◎現在と昭和(?)が交錯する“大人の童話”
スタントマン事務所「ドタンバ」の若き星である二風谷(にぶや)。幼少時から二風谷とは仲ふかく、自衛隊員として赴任しているムサンナ州から帰国する七々雄(ななお)。七々雄の姉でパーラー<マリー・ゴールド>の華である冴(さえ)。弟思いの冴が、二風谷に七々雄の身代わり(スタント)を依頼し、なんとかその期待に応えようとする二風谷・・・というのが、複雑なストーリーのおおまかな導入部です。
第一幕の序盤が終わるころ、舞台に巨大なアクリルの箱(スタント事務所が請け負った縄抜け・脱出のマジックで使用したもの)が登場。そのマジックで脱出を果たせずに行方不明となったスタントウーマン“ララ”を、いまでも思い続ける伝説のスタントマン“荒巻シャケ”。彼女を思うあまり、その箱のなかで塩とともに埋もれている「新巻鮭」(荒巻が本当に鮭のレプリカを頭につけている)が姿を現して「塩の中から、ゴメンナサイ」のひとことに、場内は拍手喝采でした。単に笑いをとれる役者ということでいえば、小劇団のなかにもたくさんいるでしょうが、登場しただけで拍手喝采を沸き起こせるというのは、唐十郎ならではの貫禄ですね。
ムサンナ州から帰国した自衛隊員という設定が、2005年の現在をなんとかつなぎとめていますが、舞台のセットやBGM(シャンソンや「桃色吐息」)をはじめ全体の雰囲気としては「昭和の日本」が舞台といっても過言ではありません。最近の若手芸人がテレビで繰り出すような“いまっぽい”笑いとも無縁です。30代前半の評者にとっては、幼かった頃の情景をかろうじて思い起こさせるノスタルジックな舞台でしたが、ハタチ前後の観客には違和感があったかもしれません。
最近の小劇団の芝居をみていてなんとなく気にかけていたことが、今回の唐十郎の芝居をみてはっきりとしてきました。家庭や職場といった半径5メートルくらいの身辺で起こる日常的な出来事に題材を求めがちな前者に対し、時間的・空間的に広がりをみせて非日常的なドラマを提示しつづける後者。また、スマートで洗練されていてニヒリスティックともいえる人物設定と演出スタイルが多い前者に対し、愚直で粗野で直情径行な人物設定と演出スタイルを貫きつづける後者。
いまに限らず、昔から唐十郎の芝居はほかと比べて独特なのだともいえるでしょう。そもそも、両者のアプローチは単に芝居に求めるものの違いというふうに割り切るだけのものかもしれません。ただ、唐十郎的な表現者が新たに登場していないように見受けられる現在の状況は、個人的には寂しいということを再認識しました。
速射砲のごとく繰り出される長ゼリフに加え、終盤では二谷風、七々雄、冴のほか、七々雄の上官の匠(たくみ)や墨師の娘の小谷の感情が複雑に交錯するため、話の筋がやや難解になっていきますが、セリフの展開に合わせて照明と音響が小刻みに切り替えられていく演出は圧巻でした。ラストで、「ドタンバ」には戻らずに一人で骨拾いの仕事に行くという二風谷が、文字どおり「劇場のそと」へ飛び出してこちらを振り返り、終幕になります。
アンデルセンの「鉛の兵隊」を知らずに公演に出向いたのですが、さほど大きな支障はなかったと思います。唐十郎流の“大人の童話”として堪能できること請け合いです(元の童話を知っていれば「錫のスプーン」とか「片足の兵隊」といった引用が楽しめるようですが)。なお、季刊の文芸誌『en-taxi』(扶桑社)の第9号に、唐版「鉛の兵隊」の文庫本がおまけとして付属しています。
二幕構成で、幕間の10分を含めて2時間あまり。おそらく状況劇場の時代から足を運んでいるとおぼしき年配客から、唐十郎の孫の世代の小学生!(関係者の親類か?)まで、老若男女およそ400人が花園神社に詰めかけました。
新緑も心躍らすテントかな
(吉田ユタカ 2005.4.30)
[公演予定]
大阪公演(4月15-17日 大阪城公園・太陽の広場)
神戸公演(4月23日 湊川公園)
東京公演(4月30日-5月1日 新宿・花園神社)
(5月7-8日、5月14-15日、6月18-19日 西新宿原っぱ)
(6月10-12日 雑司ヶ谷・鬼子母神)
水戸公演(5月20-22日 水戸芸術館広場)
豊田公演(6月4-5日 挙母神社)