燐光群 『だるまさんがころんだ』

創作という冒険の道行   坂手洋二という才能は常に歩いている。「現実」の道を踏み外すことなく、自身が現代を生きている、極めて強い自覚を肌身離さずに歩いている。彼は自己模倣を嫌悪する。予定調和を拒否する。貪欲に演劇表現を追 … “燐光群 『だるまさんがころんだ』” の続きを読む

創作という冒険の道行 

 坂手洋二という才能は常に歩いている。「現実」の道を踏み外すことなく、自身が現代を生きている、極めて強い自覚を肌身離さずに歩いている。彼は自己模倣を嫌悪する。予定調和を拒否する。貪欲に演劇表現を追求し、常に現行の「坂手洋二」で在り続けようとする姿勢は、作品においても、その創作過程においても貫かれている。


 坂手洋二は、今のそして少し先にあるものを捉える、敏感な社会的な眼を持った劇作家である。その手法は、たとえば評伝劇を確立した井上ひさしと同様の影響を後続に与えたともいえなくはない。

 近年の劇作の特徴として、坂手は現代社会が抱える問題に基づいた或る一つのキーワードをもとに、そこにまつわるあらゆる事象を吹き寄せにしてみせる。一見それぞれが孤立して見える世界が、実はひとつの輪であることに気づかせる。『だるまさんがころんだ』で言えば「地雷」。しかし、独断の大薙刀を振るって言えば、主題が「地雷」であることにそれほどの大きな意味はない。「素材としての地雷」というならば別としても。彼の意識は「社会派」と括られるのを自らはねのける如く、題材が如何に演劇として成立し、且つ表現が演劇でなければならないのか。それに終始している。何をモチーフとするかは入り口でしかなく、その後の処理如何で綺羅星にも塵芥にもなる。

 今回の「地雷」の選択は、坂手洋二自身が世界とつながろうとする意思表示そのものなのであり、そこに関わるすべての人びとが「演劇」を通してある種の共同性を獲得することに他ならない。もちろんそのすべてが、9.11以後の世界情勢や、地雷という申し子が眠りのうちに牙を研いでいたすべての戦争の上、「現代社会の構成員としての私たち」という立地点にあることが前提なのである。

 『だるまさんがころんだ』は、ここ数年の坂手洋二、燐光群の創作活動のひとつの達成であったといえる。たとえば坂手は『屋根裏』から、十分から十五分ほどの短い場面をつないで一つの大きな物語を完成させるという手法に可能性を見出しているようだ。コマーシャルの挿入が度重なるテレビに慣らされてしまった現代において、短時間のシーンを暗転でつなぐ劇時間の処理は有効に作用する。「笑い」への意識的作業も『屋根裏』以降の産物である。

 時空の広がりは海外に及び、挿話も自立した意味を持つようになった。ラップ調の口上で地雷を売り歩く死せる武器商人は、多用される「専門用語」や坂手の硬質な劇言語と拮抗し、独自の文体を紡ぎだす。また今回の収穫としては非現実の領域にもう一歩足を踏み入れた点があろう。地雷敷地対の兄弟や地雷製作に従事する男の娘、地雷を食べる巨大トカゲなど、死者と生者との共生がより顕著となり、現実と非現実の柔らかな境界が異界への出入口を自在に広げる。ただ、個々の挿話の完成度は高いけれど、それらが一つの物語として大きな影を落とさない。世界観を広げるあまり、収集が難しいという一点が、今後の課題となるのではないだろうか。

 小さな「挿話」という個人が集合してある形態を形成する。物語の中心に据えられる「家族」は最小限の共同体としてのモデルである。登場人物のそれぞれが集団のうちに生きている。地雷と一人で戦うヒロインの女(宮島千栄)がすべての登場人物と各国語で「だるまさんがころんだ」を遊ぶ。あらゆる種類の人間の共生という可能性を追うこの物語は、今失われつつある人間性の回復を眼中においてはいないか。

 思えば、無差別に不特定の人間を破壊する「地雷」と「通り魔殺人」を重ねた意図もそこにあった。作家の技法が彼の思想を体現するならば、まさに「創作」という冒険を通じて最小限の「劇団」単位から世界へ向けて発信されるメッセージが、ここにはある。(後藤隆基/2004.08.15 )