岡崎藝術座「レッドと黒の膨張する半球体」

3.このとりつくしまのない居心地の悪さ
  大泉尚子

 電流が同じでも、抵抗が大きければ、それに比例して電圧は上がる―中学で習ったんだったか、電気の基礎。岡崎藝術座の舞台はいつも、抵抗の値が大きくて、頭の中の電圧が上がりきってしまう。『古いクーラー』『ヘアカットさん』に続いて、今回は三度目の観劇だったが、正直、見ているのも楽ではない。キャストには負荷がかかってさぞかし辛かろうと察するが、観客もハンパなく消耗する。さらに、上演台本を読んでみても、いっかな輪郭が掴めたという実感がないというおまけまでつく。とりあえず作品を振り返ってみると―。

 そこは素舞台といってもいいほど何もない。バスケットのラインのひいてある体育館の床のまんまで、奥に黒い紗幕がかかっているばかり。
 へらへら笑っている男が2人現れる。1人は金髪の長い髪、もう1人は黒い短髪。見得を切ったり、V字バランスをしたり、ダンスともつかない大げさで無駄ともいえる動き。セリフは、極めて生硬で散文的な言葉の速射砲的羅列なので、なかなか追いつかないのだが、下手側に字幕(英語かと思ったら日本語!)が出るので、辛うじて辿れるか…というところ。
 口々に語るのは「移民」について。金髪の方(台本では男3)が一世の父親役、黒髪の方(=男2)が二世の息子役のようだ。強いてまとめると、父親いわく―憧れと欲望を抱いてたどり着いた新天地日本は絶望に満ちていたが、自分たちを忌み嫌う女をかき口説いて無理やり子供を産ませ、それを生きる希望としたと。息子いわく―父親の祖国の伝統は押し付けられた異物でしかなく、母親は母親で純潔が守れなかったことを呪い悲しんでいると。そして、父親が日本にやってきたのは2012年10月だという。だとすればこれは、近未来のSF的な話なのか?…

 このあと展開されるのは、明確な脈絡や笑いのツボといった拠り所を見つけづらい、投げ出されたマンガ的あるいは現代詩的なイメージの連鎖であり、それらは安易に解釈されたり結び付けられたりすることを頑なに拒否しているように感じられる。だからこそ、観客である私は、咀嚼できないことのもどかしさと同時に、解釈しようしようとしている自分の滑稽さに否応なく気付かされ、二重に息苦しい。確かに、ここで手っ取り早く筋や意味を探ろうとするのは愚と野暮の骨頂なのかもしれない。

 話を舞台に戻すと、次に出てくるのはスーツ姿でリュックを背負った男(=男1)。クラウチングスタートのような格好でお尻を高く上げると、男2が出てきて、これは牛だと言う。さらに女(=女1)が出てきて2人で牛のポーズをとる。男1と女1は日本人らしい。男2が持ってきたテレビの映像に、男3が男1をボコボコにしているところが映る。なぜか唐突にオノヨーコの物まねが始まると、男3はジョン・レノンに扮し、ヨーコに見立てた女1に欲情して、1人激しくエアセックスを繰り広げる。

「レッドと黒の膨張する半球体」公演の写真
【写真は、「レッドと黒の膨張する半球体」公演から。提供=フェスティバル/トーキョー
撮影=(C)富貴塚悠太 禁無断転載】

 女1は言う―移民は急に増えた。たった20年のうちに石を投げれば彼らに当たるほど。我慢できないやつらの子供を、「宇宙なる私の腹」は宿し、移民の比率は60%を超えたと。
 男3と2の父子は終始へらへらしながら、実にテキトー、いともお手軽に歴史を捏造しようと言う。2032年は語呂が悪いからいっそ2000年にしてしまおうとか、太平洋戦争の負けを否定するために沖縄がなかったことにしようとか、原爆が落ちていないことにするために、日本がアメリカの中のルイジアナ州にあって、無事に終戦を迎えたことにしようとか。

 一転して男1が、ラフな格好のアメリカ人として現れたかと思うと、ルイジアナ州の日本がアメリカに買われ、差別の意味で日本人を牛と呼ぶと言い出す。男3は一転して自分は「日本人です」と答え、完全に立場が逆転する。テレビの映像では、男3が男1にボコボコニされ、男1はジョン・レノンになり、女1をヨーコにして、ベッドインと称して男3に見せつける。

 ラストでは、女2がこのシーンだけに登場。「わたしは子供がほしかった。でも水を飲んでしまった!…黒く汚れたわたしの胎盤…剥がれてしまう…水を飲んで最後まで流す。流してしまって、もう忘れちゃう…」と、“汚れた水→原発事故→不妊”を暗示させるようなセリフで終わる。

 ここでは、深刻な問題とおちゃらかし、毛ほども似てない物まねやダンスともつかないタコ踊りもどきの激しい動き、ハードコアな振りと脱力系の動物のポーズ、ゴムのように容易に変形する歴史的時間、即交換可能な立場や関係性、そんなものがない交ぜになって、もう笑ったらいいのか呆れ果てたらいいのか考え込んだらいいのか、途方にくれてしまう。

 さらに、先にあげた粗筋とも言い難い粗筋にはまた、何かの比喩でもありそでなさそな、荒唐無稽なモチーフが現れてはからんでくる。吊るされてぶらーんと揺れる巨大な肉塊(→スケープゴート? 虐げられた民族?)・投げつけようとして躊躇し、結局闇に放るペットボトル(→貴重な水・汚れた水?)・牛の餌である草原の映像・映像である餌に毒を入れる(→イメージ操作? 思想統制?)・ダークマター=ダーク股=宇宙なる女の腹(認識し得ない物質・エネルギー、すべてを飲み込み産み出す女性性?)などなど。
 セリフの口切で「移民のとっての同化問題…」が語られるが、同化は“性”のみならず“飲食”とも深く結びついており、これらのモチーフは、それを端的に示すツールでもある。

 たとえば牛丼。息子役の男2が歌いながら牛丼を食べ、母親役の女2がそれを叱るが、息子は親父の国の流儀だと反発する。食は、言うまでもなく文化であり伝統でもあるから、2つの文化に跨っている息子が困惑したりふてくされたりキレたりするのも無理はない。
 牛丼の歌というのもある。
 「♪うまいぞうまいぞ、牛丼だ! 牛を殺して食べちゃいな! 牛丼食べたら寝てしまえ! 眠り起きたらまた殺せ! 肉を切って、骨にする! 地を流して、土地に住め! 子供はほいほい産ませちゃえ!」
 本能の赴くまま、殺し、喰らい、犯しと侵略的・凌辱的でありながら、どこかすっとぼけて馬鹿馬鹿しい。この益体のなさったらない!

 そして食い物の恨みは恐ろしく、とんでもなく根深いところへと触手を伸ばす。
女1「ある日私が作ったスープはトマトスープでとてもおいしい。なのに、味がうすいと言って、アンタはソースをかけた。混ぜた! それを飲み干した! 私の前で飲み干した! 怒りと悲しみで、私は庭で大事に育てたトマトを、地面にぶちまけて捨てちゃった! ダンナは急に土足で上がりこみ、私を孕ませ、血をかき回した! やつらの血は汚いぜ!」
 食と性が絡まり合い、トマトスープ→血を呪うまでに飛躍する。

 ところで、この劇のモウ1人の主役は、とりもなおさず牛丼の素(?)でもある「牛」。牛は力をなくし、差別される日本人の象徴なのか。大江健三郎『人間の羊』で、羊は、敗戦国民である日本人の屈辱感とスケープゴートのダブルイメージを担っているが、牛というのは、確かに鈍重ではあっても、闘牛のアグレッシブさというのもあり、即ピンとくるとは言い難い。
 しかもなぜだか、登場人物はこの牛のポーズをとると「プッ」とおならをしてしまう(のが、オチでもギャグでもなくて笑えないのだけれど…)という情けなさ。

 「自分の屁の匂ひが(中略)大好きで、刑務所の生活にあっても、毛布の中にもぐり込んで、ぎゅっと握った手の中に、包み込んだ屁を握り、鼻へともってくるのです。屁が、宝物を、幸福を開いてくれるのです。私は嗅ぎます。私は吸ひこみます。私は、それが半ば固体化して、鼻の穴から降りてゆくのを感じます。しかし、自分の屁だけが私を喜ばせるのでして、絶世の美少年の屁でさへ、私にはイヤでたまりません」(ジャン・ジュネ『花のノートルダム』)
 ジュネのこんな湿り気を帯びた自己愛はここには微塵もなく、愛想もこそもない、ただただ乾いた“屁”。
 終幕間際「ぼくよりも今やもっと孤独な屁は、そのわずかなエネルギーで、ほんの少しのテリトリーを広げるように、青く寂しげに、暗闇のなかで頼りないぼくの存在を、少しだけ拡大してくれる…」と、谷川俊太郎『二十億光年の孤独』のくしゃみもどきに“詩的な屁”で締めくくるのかと思ったら、やっぱりそうは問屋がおろさず、女2の独白でパッツンと唐突なラストを迎える。

 ちなみに、この女2は、脈絡がないにもほどがあるというくらい謎の人物。どうしてこの流れで、原発事故のイメージ→子供がほしかった!となるのか? 対して女1は、移民の子を孕まされ純潔を犯されたことを嘆いているばかりのようでいて、そんなにやわなタマではない。体内に「ダーク股=宇宙なる腹」を有し、果ては「着床のダンス」すら踊ってしまう、繁殖と同化を着実に支えるしぶとい存在だ。最後のセリフは、そんな母性をも否定し、産み育むことさえも許されない現状に対する素朴な真情の吐露なのだろうか? どこまでも解釈を拒まれて、想いの残滓が宙に漂う。

 これは、“まっとうな”歌やダンス、七五調の流れるようなセリフで人を酔わせ、カタルシスに誘うというような要素の欠片もない劇だし、分け入っても分け入っても、腑分けしきれた気がしない戯曲(ほん)だ。第一、移民について延々と述べられてはいるが、それが本当に語られようとしていることなのかどうかは、大いに怪しい。
 とはいえ、この名付けたりカテゴライズしきれない、どうにもすわりの悪い感じは、全く身に覚えのないものではない。価値の崩壊、時代の閉塞、生きることの不条理…そんな使い古された言葉では言い尽くせない、粘りつくような不全感。それらを目の当たりにさせられるのはたまったものじゃないけれど、有無を言わさぬ圧力感で、否応なく脳髄に“着床”させられたことは否定しようがないのかもしれない。


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