関西芸術座 『心と意志』

◎新劇は死んでいない 新劇の舞台を観たのは数えるほどしかない。中・高校生の頃の学校観賞で一度ずつ観たのと、大学3回生の頃に教師からチケットをもらって観た計3回しかない。理由は単純と言えば単純で、60年代以降の現代演劇がい … “関西芸術座 『心と意志』” の続きを読む

◎新劇は死んでいない

新劇の舞台を観たのは数えるほどしかない。中・高校生の頃の学校観賞で一度ずつ観たのと、大学3回生の頃に教師からチケットをもらって観た計3回しかない。理由は単純と言えば単純で、60年代以降の現代演劇がいかに衝撃的で前衛的だったかを専門に学んできたため、これまで新劇を忌避してきただけである。しかし、今後劇評を書いていく上でそういった固定観念は自らの守備範囲を狭めるだけではないかと感じる所もあって、ちょうど公演を予定していた「関西芸術座」スタジオ公演『心と意志』(関芸スタジオ)に焦点を合わせたというわけである。また、近年その活躍が目覚しい坂手洋二(燐光群主宰)の作品を上演するということも足を運ばせる動機になったと言える。


小劇場出身の作家作品を新劇団が上演する代表的な例として、数十年前から文学座のアトリエ公演が有名である。後ほどまた触れるが、現在では新劇と小劇場演劇の明確な差がなくなりつつあり、両方をひっくるめた「現代演劇」という名称が用いられている。『心と意志』の初演(2003年)自体、地人会のために書かれた作品であり、小劇場と新劇の垣根が緩やかなものになって久しくなった今では、新劇に作品を提供することに抵抗がなくなっている。かつて大笹吉雄氏が著書『現代演劇の森』
(講談社 1993)で、新劇団の上演する新作が減少傾向にあることから、新劇は滅ぶのではと危惧していたが、新劇専門の作家こそ現れていないものの新作上演に困る状況にはなっていないようである。

妹尾河童原作の『少年H』を巡演作品に持つ1957年設立の関西芸術座が、坂手洋二の作品をどのように上演するのかに注目して観たのだが、結果的に4度目の新劇体験は、やはり小劇場演劇との違いが存在することを改めて知る良い機会になった。それは演技の違いに終始する。

昭和天皇の葬儀である「大喪の儀」が行われ、世間が様々なイベントを自粛した1989年2月24日のある一家を中心に進められるこの物語を、関西芸術座は至極まっとうに上演した。新劇の俳優が客演する舞台もあるように、燐光群の俳優の演技は割と新劇的な、正統な演技スタイルに思われる。そのため私は、この舞台を観る前に燐光群のような舞台状況を想像していた。しかし、先に触れたように舞台美術を筆頭にして、戯曲に指定されたことを忠実に守った舞台であったが、新劇ならではの演技を目にした時、そこに燐光群を始めとする小劇場の演技との違いを感じずにはいられなかったのである。

この舞台で演じる俳優達に最も共通しているたのは、台詞に力を込める点である。それは畢竟、感情を込めて台詞を大事に喋るということに尽きる。作中の例を挙げれば、兄の自殺は自分が干渉しすぎたためではないかと後悔の念に悩まされている妻が夫に、言いにくい心情をそれでも告白する切羽詰った状況のシーンがある。そこでの女優のしぐさに注目したい。まず頭を下げて相手から目を反らす、そして背を向ける。その場に居るのがいたたまれないほど感情が高まると、相手から離れる。この一連の動作に、台詞に合わせた感情をのせて喋る、そういう演技が行われる。

つまり、演技の主眼は台詞の内容を的確に伝えるための台詞術であり動作なのである。それはかつて小劇場演劇が新劇を批判したもっとも根幹の部分である。台詞は意志伝達機能に優れた高度なものだが、あくまでも身体に根ざしたものであり、身体に従属した表現行為の一つでしかないという発想が、60年代以降の小劇場演劇の思想を支えた。そういう意味では、身体そのものの状態が何事かを語ることを目指した演技スタイルではない。「心」(人物の内面・感情)を成立させ、支えようとする「意志」(そうさせる十分な動機)がこの舞台の俳優に通低している。

では、「現代演劇」と一括りにされながらそういう新劇が残っているのはなぜだろうか。小劇場演劇が90年代以降、日常風景から紡ぎだされる濃密なドラマを描く舞台が多くなり、新劇に近しくなったことからだと言われる。表層を見れば確かにそう言えなくもない。坂手洋二の作品もかなりドラマ性を重視したリアルな作品だからである。もう一つそれに関連して、演劇自体がテレビ化したことも挙げられる。この2つの点に共通するのは、少なからずメディアを意識しているという事である。メディアにおける演技の基本は、この舞台で観られたようなもので通用するし、それこそが演技の上手い下手の基準にもなり、決して否定されるべきものではない。しかしそれはあくまでも映像の世界の話であって、演劇の場合はまた別問題である。

そういった中で今、演劇に拘る、もしくは演劇だからこそできる作品を志向する劇団や演劇人が絶対数として減少しているような気がする。ベクトルは純粋に演劇へと向かず、テレビや映画へ進出する取っ掛かりにしか考えられていないたため、自然とメディアの副産物のようなものが昨今の小劇場で跋扈する事態になってはいまいか。反対に、台詞劇でないコンテンポラリーダンスが舞台芸術のある種の象徴のように重宝がられるのは舞台を独自のものにしようとする過剰な「意志」のような気もする。以上が新劇と小劇場について思うことである。

かつて演劇内で明確な「意志」を持ち、演劇が文学に従事することから解き放とうと闘争した時代があった。それが今度は文学からメディアに変わり、演劇内部からも積極的にそこへコミットして下女たるものになっても良いと願う空気がある。新劇と小劇場演劇が安易に一緒のものとなって良いのかを再び考えなければならない。
(5月12日 関芸スタジオ ソワレ)

(藤原央登・現在形の批評

[上演記録]
関西芸術座 『心と意志』
関芸スタジオ(5月10日-14日)

【作】
坂手洋二

【演出】
松本昇三

【出演】
多々納斉
梅田千絵
紫翠聖
柳澤美由紀
福寿淳
神宇知薫
境谷純
和泉敬子

【スタッフ】
美術:野崎みどり
照明:山原英之
音響:廣瀬義昭
舞台監督:辻村孝厚
制作:柾木年子・宮崎恵美子・鴻池央子
宣伝美術:高島麻衣

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