岡崎藝術座「レッドと黒の膨張する半球体」

2. 「レッドと黒の膨張する半球体」評
  水牛健太郎

 会場は薄暗く、セットはよく見えない。ただ、左奥に何かがある。女性が横たわっているようにも、手足と頭を落とされた牛の身体のようにも見え、不穏な雰囲気が漂っている。明るくなると、奥に黒い大きな幕が半球状にかけられていることが分かる。左奥の物体はやはり牛の身体をかたどった小道具で、やがて天井に吊り下げられて、振り子のように揺れるさまが見え隠れする。全体にほの暗く、時々鳴り響く不気味な音もあって、不穏さは最後近くまで続く。

 二人の男が出てくる。「ひひひ、ひひひひ」と笑いながら、移民の社会的地位といった問題についてやたらと熱く語り始める。始終指を鼻の穴に突っ込み、それをぺろぺろとなめる。ことさらに生理的な嫌悪感をかきたて、「自分たちはここにいるぞ」と見る者に迫ってくる。

 親子という設定らしい二人の「移民」の挑発的な身振りは続く。日本人らしい登場人物を「牛」と呼び、「餌に毒を入れる」と宣言したり、日本人女性を奪ってわが物としたりする。そうした露悪的な挑発に漂うのは、濃い苛立ちである。現に日本にいる自分たちを、いないことにしてどうして平気なのか。そんな燻った怒りだ。その怒りが、ポリティカル・コレクトネスを度外視し、外国人への偏見一歩手前の際どさで、承認を求めるアピールとなっている。マッチョなまでに肉体性を誇示し、疲れ切った日本人を揶揄し、自分たちが新しい日本の主人公だと言わんばかり。その実、彼ら自身が深い混乱と恐れの中にいる。ただただ認めてほしい。ここにいることを。現に住んで、生きていることを。

「レッドと黒の膨張する半球体」公演の写真
【写真は、「レッドと黒の膨張する半球体」公演から。提供=フェスティバル/トーキョー
撮影=(C)富貴塚悠太 禁無断転載】

 日本人の多くはポリティカル・コレクトネスなど理不尽な言葉狩りだと思っていて、それが切実に必要とされる状況を想像できない。敢えてわかりやすく言えば、自分のマンションの部屋の隣に身長二メートルの黒人が引っ越してくる状況を想像できない。この文を読む演劇愛好者のほとんどは、自分のことを人種差別と無縁のごくリベラルな人間だと思っている。実際には、人種や民族のはざまで深刻な選択を迫られる経験をしないで済んでいるだけのことだ。実際に身長二メートルの黒人が隣に引っ越してくることになったら、何としてでもそれを阻止しようとする人がほとんどであることを、私は全く疑わない。「自分はそんなことはしない」と即座に思えるなら、あなたはその状況をリアルに想像できていないのだ。身長二メートルの黒人に目の前に立たれると、どんな感じがするものか、経験がないに違いない。

 その黒人が恐ろしい犯罪者だったら問題は簡単だ。引っ越しを阻止するのに何の躊躇も、良心の咎めも要らない。実際は、その黒人はごく穏やかな、素晴らしい人格者かもしれず、それなのにあなたは彼が自分の隣に住むことを認めることができない。彼が黒人だというだけの理由で、理性を超えた恐怖感に耐えられない。自分や、自分の妻や娘を、その黒人が襲う妄想を止めることができない。あなたの恐怖が理性を圧倒する。その時はじめて、あなたは自分がただの差別者であるという事実に気づくのだ。

慈悲深く慈愛あまねき日本政府は幸いにも、国民がそんな不愉快な事実に気づかなくてもいいようにしてくれた。外国人移民の受け入れを厳しく制限、彼らの体臭、耳障りな外国語の発音、浅黒い肌やちぢれた髪などに善良な日本国民が接触しなくてもいいようにしたのである。

 有り難い日本国家の庇護のもと、ほとんどの日本人は外国人移民との接触をほとんどしないで生活している。せいぜいコンビニや居酒屋で、中国人や韓国人のアルバイトの日本語の下手さに舌打ちする程度。そして自分のことを人種差別と無縁の善意の人間だと信じ、アメリカ人が人種共存のために苦い歴史と経験を経て作り出した共存の手法であるポリティカル・コレクトネスを、ただの偽善だと切り捨てることができる。黒ん坊を黒ん坊と呼んで何が悪いのか、というわけだ。

 ほんの百年前、アメリカの南部では白人女性を見つめた疑いをもたれただけで、黒人が拉致され、生爪をはがされるなどのリンチの末、焼き殺されて木につるされた。そんな事件が年に百件以上も起きて、警察は全く動かなかった。そんな暗黒時代から、アメリカ社会がどんな苦難を経て、少なくとも公共の場で「黒ん坊(nigger)」なんて言葉を追放してきたか。ポリティカル・コレクトネスとはそういうことで、行き過ぎや形骸化の懸念こそあれ、全面否定できるようなものでは全くない。実際にあなたに黒人の隣人や同僚がいて、彼らとうまくやっていかなければならないとすれば、「黒ん坊」なんて言葉を使っちゃいけないのは当たり前のことではないか。

 そんなことさえ分からない、異民族・異人種という存在に全く想像力が働かないのが大半の日本人の現状ならば、手段を選んではいられない。日本人と違う肉体と文化を持つ存在が「ここにいる」ということを、生理的嫌悪感に訴えてでも、日本人の鼻先に突きつけるしかないのだ。そんな揺さぶりの試みとしてこの作品を見た。

 それにしても、だ。最後数分間の展開には深い戸惑いを感じた。これまで登場しなかった女性が登場し「わたしは子供がほしかった でも水を飲んでしまった!」と語り始める。明確にはされていないが、原発事故による放射能汚染を思わせるシチュエーション。照明はそれまでの不穏な雰囲気から一変、しみじみとした温かさを感じるものに変わり、人間的な共感を強調するかのようだ。

 しかし、ここにこそ私は欺瞞を感じてしまった。たまたまこの芝居を見る直前に見た作品(qui-co. 『LIVE FOREVER』)でも女性たちが「子供を産みたい」と叫んでいた。果たしてこれら(「子供がほしかった」「産みたい」)の主語は誰なのか。女性たちか。それにしては、『レッドと黒の膨張する半球体』の作/演出も『LIVE FOREVER』の作者も演出家も、全員男性である。「産みたい」のか? 本当は「産ませたい」のではないか? そこには自らの欲望を隠ぺいし、女性の側に責任を押し付けるような卑劣さ、気持ち悪さがある。

 東日本大震災後に、男女問わず結婚や出産への関心が高まっているという事実はあるようだ。それにしても、出産の決定権は女性にあるということがようやく社会的常識となってきた今、男性の作家や演出家が女優に「産みたい」「こどもがほしかった!」と叫ばせることには抵抗を感じる。どうして彼らは男性の俳優に「こどもを産ませたい」「こどもがほしかった!」と叫ばせなかったのか。確かにちょっと滑稽な光景だったかもしれないが、少なくとも真実が宿ったはずである。

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