SPAC「グスコーブドリの伝記」

◎さまよう目がたどりつく「グスコーブドリ」
 廣澤梓

「グスコーブドリの伝記」公演チラシ その上演は遠く、焦点が定まらずに目がふらふらして輪郭がぼやける。つまりは、よく「見えない」。視界を遮るものはなかったし、見るのに遠すぎたわけでもない。SPAC『グスコーブドリの伝記』を鑑賞したのちに残ったこの感覚は、観劇において見えるということがどういうことなのかを教えてくれる。見ることとは、はっきりと近くに全体を通して、ということだ。近くに、というのは物理的な距離だけでなく、心理的な隔たりでもある。また見えなさは目に宿る、見たいという欲望にも気づかせてくれる。満たされることなくさまよい続ける目は、わたしを「考え続ける」ことへと導く。

 あらすじはこうだ。冷害による飢饉で両親と死別し、妹と生き別れになったブドリ少年が、様々な大人と出会い養蚕や農業に携わりながら、火山局技師として再びの冷害の危機に直面する。そこで彼は火山の噴火にともなう「カンサンガス」を利用しての地球温暖化を提案、火山を噴火させるという、ブドリ曰く「本当の仕事」の犠牲となって死ぬ。原作者は宮沢賢治。彼の空想上の物語の舞台として知られるイーハトーブは、岩手県をモチーフにしているが、ここでは300もの火山が集中しているという設定だ。地震や噴火が頻出する物語に、様々な時事や、劇場から出て真っ先に目に飛び込んでくる富士山を重ね合わせる人もいただろう。

 主人公のブドリ以外の登場人物は、みな人形で表される。白い衣装を身にまとった俳優の体の前に、人形は掲げられている。その顔には、後ろで操る俳優の顔写真がプリントされている。顔はほぼ人間の顔と同じ大きさで、体はそれに対して華奢でふらふらしている。しかし、唯一俳優によって演じられるブドリだって、表情や体の動きを極端に抑えられ、まるで人形のようだ。原寸大の「人形劇」である。その後ろにある舞台セットは、白いフレームだけでできており、それらの平面が連なった構造は、配置によってくるくると印象を変えて目を喜ばせる。

「グスコーブドリの伝記」公演から
【「グスコーブドリの伝記」より。撮影=日置真光 提供=SPAC-静岡県舞台芸術センター 禁無断転載】

 

 人形で表される登場人物は、観客に対してそっけない。気がつくとわたしの目は人形ではなく、その奥で台詞を発する俳優をなぞっているのだった。つばのある帽子を被り、更にヴェールに覆われたその表情は、客席の前方に座った客には見えることもあったかもしれないが、わたしがいた斜め後方の席からはまるで見えなかった。見たいと願うそれを十分に見ることができずにさまよう目線は、人形遣いのさらに後ろ、薄暗くフレームによって切り取られた内側に、幾人かの人影を見つける。

 登場人物たちが住む舞台手前の部分とは別に、舞台にはもうひとつの領域がある。そこはセットによって区切られ、二重構造になっている。奥には楽器を吹いたり打ち鳴らしたりしながら、「くつくつくつくつ」「ぽろろんぽろん」といった物語に登場するさまざまなモノたち(空き缶、麦、鳥、火山…)の「こえ」を口にする人の姿が見える。彼らが手にするのはアコースティックの楽器だ。演奏者が動けば、それにあわせて音も鳴る。彼らこそ生命感、躍動感に満ちた、いかにもライブの空間に相応しい存在だ。しかし劇中、そこに照明が当てられることはない。薄暗くて焦点が結ばない場所で、しかもマイクやアンプによって増幅されることのない音と声に、彼らの場所と客席の自分との間の遠さを一層感じさせられた。

 遠くのある一点に焦点を合わせようとする目の、その手前に自分の指をかざしてみると、その指は二重に見えることに気付くだろう。奥を見ようと欲望するわたしの目には、ただひとり、生身の体をもって演じられるブドリ像も右に左にブレて、不確かなものに見えてくるのだった。

* * *

 『グスコーブドリの伝記』は宮沢賢治が病気で夭折する1年前の1932年3月に発表された。同じように若くして亡くなる主人公の物語は、そこに作者のドラマティックな人生を読み込むことを誘う。『グスコーブドリの伝記』を原作にした演劇作品の上演は、1940年6月の劇団東童によるものが最初であるそうだが(宮津博脚色・演出)、それを受けて『演芸画法』誌上に掲載された劇評(同年7月号)に見られるのは、まさに賢治の表れとしてのブドリである。「宮澤賢治氏の正しく、真面目な人生への考え方と奉仕の心持と隣人への思ひやりが、少年ブドリを通してしつかりと根をおろし、観客の襟を正させる。」(宇佐見一)

 さすがに今どき自己犠牲の物語を、そのまま肯定するような現代演劇はないにしても、山崎ナオコーラが手掛けた上演戯曲で採られているブドリ像はすこし奇妙だ。登場人物は皆、自らが「SFの世界」の中にいるという自覚があることが繰り返し語られる。そしてその世界では「考え始めたってことは、できるも同然な」のだという。「SFの世界」の外に想定されている世界がどのようなものなのか、最後まで具体的に示されることはない。しかし、ブドリによってそれは「本当の仕事」をすることで到達できる世界へと読み変えられ、やがてそのために「お日様に命を差し出し」、「青空のゴミ」となることを望み始める。

「グスコーブドリの伝記」公演
【「グスコーブドリの伝記」より。撮影=日置真光 提供=SPAC-静岡県舞台芸術センター 禁無断転載】

 「瞳だけでいいじゃないか。触れて見なくったっていいよ。性愛の墓場まで行かなくともいいよ。」

 確かに、賢治という補助線を引くことで、ブドリという人物の見通しが立ちやすくなるということはあるのかもしれない。先の引用は友人・藤原嘉藤治が伝える、賢治の言であるそうだ。賢治は生涯独身を貫いたばかりか、女性との性的接触を自ら禁じたらしい。ほんとうに見るだけでよかったのかは疑問が残るところだが、その目に宿るフェティッシュな欲望は読み取ることができるだろう。わたしはこの一節から、種村季弘の「覗く人」を思い起こした。覗くとは、見られることなく物事を見ることだ。以下はベンヤミンを引用しながら、ドイツの作家E・Th・A・ホフマンの『従兄の隅窓』(1822年)の、窓辺から街の群衆を覗き見する主人公について記述した箇所である。

「自分の見ている対象ともはや全身的に関わることができず、対象世界から疎外され、働きかけることも働きかけられることもない人間。社会的な存在としてはそれは遊民であるが、性的存在としてはインポテンツ、もしくは対象とまだ全身的に関係しない人間である性的未熟者たる童貞である。…彼は精気萎えた壮年の不能者であるが、同時に幻燈や覗き仕掛を覗き見る、少年時の純粋な視覚快楽にふたたびめぐり遭った始原児的再生者ともなる。」(「覗く人―都会詩人の宿命」『ユリイカ臨時増刊・ボードレール』1973年4月号初出)

 ここで性的未熟者は、対象世界から「疎外」された者のひとつの表れとして語られている。と同時に、幻燈や覗き仕掛けを覗き見る人についても、同じことの読み替えとして並置されているのだ。確かに、目だけでいいと言う賢治に、見るだけで椅子から立ちあがることをしない観客としての自分自身の姿がフラッシュバックする。

 ブドリはどうか。人形で表される人々は、たとえ父母や妹であってものっぺりと余所余所しく、また周囲の景色もフレームで表されており、まるで一切が外見である書割のように感じられたブドリのまなざしと捉えることができるだろう。しかも自身もそんな「人形劇」の登場人物のひとりであることを自覚している。自らも空虚な存在として感じているブドリ。「SFの世界」とは「本当の」世界を暗示するものというよりは、「対象世界からの疎外」そのものなのではないか。

 種村はこう続ける。「群衆に主体があるとするならば彼の方が疎外された不毛な自動人形であるが、彼の側に欲望の主導権(フェティシズム)が移れば、都会風俗は玩具屋の飾窓のなかのミニアチュールのように、冷たい硬質な輝きを放つオブェとなって呪縛されてしまう。」ここには「覗く人」にとって疎外とフェティシズムが同一のものの2つの表れであることが示されている。

「不毛な自動人形」として世界の中に佇むブドリの目に現れるフェティシズムは、いくつか指摘することができるだろう。火山局は火山の状況を数字や図形で示してくれるという機械によって把握している。そこでの仕事をすることできっと、ブドリはイーハトーブを手に取るように感じられたことだろう、と想像する。奇しくも公演チラシやポスターに用いられている清川あさみによる絵は、ブドリらしき巨大な人物の顔が、色とりどりに輝くビーズが散りばめられたミニアチュールとしてのイーハトーブを一望している。

 原作で「今まで沼ばたけで持っていた」とそっけない登場をする手帳は、SPACの上演ではブドリがてぐす(蚕)工場主に所有を強く希望し、譲り受けるものだ。以後ブドリは「本当の仕事」を「思いつ」くまで手帳を携える。手帳に熱心に言葉を書きつけるブドリは、「手帳というものには、書いているときの楽しさがなくてはならない」と言う。その一方で言葉によって頭の中が満たされることにより、「ひとりぼっちさが際立」つとも漏らす。手帳=言葉をめぐっても、疎外はフェティシズムと同時に表れる。言語化による対象の「一望」は、考え始めることがただちにできることとして手中に表れるという「SFの世界」自体の説明としても響いてくるように感じられる。それは言語や数値に置き換え、見える化することが前提の「この」世界と無関係ではない。

 ここまで見てきて、疎外とフェティシズムのあいだを揺れ動くブドリが、対象世界としてのイーハトーブに直接的に介入したいと願うようになることは、容易に想像できる事態のような気がしてくる。本稿では『グスコーブドリの伝記』における疎外/フェティシズムの表れを、「覗く人」という限定的な状態にある人を手掛かりに論じてきた。しかし今や見るという行為において、この見られずに見ることはかつてないほどに存在感を増している。パソコンやスマートフォンが繰り出す映像をきっかけに、中東地域に向かったという若者のことを「グスコーブドリに、とても似ている」と思うわたしは、そのときテレビの画面を見つめていた。

※本稿での山崎ナオコーラによる上演台本は雑誌『悲劇喜劇』2015年3月号掲載の「グスコーブドリの伝記」、宮澤賢治による原作「グスコーブドリの伝記」の引用は、青空文庫の掲載(http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1924_14254.htm 底本:「童話集 風の又三郎」岩波文庫、岩波書店)を参照している。

【筆者略歴】
廣澤梓(ひろさわ・あずさ)
 1985年生まれ。山口県下関市出身、神奈川県横浜市在住。2008年より百貨店勤務。2013年1月よりワンダーランド編集部に参加。観客発信メディア「WL」発起人。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/hirosawa-azusa/

【上演記録】
SPAC「グスコーブドリの伝記」(静岡芸術劇場、2015年1月17-21日)

演出:宮城聰
作:宮沢賢治
脚本:山崎ナオコーラ
ドラマトゥルク:西川泰功
音楽:棚川寛子

出演:美加理、阿部一徳、池田真紀子、大内米治、木内琴子、大道無門優也、本多麻紀、森山冬子、山本実幸、吉植荘一郎、渡辺敬彦

演出補:中野真希
舞台監督:内野彰子
舞台:林哲也、神谷俊貴
舞台美術デザイン:深沢襟
舞台美術助手:佐藤洋輔、三輪香織、徳舛浩美
照明デザイン:小早川洋也
照明協力:大迫浩二
照明操作:中野真希
音響デザイン:加藤久直
音響操作:大塚翔太
衣裳デザイン:堂本教子
衣裳:大岡舞
衣裳製作:畑ジェニファー友紀、清千草、梅原正子、杉山浩子、諏訪部翔子、駒井友美子
ヘアメイク:梶田キョウコ
英語字幕翻訳:スティーブ・コルベイユ
英語字幕操作:鈴木麻里
制作:丹治陽、中澤翠
宣伝美術:
 絵・清川あさみ(絵本『グスコーブドリの伝記』リトルモア刊より)
 デザイン・榊原幸弘
プロモーションビデオ:フリーライディング

主催:SPAC-静岡県舞台芸術センター
後援:静岡県教育委員会、静岡市、静岡市教育委員会
支援:平成26年度文化庁劇場・音楽堂等活性化事業


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です