◎わたしたちの中に、今ではもう不可能になったあの旅が
村井華代(西洋演劇理論研究)

国家的イデオロギーが個人のセクシュアリティを侵し爆発する。天使は聖処女ではなくエイズを発症したゲイ青年を訪れる。預言の書はキッチンの床下に隠されている。
トニー・クシュナーを一躍20世紀アメリカを代表する劇作家に仕立てた『エンジェルス・イン・アメリカ』(第1部:1991、第2部:1992)。人間の生臭い心身を舞台に、実に様々な次元が交錯する姿が描かれている。ユダヤ人同性愛者という十字架を背負ったクシュナーにとって、個人の憐れな肉体が巨大な国家的・宗教的イデオロギーに蝕まれるというのは、しごく具体的で日常的な自覚であるように思える。
近代的制度の中で平和に生きる「普通の」人間なら気づきもしない警告が聞こえるのは多分不幸なことだ。しかし、だからこそ性的・民族的・国家的マイノリティは現代演劇においては預言者を演じうるのであり、またそうなる運命にあるのだろう。
「ひとりシェークスピアを見てみませんか?」-Kさんからお誘いをいただいたとき、エエッ?? そんなことできるのオ?と驚いた。大体がシェークスピアはもう沢山!の食傷気味。よっぽどでないと動かないぞと思ってる私のこと。おまけに行き先は北千住とか。JRの路線地図を眺めたら、うちから軽く1時間半はかかりそう。もし誘ってくれた人がKさんでなければ、そしてもしも出しものがシェークスピアのいわば処女作、日本じゃ見たことない「ヘンリー六世(第1部)」でなかったら、決して行かなかったにちがいない。
カーテンコールで頭を下げた黒服の二人を見て、永久に抜け出せない暗闇に迷い込んだような気持ちになった。物語の中盤で静かに提示された謎を追っているうちに、果てしない孤独に近づいている自分に気づいた。それは公演内の台詞を借りれば、湿り気を帯びた気配に追われるように、私の心身を侵食するものだった。終演後、すぐには舞台上で起きた事象に意味付けをすることができず、私は劇場を出てから、悶々としつつ思考をめぐらせた。
クロムモリブデン(以下クロムと省略)の新作「マトリョーシカ地獄」(作演出・青木秀樹)をin→dependent theatre 2ndで見た。「直接Kiss」(2003年)、「なかよしShow」(2004年)、「ボーグを脱げ」(2005年)、「ボウリング犬エクレアアイスコーヒー」(同)。ここ数年間、年間ベスト級の傑作を連発し「関西でもっとも注目すべき集団」といい続けてきたクロムだが、一昨年秋にその拠点を東京に移した。
シンガポールのジョヴィアン・ンによる「私のダンス」セッションでは、ジョヴィアンと手塚夏子の間に、文化背景を超えた意外な接点が見つかった。ジョヴィアンは比較的遅くなってからダンスを始めた人だが、学校であらゆるダンス・テクニックを学んだ結果、どのテクニックも体を関節単位でしか使っていないということに気付き、最近は普段あまり意識しないような筋肉を動きの起点にする実験に取り組んでいるという。手塚の『私的解剖実験』シリーズも、まさに体を普通とは違った視点から観察し、分析し直すというところから出発している。もちろん細かく見ていけば方法論は異なるが、同じようなことを考えている人がいた、という純粋な驚きがあった。
私の記憶の中に私の姿がないのは、言われてみれば至極当然のことである。鏡を見ている時間の記憶は別にしても、写真やビデオでも撮っていなければ、自分自身がいつどこでどのようなことをして、その様子がどんなだったかを見ることができない。たとえ撮っていたとしても、事後的に確認する、私の記憶にとっては傍証のようものでしかない。そして、忘れてしまえばその時間が消滅する。無論、過去にあった時間が消えてなくなるわけではないが、その時間がどのようなものであったか辿れなくなる。初めから見ることができない自分の姿はおろか、自分の耳で聞き取っていたはずの会話もである。そして、忘れたことも忘れてしまえば、それは二度と引き出されることはない。