文学座アトリエの会「信じる機械-The Faith Machine-」

◎人間はどのような機械なのか。
 北野雅弘

「信じる機械」公演チラシ
「信じる機械」公演チラシ

 『信じる機械』の作者アレクシ・ケイ・キャンベルはゲイであることをオープンにしている劇作家で、TPTが2011年に上演したデビュー作の『プライド』も、現在と50年前を対比することで、社会的偏見がどれほどゲイのアイデンティティを歪め苦しめていたのかを描いていた。今回は、ゲイ排斥を確認したイギリス聖公会のランベス主教会議が話題に出てくるし、魅力的なゲイが描かれるのだけれど、この作品の「人間とは何か?」というテーマは社会的というよりはむしろ哲学的だ。

 冒頭の場面は2001年9月11日のニューヨーク。911の直前の設定である。床一面に雑誌などのページが隙間なくまき散らされ、奥には戸口を塞ぐようにうずたかく積み上げられた舞台(美術:乗峯雅寛)が印象的だ。場面が変わってもこの印刷物のセットは変わらないので、それが登場人物には見えないことが分かる。そこに諍いのただ中にあるソフィとトムのカップルと、ソフィの父親エドワードが登場する。エドワードも、まき散らされた雑誌と同様、ソフィたちには見えていない。もう死んでいるのだから。

 諍いの原因はトムの仕事にある。小説を諦めて広告を本業にしたトムは、フレッチャー製薬という大きなクライアントを獲得する。それがソフィの怒りを招いた。フレッチャー製薬は、薬の治験と称してウガンダで人体実験を行い、多くの子供たちが犠牲になった。その広告に手を出すことは、人としてやってはいけない一線を越えること、ソフィの言い方だと、「フレッチャーライン」を越えること、加害者の一人になることである。トムにはソフィの考えが理解できない。大企業はどこだって似たようなことをしている。でも僕達はその企業の服を着、ハンバーガーを食べる。市場社会では全てがお金に換算される。ソフィの言っていることはイギリス聖公会主教だった父親の受け売りにすぎない。トムが契約を考え直すつもりがないことを知り、ソフィは出てゆく。破綻がまさに決定的になったとき、飛行機の音が聞こえ、彼らが被害に遭うわけではないが、911のテロが起きたことが暗示される。

 冒頭のこの場面では、観客は程度の違いはあるだろうけれどトムに共感するのではないか。実際、ソフィの言葉の多くは、二人には聞こえていないエドワードの言葉を反復していて、受け売りのように響く。現代社会の中で生きる観客の多くも、大企業のクライアントを忌避したりはしない。わたしたちも、「フレッチャーライン」のトム側にいるように感じる。ただ、そう感じる理由の一つはソフィへのエドワードの影響を強調する演出(上村聡史)にあるようにも思う。エドワードの、ソフィと被さる一つ一つの言葉に「ため」があってスピードに乏しく、響きが説教くさい。正直な話、この調子で三時間続けられると辛いと思ったほどだ。ここは素っ気なくて良いから、言葉の意味、言葉自体の持つ力が強調されると、印象は変わってくるだろう。

 二人はその後二度よりを戻しそうになるが、どうしてもうまく行かない。一度目は2006年、共通の友人であるゲイの黒人のローレンスの結婚式で、二人とも新しい恋人と一緒だが、再会したとたん、互いのことを忘れられないのに気付く。二度目は2010年、イラクやアフガニスタンでの人権問題に取り組むジャーナリストとして知られるようになったソフィは、昔トムが書いていた小説の原稿を見つけて持ってくる。でも、結局、「フレッチャーライン」が彼らを引き離す。二人の線は交わらないまま、2011年、ソフィはアフガニスタンで狙撃されて死んでしまう。

 これらの出来事は時間軸に則して提示されるが、過去の二つの出来事が挿入されることで全体としての時間構成はやや複雑になる。まず1998年、ギリシャのパトモス島にいる二人とエドワードのところに、イギリス聖公会主教のパトリックがやって来る。エドワードはマルクス主義にも好意的な「異端(比喩的な意味で)」主教として知られていたが、聖公会のランベス会議でのゲイ排斥の決定に抗議して主教を辞したところだ。パトリックが古くからの友人として翻意を促しに来るが、結局両者の話し合いは決裂する。高位聖職者に初めて出会ったトムはそんな複雑な問題よりも、一体全体どうして、人が「DNAとかそんなもの」の後で、神様を信じたり出来るのかが知りたい。人間に特別の創造の神秘なんてものはなく、人も一種の機械ではないかと。この問いは(おそらく聖職者なら飽きるほど聞いていると思うのだけれど)その場では二人の主教をややたじろがせる。

 二つ目の挿入場面は2001年、二人の破局の少し前だ。パトモス島に暮らすエドワードの認知症が進行し、彼は怒りっぽくなり、家政婦のタチヤーナのおむつ交換を拒絶し、不潔なまま怒鳴り散らしている。ソフィたちはアメリカから急遽戻ってきて、おむつを交換し、彼を施設に入れる手配を整える。舞台上で行われるおむつ交換は、それほど刺激的とは言えないものの、人間の尊厳のありかについて考えさせるものになっている。

 「フレッチャーライン」と信仰の有無は直接に結びついているわけではない。しかし、人間が「DNAとかそんなもの」の後で結局機械だと分かったとしたら、人間の尊厳はどこにあり、越えてはいけない線はどうやって引けるのか。この問いへのソフィからの答えは、最後に、フレッチャー事件の生き残りの一人で、彼女が援助していたアガサによって伝えられる。それが、私たちは「信じる機械Faith Machine」だという言葉だ。この場合、信じるもの(faith)は宗教的な信仰ではない。人間が機械で、いつかは死ぬし、晩年のエドワードのように壊れてしまうことがあるにしても、越えてはいけない線、守らねばならない信義を持つ、そうした機械として人間の存在はあるのだと。アガサが若くて健康的な女性として描かれることで、トムは、フレッチャー社が奪った生の重みを感じ取り、自分が「越えた」線についてようやく実感することが出来る。

【写真は「信じる機械-The Faith Machine-」公演から。撮影= 宮川舞子 提供=文学座 禁無断転載】
【写真は「信じる機械-The Faith Machine-」公演から。撮影= 宮川舞子 提供=文学座 禁無断転載】

 上演は、若手・中堅の人たちが頑張った。パトリック主教とローレンスの二人の黒人役の鍛治直人が、対照的なそれぞれの役柄をよく演じ分けた。特にローレンスはチャーミング。主人公ソフィを演じた松岡依都美も、聖女伝説になりかねない物語に人間的な情感と抑制を与えていた。亀田佳明はトムの軽さをよく伝えていた。他方、ソフィがなぜトムを忘れきれないのか、トムの持つ魅力はあまり分からない。イラクで、一人きりでホテルにいたとき、「死んで行くイラクの子供たちなんか見捨てて逃げても、私はあなたといたい」と思ったことがあるとソフィは回想するのだけれど、このトムは、普通のチャラい男で、そこまで彼女を惹きつけるようには見えないのが正直なところ。だから、アガサを見て初めて自分が加担した行為の意味に気づく最後の苦悩も唐突に見える。もう少し人物像に奥行きが欲しい。登場人物の民族的・文化的多様性(終幕では全ての登場人物の国籍が違う)も、日本語の舞台ではなかなか表現しにくいのだが、ウクライナ出身のロシア人家政婦タチヤーナを演じた金沢映子の流暢なロシア語の響きによって助けられた。

 この作品では、人間にとって大切なものを守る役割を担うのが本として書き残された言葉である。エドワードがソフィに語ってきた言葉は確かに彼の死を超えてソフィのなかに生き、第一幕で彼女を動かしていた。でも、本になった言葉はさらに長いいのちを持ち、さらに多くの人に深い影響を与えるだろう。だからこそ、ソフィもエドワードも、トムが小説を書き上げ出版することを心から望んでいる。エドワード自身も、認知症発症の後、自分の言葉を何とか「本」にしたいとの妄執を持つ。実際に彼が書くことが出来るのは、断片的で謎めいたメモでしかないのだけれど。最後、友人たちは作者とタイトルを確認しながらソフィの蔵書を整理するが、この場面はその点で象徴的だ。トルストイからネルーダまで、作者の死を超えて生き延びた言葉としての本が、人が人であり続けるためのよりどころになることを確かに感じさせる。聖書の引用が随所に見られるが、「聖書(バイブル)」という言葉の語源が「本」を意味するギリシャ語ビブリオンであることも欧米の観客は当然知っているだろう。他方、「本」の世界の対極に置かれるのが、その場限りで消費され消えてしまう言葉である「広告」の世界だ。だから、ソフィにとって、小説を捨てて広告を選ぶことと「フレッチャーライン」を越えることは密接に結びついている。

 作品にはキリスト教的な暗示が多く、そこは日本人には分かりにくい。パトモス島はヨハネが黙示録を書いたという伝説のあるところで、あちこちにメモを散らかし本を書き残そうとするエドワードはヨハネに重なる。トムという名前は聖トマソに由来し、目で見てその傷跡を触るまでキリストの復活を信じないと言った聖トマソは不信と懐疑の象徴だ。(作中でエドワードは一度トムに「トマソ」と呼びかけている)。そうした暗示だけでなく、「ランベス会議」がイギリス人にとって持つ意味も、イギリス聖公会の決定が旧植民地に対して与える影響も、私たちにはあまりよく分からない。また、フレッチャー事件は1996年にファイザー社がナイジェリアで引き起こした薬害惨禍をモデルにしているが、この事件も日本ではイギリスほど知られてはいないだろう。このあたりの文化的・社会的な差異は、舞台鑑賞にそれほど支障はないとはいえ、やや歯がゆいところだ。でも、人間が一種の機械として扱われるときその尊厳はいかにして保たれるのか、という問いはキリスト教だけのものではなく現代社会に共通のテーマであり、介護、遺伝子治療、尊厳死など、医学や生命科学の発展に伴い、私たちに日々突きつけられている問題でもある。だからこそ、三時間の長丁場を、いろいろ考えながら、退屈することなく最後まで見続けることが出来た。

【筆者略歴】
 北野雅弘(きたの・まさひろ)
群馬県立女子大学文学部美学美術史学科教員。専攻は美学。「しんぶん赤旗」の劇評を月一度程度担当(2006年から)。ソフォクレス「オイディプス王」(『新版ベスト・プレイズ』論創社2011年所収)の翻訳あり〼。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kitano-masahiro/

【上演記録】
文学座5・6月アトリエの会「信じる機械-The Faith Machine-」 
信濃町文学座アトリエ(2014年5月28日-6月11日)

作:アレクシ・ケイ・キャンベル 
訳:広田敦郎 
演出:上村聡史

出演:川辺久造、大場泰正、鍛冶直人、亀田佳明、金沢映子、松岡依都美、永川友里、大和田梓
スタッフ
美術:乘峯雅寛
照明:賀澤礼子
音響効果:熊野大輔
衣裳:伊藤早苗
舞台監督:寺田修
フライヤーデザイン:京(kyo.designworks)
制作:友谷達之
票券:松田みず穂・鈴木美幸  

一般前売 4,000円、当日券 4,300円、ユースチケット 2,500円


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