うずめ劇場「ねずみ狩り」

 「福岡演劇の今」(薙野信喜)に、「最初の男女ふたりによるねずみ狩り、そしてラストの男女ふたりがねずみとして狩られる、そこはおもしろいのに、そのあいだに長々と続けられるゲーム―男女が身につけたものを捨てていく―が決まった結末に向かって一直線で、単調でつまらない。〈略〉演出も俳優も結末を当然と受け止め、〈略〉スケジュールどおりに破綻なく進めることしか考えていないためだ」という言葉をみつけた。東京シアターXのラクを見た私もまったく同じことを思った。


 作者はドイツのペーター・トゥリーニ。1972年の作という。まったく単純明快な設定、単純明快そして力強いプロット。ところはゴミ捨て場なのだから劇場さえ選べば装置も不要、ただ役者の力量だけが問われるはずの舞台だ。何よりその、“すべてを捨てる”という作者の選択が素晴らしい。口で言うのは簡単だがそれを選ぶ=書くことはほんとの思想になっていなければできることではない。観るものにそれができるか!?迫ってくる厳しさだ。ふっと昔ニューヨークのOff Offでみた「Death List」を思い出した。ギャベージ缶もそこらに転がっていそうな汚いビルの上階。黒人がひとり、銃の手入れをしながら殺してやりたい人間の名前を延々と挙げていく。そして、私たちの入ってきた扉が突如蹴破られて弾丸の音。姿はない。黒人は殺されていた。作・演出は誰だったか記憶にないが、私は実際客席で飛び上がっていた。

  男女ふたりの俳優はよく演った、と思う。生まれたままの姿で舞台に立つことは想像するよりずっとずっと大変なことにちがいない。その俳優たちを、上記評の指摘するとおり演出※は生かしきれなかった。白いビニ―ルのゴミ収集袋で埋め尽くされた舞台。覆い被さっていた大きな布地がさっと宙に舞い上がり車の座席が現れる――技術のある、見事な開幕といえよう。が、それはそれだけ。男の手帳?にこれまで交渉を持った何人かの女の名も記されていたと言っていたが、なぜ二人は他の相手とちがって互いにあらゆるものを捨てることができたか、それを演出は見逃した。二人は次第に脱ぎ去り捨て去り一糸纏わぬ姿になっていく。が、Wonderland by KITAZIMA takasiにも「交合の仕草をまねたり」「舞台を飛び跳ね」たりするだけ、「肝心の男性のシンボルに生気がなかった」とあったが、なぜ二人は互いに魅せられないのか。なぜ最高の美となっていかないのか。見るものの感性が引っくり返せるかどうか、舞台はこの一点にかかっていたはずである。

 終幕のライフル持った男二人も同様。戯曲にそうあったからそうやらせたというだけに見えた。「Death List」の黒々と口を開けたドア、得体の知れない恐怖は、創り手の感受をよく伝える一つの方法であった。さっきまでそこにいた自分は殺す側かも知れない。同時に、いつ殺されるか解らない恐怖だ。「ねずみ狩り」の演出にとって現代の恐怖は何だったのだろう。演出は「ねずみ」ではないのか?

  なぜ日本にこういう素晴らしい戯曲が生まれないのか。口惜しまぎれに思わず演出に毒づいたが、いい作品を日本に紹介してくれたことに感謝しないわけにいかない。いつかぜひ、鼠の棲みつきそうな小屋で、二人に惚れ惚れ見惚れるような再演を!と望みたい。     (2005.04.17)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください