東京デスロック「モラトリアム」

◎観察者(遊歩者)たちの8時間
 藤原ちから

 東京デスロックの新作『シンポジウム』(2013.7)に出演することになった。舞台を観て批評を書くはずの人間が、その舞台に立ってしまうということに、ある一線を超えていくというか、未知の領域へとわたっていく感覚もあり、今からとても楽しみなのだが、その前に、ずっとくすぶっていた宿題を終わらせようと思う。
 それは、ほぼ1年前に上演された『モラトリアム』について書くこと。8時間にも及んだあの作品を体験して以来、どうやらわたしの中には、何かそれまでにない感覚が芽生えているらしい。その正体に迫ってみたいと思った。

 そして手探りでこの劇評を書き始めたところ、「観察者」というキーワードが見えてきた。さらには「wonderland」編集部とのやりとりにおいて、担当のH嬢のコメントを受けて3度にわたる大幅な書き直しを行う中で 、これってベンヤミンの「遊歩者」みたいですね、と彼女から指摘があり、なるほどと思い、「観察者=遊歩者」という存在がクローズアップされてきたのである。

 一方では、この男は、誰からも注目されていると感じていて、まさにいかがわしさそのもの。他方では、まったく人目に触れない、隠れこもった存在。
        ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』

 この都市における遊歩者、あるいは『モラトリアム』における観察者は、安全地帯から傍観者として眺めているわけではない。隠れきれずに、その姿を晒している。ちょっと迂闊だが、だからこそチャーミングな存在なのだ。本稿では、この観察者(遊歩者)の感覚を探ってみたい。

壮大な暇つぶし

 『モラトリアム』はどんな作品だったのか。

 今を遡ること2年前、東京デスロックは、主宰の多田淳之介が掲げた「拠点日本」というスローガンを手に、『再/生』ツアー公演(2011.7- 2012.3)を行った。震災直後のことでもあり、日本列島各地での上演は、おそらく彼らに得難い経験をもたらしたのだろう。その影響もあったのか、続く作品はかなり特殊なものになった。それが『モラトリアム』(2012.5)である。

 ちなみに彼らは『モラトリアム』の後、『リハビリテーション』(2012.8)、『カウンセリング』(2012.9)と立て続けにコンセプチュアルな作品を発表し、それらのトライを、4年ぶりの東京復帰公演となった『東京ノート』(2013.1)に結実させている。この一連の軌跡は、それぞれの今いる足元を見つめ、何が幸福であるのかを問い直し、誰とどのように生きていくのかを、観客たちに想像させるような試みでもあった。おそらくは今度の『シンポジウム』もまた、この一連の流れを汲んだものになるだろう。

 さて、『モラトリアム』はどこが特殊だったのか。まずなんといっても最大で8時間にも及ぶ上演時間の長さ。入場は好きなタイミングでOK 。ただしトイレ休憩を除いては、一度退出したら再入場はできない。8時間のあいだ、特に何か物語が上演されるわけでもない。客席さえもない。観客たちは好きな場所に腰を降ろしたり寝そべったりしながら、たまに発生するイベントを楽しんだり、備え置かれた書籍やゲーム機をいじったりして、好き勝手に過ごす。いわば壮大な暇つぶし(モラトリアム)なのだ。

気散じ

観客はこの中で、ほとんど喋らないで無言のまま過ごしている。ゆるやかに何かが起きるので、それらをぼんやりと見つめながら、たぶん日常ではあまり感受しないものを捉えているのだろう。入場時にケータイを預けるので、中に置いてあるiPadの端末以外、観客は外界と遮断されてしまう。漫画『ドラゴンボール』で言うところの「精神と時の部屋」にも似た、瞑想の空間を想像してもらっても大きな齟齬はないと思う。

 面白いのは、この中にいる時の感覚だ。(暇だから)微細なことへの神経はいつもより研ぎ澄まされているのに、だからといってその意識は一点に集中しているわけでもない。どうせ最大で8時間もあるし、という諦めのせいか、リラックスした感覚でくつろぎつつ、ぼんやりと状況を眺めている。これはベンヤミンの言う「気散じ」を思わせる。「気散じ」とは、芸術作品の前で集中するタイプのそれまでの観賞法に対して、新たに台頭してきた注意力散漫な大衆による鑑賞法のことだった。

 芸術作品の前で精神を集中する人は、作品のなかへ自分を沈潜させる。彼はそのなかへ入ってゆく(中略)。それに対して気の散った大衆の方は、芸術作品を自分たちのなかへ沈潜させる。大衆は海の波のように、作品のまわりに打ち寄せ、潮となって作品を包んでしまう。
       ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」

 ベンヤミンがこれを書いた(1935-36)のは、ファシズムが耽美主義と結びつき、(例えば未来派による戦争賛美といった形で)芸術が大衆を動員していこうとする時代だった。彼にとって「気散じ」とは、そうした熱狂的な一点への没入を避けるためのひとつのレジスタンスであり、独裁者によって押しつけられる崇高な芸術鑑賞法に対する、民衆からの革命の狼煙にも見えたのかもしれない。

 『モラトリアム』の8時間のあいだ、わたしは観察者としてその空間に紛れ込みながら、同時にこの「気散じ」にも近いぼんやりとした態度でその場を観察していたように思うのだ。

お忍びを楽しむ王侯

 しかしすべての観客がそうした「気散じ」の状態にあったわけではないだろう。『モラトリアム』については、すでに綾門優季さんが「wonderland」に劇評(»)を書いており、特に残り1時間ほどで発生するダンスシーンについての記述には、「気散じ」とは真逆に近いものを感じる。

 立ち上がっていないひとはひとりもいなくなり、わたしたちは輪になっている。
 わたしはわたしたちと同じ表情を浮かべている。
 わたしはわたしたちから離れたくない。
 わたしはわたしたちの手を強く握る。
(中略)そして、境界という境界は完全に失われる。失ったことにまるで安堵したかのように、わたしたちのほとんどが手を離し、ぐったりと床に倒れ伏す。

 実はこの箇所への違和感が、わたしがこの文章を書こうと試みる最初のきっかけを呼び起こした。この箇所がなかったら、『モラトリアム』について1年以上もイメージを温め続けることは不可能だったかもしれない。この箇所には、違和感と共に、興味を喚起される何かがあった。皮肉でもなんでもなく言うけれど、「うん、わかるわかる」と思わせるのだけが劇評の役割ではないのだと思う。

 ともあれ、この箇所を読んでわたしが思い出したのは、伊藤計劃の小説『ハーモニー』(2008)のラストシーンだった。

 システムが即ち人間であること、それに苦しみ続けてきた社会は、真の意味での自我や自意識、自己を消し去ることによって、はじめて幸福な完全一致に達した。
(中略)
「さよなら、わたし。
 さよなら、たましい。
 もう二度と会うことはないでしょう」
(中略)
 いま人類は、とても幸福だ。
        伊藤計劃『ハーモニー』

 最終的に人々が個別の意志を失い、「幸福な完全一致」として全体=社会に溶けてしまうこの『ハーモニー』は、どちらかというと、究極の管理社会(全体主義)に警鐘を鳴らす、一種のディストピア小説として書かれて いたはずだ。しかしこの小説が今なお多くの若者の支持を得る背景には、もしかすると若者たちのあいだに、このような「全体=わたしたち」に溶けることをユートピアとして歓迎しうるような、いささか危険なメンタリティがあるのかもしれない。

 「境界という境界は完全に失われる」といった状況はわたしには訪れなかった。踊りまくって大いに楽しんだけれども、それはあくまでも(実際にその名前を知っているかどうかは別にして)固有の名前を持つ人たちと踊っていたにすぎない。わたしは「わたし」を失うことはなかった。

「純粋な遊歩者は……いつも自分の個性を十分に確保している。反対に、野次馬にあっては、外部世界によって熱狂し陶酔するほどに刺激されるので、彼らの個性は吸収され消えてしまう。野次馬は、目にする光景に影響されて、非人格的存在になる。それはもはや一人の人間ではない。野次馬は公衆であり、群衆である。野次馬の真骨頂は……独特の性質をもち、素朴で夢見がちな灼熱の魂であって、まっすぐで誠実な心の持ち主のすべてから賞賛されるに値する。」
 ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』(ヴィクトール・フールネル『パリの街路に見られるもの』からの引用部分)

 野次馬、という字面だけ見るといささか不穏当な表現にも思えるが、観察者(遊歩者)の性格をより際立たせる記述であるように感じたので上記を引用した。「素朴で夢見がちな灼熱の魂」を持つ野次馬は、愛すべきピュアな存在でもあるのだろう。ただしそれは燃えやすい。そして例えば最近の「炎上」などが、おそらくは素朴で正義感の強い人々によってまさに野次馬的に巻き起こされ、その都度の「敵」の排斥をもたらすことを考えると、わたしはどちらかというと醒めた目でそれを見ている観察者(遊歩者)のほうに惹かれてしまう。

「完璧な遊歩者にとって……数の中に、波打つものの中に……居を構えることは、無限の喜びである。(中略)世界を見つつ、世界の中心にいながら世界に対して身を隠していること(中略)。観察者とは、いたるところでお忍びを楽しむ王侯である。」
 ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』(ボードレール『ロマン派芸術』からの引用部分)

 観察者(遊歩者)は「波打つもの」へと、つまりこの場合「観客たち」のあいだへと紛れ込んでいる。しかもそれが「お忍び」であることを自覚して楽しんでいる、ちょっとお茶目な存在なのだ。そしていつの間にか「潮となって作品を包んでしまう」。おそらく『モラトリアム』の観客たちの中には、こうした「お忍びを楽しむ王侯」たちが多数紛れ込んでいたはずである。というか、この態度にこそ、観客の本質があるのではないだろうか。

「モラトリアム」公演の写真2「モラトリアム」公演の写真1
【写真は、「モラトリアム」公演から。撮影=佐々 瞬 提供=東京デスロック 禁無断転載】

ヴァルネラビリティ

 自分とは異なる他者がそこにいる、という圧倒的な事実を、まずは認めざるをえない状況から『モラトリアム』は始まった。どこかの体育館での避難民生活をも思わせるような狭い密室空間の中で、観客たちは、お互いにスペースを譲り合ったりしながら、共存する道を探らなければならない。それが『モラトリアム』における観客たちの暗黙のミッションだった。

 考えてみれば8時間というのは絶妙な長さで、けっして短くはないが、長すぎるというほどでもない。労働基準法で定められた1日の労働時間の上限に等しいが、ここは会社でもない。学校でもない。入院病棟でもない。家族でもない。隣にいるのは、名前も知らない誰かさんなのだ。履歴書も身分証も提示されてはいない。どんなバックボーンなのか全然知らない。見た目で判断するしかない。そんな正体不明の隣人たちと、それなりに長い時間をどう共有していくのか。観客はまず周囲の様子をおそるおそる窺うことになる。

 そもそも客席のない『モラトリアム』においては、「安全な観客」としてそこにいられる人はひとりもいなかった。この時点ですでにかなりヴァルネラブルな(傷つきやすい)状態に晒されていた。ケータイも預けてしまっているし、外の世界では通用するかもしれない社会的な地位や肩書きも、この場ではなんら力になってはくれない。テレビでよく見る芸能人のように顔が知られていれば別だが、そうでなければ基本的にはただの「剥き出しの生=ホモ・サケル」(cf.ジョルジョ・アガンベン)として存在するほかない。

 けれどもわたしは、いつの間にかこの場でくつろぎを得るようになっていた。そのくつろぎとは、いわば「鎧」を脱いだような無防備な状態でもある。それは他者とのあいだに立ちはだかっている「壁」を取り払うことにもなるが、同時に、かなり際どい状態も招いてしまう。自分自身の傷つきやすい部分(ヴァルネラビリティ)を、誰だか知らない正体不明の隣人の前に露呈させることになるのだから。

 そういえば、それで思い出す。初日の、まだ序盤の出来事だった。出演者のひとりであるダンサーの岩渕貞太が、ある女性の観客に近づいていった時、わたしはひやっとした。最初、女性はその接近に対して戸惑いを隠さなかった。少し脅えていたかもしれない。わたしは緊張した。男が女に近づくことには、やはりどうしてもセクシャルな恐怖を感じてしまう。あの場面は、おそらくは岩渕がダンサー(身体を使う人間)として際どいものを賭けた綱渡りの瞬間だったのではないだろうか。そして結果的には、その極めて傷つきやすい状況下においても、両者のあいだに不愉快な出来事は起こらなかった(と思う)。言葉がなくても、そこにコミュニケーションは生まれていた。

 ヴァルネラビリティといえば、その究極は、『風の谷のナウシカ』の王女ナウシカかもしれない。彼女を警戒して凶暴性を剥き出しにしているキツネリスに指を噛まれた時、ナウシカは「ほらね、怖くない。怯えていただけなんだよね」と言って笑顔で応え、キツネリスの暴力性を解除していく。引用するのもちょっと気恥ずかしいくらいの名シーンだけれども、『モラトリアム』における岩渕貞太のあの場面でも、その際どい出来事が、観ていた者たちの緊張を一瞬高め、そして解除していったのではないか。 ヴァルネラビリティは、「鎧」や「壁」を解除する鍵となりうる。わたしは岩渕のあのシーンをきっかけに、くつろぎを得た気がしている。

観察者(遊歩者)の目

 8時間のあいだ、こうした様々なコミュニケーションによって、暗黙の約束が培われていった。その共有された約束のかぎりにおいて、あの『モラトリアム』の8時間をどのように過ごすかは各人の自由だ。数十分で退出した人もいたし、8時間のあいだフルで居続けた人も何人かいた。そのどれもが体験として個別であり、特殊であり、ひとしく尊重されていいと思う。

 ただ、あの作品に対して「参加する」という積極的な態度でもなく、何が起きているかを「確認する」という消極的な態度でもなく、もっと離れた地点からただ「観察する」態度は、やはりそれなりに長い時間あそこに居ないと得られなかったかもしれない。

 観察することは、この作品の全貌を解った気になることではない。8時間フルにいてもすべてを見るのは無理だし、むしろ、それが無理だということを思い知るだろう。「気散じ」の状態でぼんやり眺めていると、いろんな人々のあいだに、退屈な状況を打破するためのなんらかのアイデアが浮かび、そしてそのほとんどが音もなく消えていったことが感じられたはずだ。要するに「ここで起きたこと」は、「ここで起きなかった無数のこと」と地続きなのであり、ある瞬間の誰かに芽生えたその出現可能性は、わずかの勇気や、タイミングや、なんらかの偶然の差で実現されずに消えていく……。そうした出現と消失の機会に満ちていることこそが『モラトリアム』だったのであり、到底、そのすべてを把握することなんてできない。

 観察者はだから、そうした諦めを抱きながらぼんやりと場を見ている。特に何かに秀でているわけでもなく、いかにも凡庸だが、ただしその「観る」という行為には確かな存在意義を感じていることだろう。おそらくはそれが「海の波のように、作品のまわりに打ち寄せ、潮となって作品を包んでしまう」力を持ちうることを知っているからだ。その点においては、観察者たちはお互いを信頼しているし、時にはリスペクトの念を送り合うことさえあるかもしれない。たとえその相手が正体不明の隣人だったとしても。

 綾門さんのあの「わたしたち」への夢想もまた、こうした「潮」の中で生まれた幻のひとつだったのかもしれない。みずからの「鎧」を脱ぎ、ヴァルネラビリティを露呈し、他者との「壁」を解除した結果、隣人たちとの境界を失ったかに見えた、という一種の蜃気楼だと考えるならば。その幻もまた、確かに『モラトリアム』の中に含まれていたのだと思う。演劇は、きっとそういったたくさんの幻によって成り立っているのだろう。

 『モラトリアム』の8時間を経験してからというもの、あの部屋にひろがっていた時空間が、時々立ち上がるような感覚がある。それは不意にやってくる。公園で芝生の上に寝転び、行き交う人々をぼんやりと眺めている時なんかに。なかなか楽しい。ケータイの電源をそっとOFFにしてみる。何が見えるだろうか? 観察者はただそこに佇むほかない。視界の先をぼんやりと見つめるその目は、つめたくもなく、あたたかくもない。何も救わないかもしれない。せいぜい、こうしてたまに何かを書きつけるだけ。

 あ、しかし、最後に付け加えておかなければ。観察者(遊歩者)は現実に対して必ずしも無力というわけでもないことを。

「新世界の未開人が爬虫類や、猛獣や、敵の部族の間を進んでいくように、社会の中で法律や、罠や、共謀者の裏切りを突破していくこの人物から目が離せない。」
        ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』

 観察者(遊歩者)は、単に世間知らずの王侯というわけでもない。

 では、『シンポジウム』でお会いしましょう。

【筆者略歴】
藤原ちから/プルサーマル・フジコ(ふじわら・ちから)
 1977年生まれ。編集者、フリーランサー。BricolaQ主宰。雑誌「エクス・ポ」、武蔵野美術大学広報誌「mau leaf」、世田谷パブリックシアター「キャロマグ」などの編集を担当。「CoRich舞台芸術まつり!」審査員。2013年8月末に徳永京子との共著『演劇最強論』(飛鳥新社)を刊行予定。
・パーソナルメディア:BricolaQ:http://bricolaq.com/
・ワンダーランド掲載一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ha/pluthermal-fujiko/

【上演記録】
東京デスロック『モラトリアム』(STスポット開館25周年記念事業
STスポット横浜(2012年5月19日-20日)

参加アーティスト
・東京デスロック(多田淳之介、夏目慎也、佐山和泉、佐藤誠、間野律子)
・EnricCastaya Orchestra(メンバー非公表)
・大谷能生(音楽家・批評家)
・岩渕貞太(ダンサー・振付家)
・佐々瞬(現代美術家) 他

OPEN & START 13:00  CLOSE 21:00
○両日共13:00-21:00の間は入場可。退場自由。再入場不可(お手洗いでの一時退場による再入場は可)
チケット料金 予約¥2000 当日¥2500


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