ク・ナウカ 「トリスタンとイゾルデ」

◎ク・ナウカの<様式美>にみられる根源的なもの  田中綾乃(東京女子大学非常勤講師)  「わたしは今もなおあの『トリスタン』と同じように危険な魅惑力をもち、同じように戦慄をさそって、しかも甘美な無限性をもつ作品を、見いだ … “ク・ナウカ 「トリスタンとイゾルデ」” の続きを読む

◎ク・ナウカの<様式美>にみられる根源的なもの
 田中綾乃(東京女子大学非常勤講師)

 「わたしは今もなおあの『トリスタン』と同じように危険な魅惑力をもち、同じように戦慄をさそって、しかも甘美な無限性をもつ作品を、見いだすことはできない-あらゆる芸術の中にそれを探したが見いだすことはできない」 ニーチェ『この人をみよ』(手塚富雄訳、岩波文庫 p60)より

 ク・ナウカの魅力とは、一体何なのだろう・・・? 2001年の『トリスタンとイゾルデ』(2001年10月12日-18日、青山円形劇場)を観終わったあと、すぐに浮かび上がった私の疑問はそれであった。と言うのも、長年、ク・ナウカに魅了されてきた私だったが、2001年の『トリスタンとイゾルデ』は、まったくもって魅力を感じることができなかったからである。それから5年経ち、今年の夏、再び『トリスタンとイゾルデ』が上野の杜に蘇った。以下、初演と再演を比較しながら、ク・ナウカの魅力を考えていきたい。








【ワーグナーに囚われた初演】
 『トリスタンとイゾルデ』は、言わずと知れたワーグナーの楽劇である。19世紀末の哲学者ニーチェが「この作品こそ、まったくワーグナー芸術の極致である」(ibid.)と絶賛したのは有名だ。このワーグナーの偉大な作品を <演劇> として上演することに、初演当時、ク・ナウカの演出家である宮城聰は、並々ならぬ意欲を燃やしていた。宮城は、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の台本を使いながらも、ワーグナーの音楽的要素は一切排除し、ク・ナウカ独自の様式として『トリスタンとイゾルデ』の物語を現出することを目論見としていた。
 『トリスタンとイゾルデ』は、もともとはヨーロッパの中世から伝わる伝説の物語である。この物語をワーグナーのオペラでは、三幕構成にしている。物語のテーマは、一言で言えば、「禁断の愛の物語」とでも言るであろうか。簡単にストーリーを紹介すると次のようになる。

 アイルランドの王女イゾルデは、コーンウォル(イングランド)のマルケ王の甥のトリスタンに許嫁を殺されるが、恋人の敵であるトリスタンにひかれてしまう。そして、トリスタンもまた叔父マルケ王の妻と定められたイゾルデを愛してしまう。二人は禁断の愛であるにもかかわらず、深く愛しあっていく・・・。
 第一幕は、マルケ王と政略結婚をさせられるイゾルデが、使者としてやってきたトリスタンと船の上で再会する場面である。年老いたマルケ王に嫁ぐことを拒み、またトリスタンに好意を抱いているイゾルデは、トリスタンとともに毒杯をあおいで死のうとする。だが、毒杯は侍女によって媚薬にすり替えられていた。二人は盲目の恋に落ちることになる。
 第二幕、マルケ王の目を盗み、夜の逢瀬を楽しむトリスタンとイゾルデ。だが、トリスタンの親友メロートの裏切りにより、二人の逢瀬が王に暴露され、トリスタンは刺されてしまう。続いて、第三幕は、故郷で生死をさまよいながら、イゾルデを待つトリスタン。イゾルデはトリスタンのもとに駆けつけるが、時すでに遅し。トリスタンの死を目にし、イゾルデもトリスタンへの愛の歌を歌いながらトリスタンのあとを追う。

 基本的には、ク・ナウカもワーグナーのストーリーに則っている。だが、宮城は、「ワーグナー自身の音楽から解き放つこと」が『トリスタンとイゾルデ』の前提であると述べる。そして初演時のチラシには次のように描かれていた。「疑いなく19世紀芸術最高の結晶であるワーグナー の『トリスタンとイゾルデ』が、彼自身の音楽から解き放たれるとき・・・<中略>・・・演技が音楽に従属する「音楽劇」はいまク・ナウカによって蹴散らされ、身体の最高度の集中がぶつかりあい火花を散らす21世紀の「秘曲」がここに誕生したのだ」
 このように、果敢にもワーグナーの大作に挑んだ初演時であったが、結論を先に言えば、初演はカタルシスも与えられなければ、ディオニュソス的なものも見いだせない、単にストーリーを追っただけの凡庸な作品であったと言わざるをえない。その理由は、創り手も観客もあまりにもワーグナーを意識しすぎたからではないかと考えられる。先述したように『トリスタンとイゾルデ』は、ヨーロッパの中世から存在する伝説の物語である。伝説物語として上演するならともかく、”ワーグナーの音楽” ということにあまりにも囚われすぎてしまった。その結果、空回りした作品となってしまった。

 このことをもう少し具体的に示すとすれば、それは『トリスタンとイゾルデ』で導入した現代音楽家の原田敬子の音楽を指摘することができる。宮城が述べる「ワーグナー自身の音楽から解き放つ」ための方法として、ク・ナウカが取り入れた方策の一つは、原田の作曲した現代音楽を起用することであった。
 通常、ク・ナウカの劇的手法は、(人形浄瑠璃を想定するとわかりやすいのだが)一人のキャラクターを演ずるムーバーとそのキャラクターの台詞を語るスピーカーに分かれ(二人一役)、音楽は生演奏のパーカッションを取り入れることで、ムーバー、スピーカー、音楽(パーカッション)の三位一体によって演劇空間を創り上げる、と言うのがク・ナウカの基本スタイルである。

 だが、『トリスタンとイゾルデ』では、この基本スタイルに加え、現代音楽の導入を試みたのである。ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』が、調性音楽の極限まで行き着いた結果、無調音楽の先駆けと言われることを考えると、ワーグナーに対して現代音楽で挑みたいという試みはわからなくはない。

 しかし、このことは、一見 “ワーグナーの音楽” からは解放されているようにみえたとしても、当然ながら音楽そのものから解放されたとみなすことはできない。原田の音楽に頼るのではなく、ク・ナウカがみせなければならなかったのは、もっと<劇的>なるもの、すなわち、ムーバーやスピーカーの身体、そして力強くパーカッションを奏でる役者の身体そのものをみせるべきであった。このク・ナウカの本来の手法が生かされなかったのが、初演時のクオリティーを低めることになってしまった、と考えられる。

【再演にみる「悲劇」の誕生】
 さて、初演時から5年の歳月が過ぎ、今年の夏、ク・ナウカの『トリスタンとイゾルデ』は再演された。場所は、東京国立博物館の庭園に設置された特設舞台である。ク・ナウカ得意の野外劇である。

 再演は、若干の演出プランの変更を除けば、ほとんど初演と同じであるにもかかわらず、初演時と印象がずいぶん異なるのは、やはり「上野の杜」という特別な空間に存しているからであろう。冒頭、客席をこうこうと照らしていたライトが消え、暗がりの中、舞台奥にかすかに浮かぶ日本庭園を借景に、水夫たちによる「舟唄」が聞こえてくる。ワーグナーの第一幕も水夫の曲から始まるが、ここでの唄は「えんやさ、えんやさ・・・」と始まり、「水夫」というよりは、「船の男」たちの唄である。スピーカーたちは、声の強弱をうまく使いながら、伴奏なしに声のみで「舟唄」を力強く、そして陽気に謡いあげていく。「舟唄」は、初演時にも同じ箇所で謡われたが、劇場と違い野外の心地よい風に吹かれ、「舟唄」を聴いていると、観客も同じく船の上にいるような心地になる。

 そこへ、琉球の民族衣裳を纏ったイゾルデが現れる。この登場から、アイルランドとコーンウォルの関係が、沖縄と日本に置き換えられていることがわかる。この置き換えも、ク・ナウカにはよくある手法である。代表作の一つである『王女メディア』も、メディアの故郷コルキスを朝鮮半島にみたて、ギリシャを明治時代の日本に置き換えることで、ポストコロニアル的視点を取り入れた作品となった。今回もまた、『トリスタンとイゾルデ』の舞台を琉球と日本、さらにはアイヌまで組み入れて、明治時代の内国植民地問題に絡めている。

 だが、今回の場合、『王女メディア』において見いだされたような “象徴的” な意味を読み込むことはできない。むしろ、初演から再演へと容易に設定変更がなされている事実を考えれば、設定を置き換えることは、いわば一つのアイディアにすぎず、何ら本質的なことを含んでいるわけではない。
 
 たとえば、初演では、沖縄(琉球)出身のイゾルデが、日本の王(昭和天皇)であるマルケに嫁ぐという設定であったが、今回では、トリスタンの故郷をアイヌにすることで、時代も明治時代へと変わり、琉球-日本-アイヌというきわめてわかりやすい図式化を行った。それに伴い、初演のマルケ王は昭和天皇を、そしてトリスタンは三島由紀夫をイメージする演出が、再演では、トリスタンをアイヌ出身へ、マルケ王も明治天皇へと変更されている。つまり、マルケ王は明治天皇でも昭和天皇でもどちらでも構わないのであって、ここでの置き換えは、単なる “記号的” な意味しか持ち得ていない。

 しかし、逆に言えば、これこそがク・ナウカ演劇なのだ、とも言る。ギリシャ悲劇であれ、泉鏡花作品であれ、ワーグナー作品であれ、ク・ナウカにとっては「悲劇」を「祝祭」へと昇華させることができれば、それで成功なのである。その際、作品のテーマや設定、解釈という <理屈> は二の次である。

 「悲劇」を「祝祭」へと昇華すること。この手段として、ク・ナウカの洗練された技術とムーバー/スピーカーという言動分離様式がきわめて有効な装置として働く。そして、その様式をいかんなく発揮できる劇的空間も重要だ。今回は、野外というライブ的な空間も重なり、これらの “条件” が見事にマッチした。

 もちろん、再演でも、原田の音楽は初演と同じく用いられている。だが、再演では、野外という物理的な環境のためか、あるいは、演出なのかは定かではないが、原田の音楽は生演奏ではなく、録音したものが使われた。初演時は、生演奏であったため、俳優たちの身体が動く傍らで、ピアノやヴァイオリンの不協和音が奏でられると、たちまち劇空間が分割してしまっていた(それだけ、原田の音楽が強い存在感を示していた、ということもできるが)。

 再演では、この原田の音楽色はずいぶんと弱まり、そのぶん、ク・ナウカ本来のパーカッションやスピーカーたちの声、音色が生き生きと、そして深く上野の杜に響きわたることになった。冒頭の「舟唄」はもちろん、今回、スピーカーたちは、場面、場面の状況を、息づかいや間、スピードによって実によく表していた。声や音だけで、ここまで情景の奥行きを語れるようになったのは、ひとえにク・ナウカ俳優陣の訓練の賜であろう。

 初演は、何かとワーグナーと比較してしまうことが多かったものの、今回はこのスピーカーたちの魅力ある<声の力>によって、ワーグナーを意識せずに観ることができたのが功を奏した。

 さらに、黒衣を纏ったスピーカー一人ひとりの身体は、彩り豊かな声を発する傍ら、その身体は、ひっそりと周囲の杜の闇と融合していた。それゆえ、舞台を取り囲む闇から声だけが響いてくるような錯覚をうけるのも効果的だ。

 これに対して、ムーバーの身体は、ライトで照らされた舞台の上に、抑制された身体を不気味に浮かび上がらせる。だが、それは、あるときはみずみずしく、あるときは機械のように、またあるときは獣のように動き回る。いや、それは”自律的な動き”というよりも、”動かされている” と言う表現のほうが正しいのかもしれない。あたかも闇からの声によって操られるかのように、我々の目前に機械的だが艶めかし身体を晒すのである。

 とくに、第二幕のトリスタンとイゾルデの逢瀬の場面において晒された二つの身体は、印象深い。「トリスタン」、「イゾルデ」とお互いの名を呼びながらも、無表情のまま獣のように抱き合った二人の姿にぞっとする。エロスの奥に垣間見えるタナトスへの欲望。この二人の物語がエロスからタナトスへと向かう道行きであることを暗示している場面である。

 さて、このエロスからタナトスへの道程が、単なる「悲劇」ではなく「祝祭」として迎えられるためには、やはり第三幕ラストのイゾルデの死をどう描出するかにかかっている。
ワーグナーでは、イゾルデが「愛の歌」を歌いながら昇天していくさまを、ワーグナーの壮大な音楽とともに、気高さ、高揚感を鼓舞したまま幕が降りる。否応なしに音楽の力を圧巻するラストである。それに対して、ク・ナウカのイゾルデの死は恐ろしいほど静寂だ。

 イゾルデ役のスピーカー本多が、トリスタンへの「愛の歌」を静かにやさしく語りかける。それまで、トリスタンの亡骸に伏していたイゾルデのムーバー美加里がゆっくりと起きあがり、天を仰ぎながら舞台上を廻る。

 初演は、この終焉がなんとも白々しく、ワーグナーの「愛の歌」の歌詞だけが浮いてしまい幻滅した記憶がある。だが、今回は、イゾルデが起きあがるとともに、周囲の空気が一瞬にして変わる。これは、美加里という俳優の「技」としかいいようのないものであるが、まるでイゾルデの魂を迎えいれるかのような静寂さである。静寂のただ中で、イゾルデは、昇天するというよりは、その静寂に同化する。すっぽりと闇に吸い込まれていくようなはかなさ、あわれさをイゾルデの身体はもちあわせている。パーカッションも鳴らず、またスピーカーが高らかに台詞を語るわけでもない。ダイナミズムではなく、ただただ静寂なままでのラストである。しかし、なぜか観たあとに不思議と余韻を残す。

 舞台奥では、日本庭園の池に咲いていた蓮の花が、風になびいてかすかにゆれていた。まるでトリスタンとイゾルデ二人のタナトスへの旅路をやさしく見送っているかのように・・・。甘美なラストであった。

 蓮の花のゆらぎは、野外ならではの醍醐味である。と同時に、このゆらぎは、偶然と知りつつも、あまりにも絶妙なタイミングに、おもわず必然なのではないかと思わせるほどだ。いずれにしろ、このような偶然も相俟って、ようやくク・ナウカの『トリスタンとイゾルデ』は、「悲劇」として成立したのである。

 今回の再演を観て、私が再認識したこと、それはやはりク・ナウカにおける圧倒的な <様式美> である。通常、現代演劇に求められるものは、様式(形式)ではなく、内容であろう。だが、ク・ナウカの作品を観ると、いつも演劇のプリミティブ性に立ち帰る経験をする。それは純粋にスピーカーが語る <声の力> や <息づかい> だったり、言語から分離されたムーバーの <生の身体> に対峙するときである。

 ク・ナウカの様式は、型ではあるが、単なる型ではない。それが型(形)となるためには、身体訓練によって研ぎ澄まされ、純化された身体でなければならない。そのような身体を通して体現された動き、語りだけが美しいフォルムを保持する。この美しさとは、舞台芸術の美の中では、きわめて原始的なものであると考えられる。すなわち、単純に我々の視覚、聴覚を通してすべての五官に歓びをもたらすものである。だが、この歓びは、ひとえに <生> への歓びでもある。純化されたフォルムの中に、艶めかしさや生々しさを感じることができるとき、「悲劇」は「祝祭」へと昇華される。

 初演のときは、おそらくこの感覚への歓びを甘受するまでには至らなかった。だが、再演は、俳優たちの弛みない身体訓練により、スピーカー、ムーバー、パーカッションそれぞれのナマなリアリティを「祝祭」へと転化した。

 さらに、それを可能にする上野の杜の空間-ク・ナウカ作品の成功の多くは、大きく空間性に依存していると言っても過言ではない。ク・ナウカにとって空間は、プリミティブなものを <劇的> なるものにするために、一番の要めとなる。それゆえ、いつも <劇的> なる空間を求めて、さまよう劇団であった。

 前述したように、今回の庭園では、自然なものであれ、人為的なものであれ、あらゆる偶然性を味方につけた。虫の音、木々の薫り、微風、雨、そして花火やヘリコプターの音までも、『トリスタンとイゾルデ』のためにあるかのように。野外劇もきわめて原始的なあり方に近く、それゆえク・ナウカの芝居には、やはり野外劇がよく似合う。様々なスタイルの現代劇がある中で、観ている者の五感をフルに働かせる、そのような<ナマの>観劇体験ができる唯一の劇団なのである。

 現代の日本演劇において、主流は不条理劇や脱物語主義であり、純粋な「悲劇」の物語を「祝祭」にまで高めることのできる劇団は数少ない。そのことを考えると、はからずもク・ナウカがこの16年、地道に反復してきた<様式美>の追求は、現代の混迷な時代において、本来の「悲劇」のあり方を呈示するものとして貴重である。

 ただ、残念ながら、ク・ナウカの活動は、今年度をもってしばらく休止に入るとのうわさを耳にした。ここ数年、新たな実験劇も試み、劇団としても野心的に公演を行っていたので、そうだとすれば、寂しい限りだ。

 ふりかえってみれば、ク・ナウカは、現代演劇において忘却されたかに思われる <様式美> というものをきわめて独創的な形で復権させてきた。ク・ナウカが我々に与えてくれた無意識的カタルシス。その根源は、このようなところにあるのだろうと思われる。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第6号、9月6日発行。購読は登録ページから)

【筆者紹介】
田中綾乃(たなかあやの)
 愛知県名古屋市生まれ。東京女子大学文理学部哲学科卒業、同大学院修士課程修了。現在、同大学院博士課程在籍、同大学非常勤講師。専門は、カント哲学、現代演劇論。哲学研究と観劇という二足の草鞋を続行中。

【公演記録】
ク・ナウカ 『トリスタンとイゾルデ』
東京国立博物館 庭園 特設舞台(2006年7月24日-30日)
作: リヒャルト・ワーグナー
台本・演出: 宮城聰
作曲: 原田敬子

【CAST】
         mover        speaker
トリスタン    大高浩一      阿部一徳
イゾルデ     美加理       本多麻紀
ブランゲーネ   中村優子      鈴木陽代
クルヴェナル   石川正義      大内米治
マルケ      塩谷典義      吉植荘一郎
メロート     加藤幸夫      司田由幸
牧童       諏訪智美      池田真紀子

コロス      片岡佐知子・桜内結う・森山冬子・山縣昌雄

【STAFF】
演奏: 稲垣聡(pf) 中川賢一(pf) 加藤訓子(perc) 山田百子(vn)
録音: コジマ録音
演奏助手: 田中やよい
照明: 大迫浩二
舞台設計: 田中友章
美術原案: 木津潤平
衣裳: 高橋佳代
音響: AZTEC(水村良・千田友美恵)
ヘアメイク: 梶田京子
舞台監督: 岩崎健一郎
宣伝美術: 野口美奈子
宣伝写真: PASCAL LAFAY
WEBデザイン: 井上竜介
制作: 大石多佳子


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