チョイ・カファイ “Notion: Dance Fiction” and “Soft Machine”
アマヤドリ「幸せはいつも小さくて東京はそれより大きい」

◎心と口と行いと―KYOTO EXPERIMENT2012報告(第4回)
 水牛健太郎

 チョイ・カファイはシンガポールのアーティストである。大柄で太り気味の中国人だ。通訳としてcontact Gonzoの塚原悠也を引き連れて、電気と筋肉の関係についてやおら説明を始める。18世紀以降の研究史をスクリーンに映しながら解説する。

 研究によって分かったこと。人体は神経繊維を通る電気信号によって筋肉に命令を伝え、動かしている。そして解説は、この科学的な成果を利用したパフォーマンスのアイディアへと収斂していく。コンテンポラリー・ダンスにおける身体の各部位の筋肉の動きを電気信号に変換してコンピュータに記憶させ、それを別人の身体に流すことによって、同じ動きをさせることができる。動きをコピーするというか、レコードで音を再生するのと同じように、動きを再生する。こういうアイディアである。
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アマヤドリ「幸せはいつも小さくて東京はそれより大きい」” の
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ナカゴー「鳥山ふさ子とベネディクトたち」
ロロ「LOVE02」
ニッポンの河川「大地をつかむ両足と物語」
リア・ロドリゲス「POROROCA」

◎ブラジルの河川―KYOTO EXPERIMENT2012報告(第3回)
 水牛健太郎

 KYOTO EXPERIMENT 3週目の先週はフリンジを中心に観劇する週となった。フリンジ作品を3本見たが、それぞれに刺激があった。

 ナカゴーは「鳥山ふさ子とベネディクトたち」と題して二本立て、そのうち主な演目は「ベネディクトたち」で、2年前にも「町屋の女とベネディクトたち」という二本立ての一本として見たことがある作品だった。これはかなり面白い作品である。
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ロロ「LOVE02」
ニッポンの河川「大地をつかむ両足と物語」
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地点「はだかの王様」
レイジーブラッド featuring Reykjavík!「The Tickling Death Machine」
杉原邦生/KUNIO 「更地」
劇団競泳水着「リリィ」

◎台風一過―KYOTO EXPERIMENT2012報告(第2回)
 水牛健太郎

 以前どこかで書いたけれど、身分というのは演劇そのものである。「この人は王様だ」という「お約束」の上にすべてが築かれ、それが否認されるや王冠は奪い取られる。「身分は演劇だ」というのは比喩ではない。ただの事実だ。だっ
て、誰かが誰かより、「生まれつき高貴である」なんて、現実じゃありえない。お芝居の設定以外の何だと言うのか。それが一国を挙げての大掛かりなものだったとしても、お芝居に違いはない。

 「はだかの王様」というお話の鋭さは、身分というもの(というか、ありとあらゆる「AさんはBさんよりも偉い」)の演劇性というものを、容赦なく暴いてしまうところにある。一見のんきな寓話のようで、その刃はすべての虚飾を切り裂く。
誰の身の周りにも、一人や二人、「はだかの王様」にたとえたくなる人がいるのではないか。会社の上司とか。劇団の主宰とか。や、特定の劇団の話じゃないですよ、もちろん。
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レイジーブラッド featuring Reykjavík!「The Tickling Death Machine」
杉原邦生/KUNIO 「更地」
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砂連尾理/劇団ティクバ+循環プロジェクト「劇団ティクバ+循環プロジェクト」

◎秋風吹いて―KYOTO EXPERIMENT2012報告(第1回)
 水牛健太郎

 形も色も材質もバラバラの椅子が五つ、講堂に並んでいる。そこに出演者が座り、左端の椅子と隣の椅子の間には男性が、車いすを華麗に操って滑り込む。パフォーマンスが始まる。

 しばらくは顔見せとでも言うのか、出演者が一人ずつ、前に歩いて、壁に突き当たって後ずさりして戻ってきたり、自分の名前を言って、それを他のメンバーが口まねしたりと、一定の規則的な動作が繰り返される。でも、単調ではない。強烈な存在感を発揮するのは車いすの男性だが、三人いる外国人男性のうち二人は吃音者らしく、そのうちの一人は、自分の名前を言ってもまるで鳩の鳴き声のように聞こえる(吃音のためだけでなく、この人の名前自体、鳩の鳴き声を思わせる響きを持っていることに、今パンフレットを見ていて気づいた)。
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鵺的「荒野 1/7」

◎濃厚な演劇らしさ
 水牛健太郎

「荒野 1/7」公演チラシ
「荒野 1/7」公演チラシ

 観客席の前の、ごく狭い、奥行きもあまりないスペース。そこに背もたれのない丸い椅子がいくつか置かれている。役者が一人ずつ登場し、椅子に座って話し始める。演技空間は、喫茶店に設けられた時間貸しの会議室に見立てられているが、セットは横一列に置かれた椅子だけで、演技はほぼ顔の表情に限られている。役者は入退場の時以外には、立ち上がることもほとんどない。台本こそ手にしていないものの、リーディングに近いような演出なのだ。それなのに濃厚な演劇らしさが漂う。
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ディディエ・ガラス「アルルカン(再び)天狗に出会う」

◎自分探し(再び)自分に出会う
 水牛健太郎

公演チラシ
公演チラシ

 天狗のことを考えていた。天狗というと赤い顔、長い突き出た鼻で山伏の格好をしている、そんなユーモラスなイメージ。ところが『太平記』をひも解くと、崇徳院を初めとする、恨みを抱いて死んだ人たちが、山の中で天下を乱す悪だくみの相談をしている場面があり、彼らが「天狗」という言葉で表現されている。もちろん崇徳院の霊が赤い顔、長い鼻をしているということではない。天狗という言葉にはもともとそういう、悪霊とか怨霊という意味が含まれていた、ということなのだ。ユーモアなどかけらもなく、かなりおどろおどろしい。
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バナナ学園純情乙女組「翔べ翔べ翔べ!!!!!バナ学シェイクスピア輪姦学校(仮仮仮)」

◎いわゆるバナナ事件について
  水牛健太郎

公演チラシ
公演チラシ

 バナナ学園純情乙女組(以下「バナナ学園」)の公演『翔べ翔べ翔べ!!!!!バナ学シェイクスピア輪姦学校(仮仮仮)』において、5月27日(日)にトラブルがあった。ツイッターに友人を通して公表された被害者のメールによると「舞台上にいきなりあげられて、知らない男に胸をわしづかみにされて、下半身すり付けられてガンガンされて、それを他のお客様に見せつけて笑われてパフォーマンスにされたことは本当に辛かったです。相手も段ボール被ってて誰かわからないし、土下座してもらいたい」ということである。要するに、バナナ学園のパフォーマンスに巻き込まれた女性観客が、深刻な不快感と怒りの念を抱き、間接的ながら、抗議の意向を表明したということだ。

 バナナ学園のサイトは6月2日付で「不快な想いをさせてしまったお客様ご本人と5月31日時点でお会いし、事の真相をご説明した上でご不快な想いをさせてしまった事に対してお詫び致しました」としている。このように当事者間では一応の決着を見たものの、注目を集める公演で起きた今回の事件(以下「バナナ事件」とする)は、大きな波紋を広げ、ツイッターやブログなどで様々な意見が交わされた。本稿ではバナナ事件について、創造的行為と社会規範の緊張関係という観点から論じてみたい。
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忘れられない一冊、伝えたい一冊 第1回

◎『誰か故郷を想はざる』(寺山修司著、角川文庫)
 水牛健太郎
「誰か故郷を想はざる」
 寺山修司のことは何も知らない。
 ワンダーランドに書評欄というか読書欄を作ることになり、編集長という名の切り込み隊長、一番槍を仰せつかった。はて何を取り上げようと愚考するに、戯曲でも演劇雑誌でもいいのだそうだ、しかし折角だから高名な、しかし読んだこともなければ芝居を見たこともない、かの「テラヤマ」にしようと思ったわけです。
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カムヰヤッセン「バックギャモン・プレイヤード」

◎身の回りの「世界」
 水牛健太郎

「バックギャモン・プレイヤード」公演チラシ
公演チラシ

 「村」を舞台にした芝居には二種類ある。リアルな劇と寓話劇だ。
 とまあ大上段に構えたが、それだけ「村」というのは寓話劇の舞台になりやすい。人が少なく、それぞれの人が都会よりも明確な役割を持って生活している。それに、村の生活のことは、演劇の公演が行われる都会では、はっきり言って誰もよく知らない。突っ込んでいけば色々ディープな現実がありそうだが、それも含めて多少ファンタジーを乗っけても許されるのでは。
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岡崎藝術座「レッドと黒の膨張する半球体」

◎劇評を書くセミナーF/T編 第4回 課題劇評 その2

公演チラシ
公演チラシ

 ワンダーランドの「劇評を書くセミナーF/T編」第4回は11月12日(土)、にしすがも創造舎で開かれました。取り上げた公演は、遊園地再生事業団「トータル・リビング 1986-2011」(2011年10月14日-24日)と岡崎藝術座「レッドと黒の膨張する半球体」(10月28日-11月6日)です。講師の木村覚さん(日本女子大講師)も劇評を執筆。課題原稿をたたき台にして、公演内容や時代背景、劇作家の特質などが話し合われました。
 岡崎藝術座「レッドと黒の膨張する半球体」はセミナーで取り上げた公演のうち、最もインパクトがあったという意見でほぼ一致しました。不快と不可解の合わせ技がかかり、なおかつ不思議なほど記憶に引っかかるのはなぜか-。以下の6本はそんな謎にも触れながら舞台をさまざまに読み解いています。当日は、岡崎藝術座の神里雄大さんも参加。活発な討論になりました。掲載は到着順です。

1.「移民」というニセのテーマ (髙橋英之)
2. 「レッドと黒の膨張する半球体」評(水牛健太郎)
3.このとりつくしまのない居心地の悪さ(大泉尚子)
4.明快な物語を切実に訴える過剰な表現(小林重幸)
5.孤独で恐ろしい肖像画(木村覚)(初出:artscape 2011年11月1日号
6.汚れることを恐れているのは誰か? 汚れたのは誰か?(クリハラユミエ)
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