乗り物を乗り継ぐDNAも流れの中で不動のものではないんだよ」と妹は劇の内容に触れながら、「生命の神秘、生きるって何?」というのがテーマなんだ、と語ってみせる。
ここでは、一般社会の中で小劇場演劇が、現実に直面できていないことや、一般から理解されない所でしか表現が成立していないことを皮肉な仕方で描いている。
姉が介護の現場で追い詰められ、生きていく意味を見失っているのに対して、「生命の神秘」を寓意化するような芝居に妹がかまけているというのは、いささかグロテスクだ。しかしそれを裏返せば、演劇は現実から離れることによって初めて本質的な問題を明らかにできるという希望がそこに込められているかもしれない。
妹役の春香を演じた村井まどかは、冒頭ではやたらな明るさを振りまいて「空気を読めない」ただのイタいキャラクターといった風だが、姉を連れ戻した後、そのやたらな明るさで「お姉ちゃんどよーんとしてて話しかけにくかったんだよ」と、問題を抱え込んでコミュニケーションを拒絶していた明子自身が自分を自分で追い込んでいたことをあっけらかんと示し、「休みとって演劇見にきてよ、生きるってなにか?だよ」と明子に語りかける場面では、噛み合わない明るさがともかく人を励ますこもあると感じさせもした。その点では、難しいニュアンスの演技を実現していただろう。
さて、後半では、妹と兄嫁に連れられて家に戻った明子と兄の間で交わされる激しい対話が、この劇のクライマックスとなっている。それは、「もう生きていたくない」「生きていかなければならない理由がわからない」と言う明子と、「家族が大事じゃないのか」「俺たちは家族なんだぞ」と繰り返す兄との間のすれ違いである。ここでは、問題の根深さが明らかになるばかりで、何も解決されないし、そこからは何の救いも見えてはこない。生きることについての様々な見方は、どれも決定的な答えにはならないということだけが示さる。
しかし、ここで初めて明子と兄はお互いの違いと互いが抱えている問題をはっきりさせることができたのであり、すれ違うことによって初めて深く絆を確認できたのだ。これは真の意味で劇的といえる唯一の場面とも言えるが、この場面を見事に演じきった小川原康二と木崎友紀子の二人は賞賛に値する。
この戯曲の最後は、心中のために用意された七輪をいとこやホストも含めた全員で囲んで餅が焼けるのを待つという、かりそめの団欒の場面で閉じられる。しかし、心中をはかったその日その場所で、明子が家族の団欒に戻っていけるまで回復した心理的な転機となる最大のドラマは、この舞台の外で起きていた。そのことが兄嫁の由美の語りの中で示される。
いとこの健一が結婚して明子を支えたいという意志をそれとなく示し「あと一日持てばいい、そうやって毎日なんとかやっていけばいい」と励まそうとした場面のあと、カイロを握り締めた明子は「そこまでして生きなきゃいけないのかね」とつぶやく。そこで、カイロを明子に渡したのは、近くの神社で偶然出会った老婆だったと、由美が何気なく明かす。まるで明子は当然すでに家族の輪の中に戻っているとみなして、その理由を告げるように。辛そうな明子の様子を見て、その老婆が「生きていたらきっといいことあるから、だまされたと思って信じてみなさい」と言ってカイロを渡したのだ、と。
この戯曲で、カイロが渡される神社とは、劇中で「ぽっくり神社」と呼ばれてもいて、「苦しまずにぽっくり死ねるようにと老人が願をかけに来る神社」と説明されてもいる。だから、そこで老婆が根拠が無くても希望を持てばよいのだと語る言葉もアイロニカルな配置の中でなされているとも言える。
いずれにせよ、明子にとってもっとも劇的であるもの、家に帰るつもりにさせたであろう老婆の無償の善意は、しかし、舞台の外に置かれている。
明子以外の家族が介護の負担を処理する責任を放棄していたのと平行するように、この上演は、戯曲が指示するままに、「認知症」の父親を直接描くことを放棄する。別室に寝かされたままの父親については、舞台の外に様子を見に行った人物によって報告されるだけである。もっとも過酷で触れたくない現実も、追い詰められた明子を救う可能性も、木村家の居間という舞台の外に排除され、舞台表象の臨界を越えた位置に置かれている。
明子に向けられた善意を報告する由美が、舞台上に見えない生き物(居ないはずのハッピー?)をそこに見ているように振る舞うことも、この位相から捉えるべきだ。この由美の演技は、舞台表象の臨界に触れている。
「青い鳥」にもなぞらえられる「ハッピー」は、そこにいるのに、家族には見えないのか、あるいは、「ハッピー」はそもそも幻で、由美も幻覚を見ているだけなのか。どちらとも言えない。
この上演の最後で七輪を囲んだ団欒の場面は溶暗し、ついに舞台は完全な暗闇となる。そこで更に新たな来客を告げるベルの音が鳴り響いて終わる。これも戯曲に指示されていない演出だ。この来客はどこか不穏な印象も残す。呼びかけに誰もこたえないままの幕切れは、ひょっとすると、餅を焼こうとした練炭による一酸化炭素中毒でこの団欒の全員が死んでしまったのではないか、という解釈すらほのめかすようだ。少なくともその解釈は排除されない。直接に希望が示されながらも、戯曲は結論を先延ばしにする終わり方をしているが、この上演は全てをどこまでも宙吊りにして舞台を閉じるのだ。
この戯曲では舞台に訪れるものが死を中断しながら、しかし、死に脅かされた世界を語り、希望について語る。訪問者によって、舞台の枠組みはその都度問い返されている。最後に外から訪れるものは、もはや誰ともわからない。舞台の外におかれるもの、見えないものの全てが、ベルの音として訪れるかのようだ。この場面では、平田オリザの戯曲に見られるように、舞台に収まらない現実が何か意味ありげなものに象徴的に託されて語られたりはしない。
どこまでも不条理で馬鹿馬鹿しい社会的現実の鏡として機能し、その厭わしさを漂わせていた舞台は、舞台と現実の区別も無い闇の中で、訪れることの音響的な形象だけになるまで縮んでしまうのだ。もはや舞台表象の限界はどこにあるとも言えない。観客のそれぞれが一人で闇に取り残された場面に、訪れることの痕跡だけが示される。
そして続くカーテンコールでは、もんたよしのりが歌うオリジナルの「ダンシングオールナイト」が響き渡る。この上演で唯一の、録音された音楽の再生である。お茶の間を支配するテレビのスター、POP音楽の文脈が闇を押し流す。「言葉にすれば嘘に染まる」。
そして、それぞれ訪問者でもあった観客たちは、木村家の玄関から去って行くのだった。(所見:5月31日)
(初出:マガジン・ワンダーランド第144号、2009年6月17日発行。購読は登録ページから)
【筆者略歴】
柳沢望(やなぎさわ・のぞみ)
1972年生まれ長野県出身。法政大学大学院博士課程(哲学)単位取得退学。個人ブログ「白鳥のめがね」。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ya/yanagisawa-nozomi/
【上演記録】
青年団リンク 二騎の会『一月三日、木村家の人々』
こまばアゴラ劇場(2009年5月23日-6月2日)
作:宮森さつき
演出:多田淳之介
出演:小河原康二 木崎友紀子 島田曜蔵 村井まどか 佐藤 誠 森内美由紀
照明:岩城 保
舞台美術:鈴木健介
宣伝美術:京
制作:服部悦子 木元太郎
芸術監督:平田オリザ
★= ポストパフォーマンストーク
5/23(土)19:30 『解析・宮森戯曲』ゲスト:堤 広志氏(舞台評論家)
5/24(日)18:00 『多田淳之介、父を語り、作品を語る。』
5/25(月)19:30 『戯曲・俳優・演出』
★『F』プレイベント
二騎の会次回作『F』プレイベント開催=5月30日(土) 18:00 START!
〈料金〉予約・当日=1,000円
作:宮森さつき×演出:木崎友紀子。多田淳之介が役者で参戦し、端田新菜との二人芝居でお届けする、二騎の会次回作『F』。2010年アトリエ春風舎にて上演予定の作品を、一早くリーディングで公開する一夜限りのスペシャルイベント。
企画制作 青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催 (有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場