岡崎藝術座「レッドと黒の膨張する半球体」

6.汚れることを恐れているのは誰か? 汚れたのは誰か?
  クリハラユミエ

 岡崎藝術座「レッドと黒の膨張する半球体」には、正統でないもの、あるいは正統ではないように見えるものが溢れている。「移民」とその二世、「女」や「国」を守れない日本人らしき「男」、人が模した牛、牛丼、汚れた血と女の腹、母系重視の血統、偽物のオノ・ヨーコとアメリカ人、書き換えられる国家の歴史、語られる言葉とは裏腹に不真面目で真剣な俳優の身体。それらが客席に向かい、死んだ牛がぶら下がる巨大な黒い幕の前で大きく存在を主張する。正統でない/あるとは何か。

 開幕、男が二人椅子を持って現れる。客席の前に座り、へらへらと観客を見ながら笑う。鼻くそをほじり人をバカにしたような振る舞いのまま、移民と伝統と同化問題について語り始めた。移民一世は大柄な金髪の男でカウボーイのような茶色い帽子をかぶっている。右の小さい男はその息子で、遠目にチャンチャンコのように見える青いカーディガンを着ている。歩き方は両手両足をバタつかせ、滑稽で、狂言のようだ。
 移民一世である金髪の男が執拗に女に子供を産ませることについて口にし、二世の方は、母親が「自分の血が汚れ」ることを呪っていること、汚れた血の結果が自分だと告げる。

「レッドと黒の膨張する半球体」公演の写真
【写真は、「レッドと黒の膨張する半球体」公演から。提供=フェスティバル/トーキョー
撮影=(C)富貴塚悠太 禁無断転載】

 母親が自ら息子に対し「自分の血が汚れ」ると語る違和感、気持ち悪さ。
 本来、女も男もが「汚れ」たことにするのは女の身体、生殖器、あるいは月1回降りてくる、使わなかった胎盤のカスつまり月経血だったはず。結果としての子どもでもその子が引き継ぐ血筋でもない。
 敢えて生まれてきた子どもに「自分の血が汚れ」ると言うのはなぜか。
 その理由は最後のシーンにある。母親とは違う新たな女がひとり現れ、子どもがほしかったのに水を飲んでしまった、胎盤が黒く汚れて剥がれた、きれいな体でいたかったと告白する。赤ん坊は胎盤にしがみつき、耐え切れず落ちたとも語る。
 果たして、汚れているのは母親なのか? 二世なのか? 両方なのか?

 原発事故後、原発立地の育ちのために姑から婚約破棄された女性の話がインターネットで話題になった。反原発のデモでは10歳くらいの女の子に「わたしもこどもをうみたい」と書いたプラカードを持たせるといったことがあった。原爆に遭った人と同様に福島の女性が結婚差別されるだろうとして「非モテのオタクも福島の嫁となら結婚出来るかも知れない」というツイートもあった。
 ここに共通しているのは、放射能という、自分には「よくわからないもの」を生まれてもいない子孫と母性に負わせている点だ。この態度は、原発事故があったから特別に発生したわけではなく、部落や在日外国人といった、自分たちとは違うよくわからないものを忌避するのと同じだ。

 二世を「汚れ」たことにしているのは母親である。それに対し、二世は痛切に、母親と自分は何が違うのか? 自分は何者か?日本人だと訴える。汚れてなどいないのに自分を憐れむために子どもを汚れたことにする母性は、10歳の女の子にプラカードを持たせるのと同じではないのか。母性を振りかざして自分で考えるべき責任を他者へ転嫁する母親たちと同じではないのか。
 では母親を汚しているのは誰か? これも母性だろう。女に期待されていることは正統な子どもの再生産だという強迫観念。汚れた女から生まれる子どもは正統ではないのか?正統ではない子どもは生まれてはいけないのか? そんなことはないはずだ。
 そして日本人の男はどこへ行ったのか? スーツ姿の日本人の男は、登場したときへとへとに疲れたような牛だった。そしてオノ・ヨーコのものまねをし、女を寝取られ、前半早々に自殺したかのようにいなくなる。自らを「社畜」と自虐的に自称する21世紀の若年男子に見えた。女を孕ませる時間も気力もない。

 移民の男が日本の王となり日本史も書き換えた結果誰もいなくなった。二世だけが残され、親たちの伝統を受け継いで正統であろうとするが叶わず、前述の胎盤が汚れた女のシーンとなり終幕となる。正統でないものたちが痛々しい舞台だった。
(了)


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