ころがす「1988年6月30日、あるいはバイエル」(岸井大輔作・演出)

◎あやふやな身体のための演劇入門(バイエル)  小澤英実  劇場という「何もない空間」と、そこで行われる公演の関係。それは例えば、劇場が器・容れ物で、公演が容れ物の中身というふうにたとえられる。そのとき劇場は演劇と日常の … “ころがす「1988年6月30日、あるいはバイエル」(岸井大輔作・演出)” の続きを読む

◎あやふやな身体のための演劇入門(バイエル)
 小澤英実

 劇場という「何もない空間」と、そこで行われる公演の関係。それは例えば、劇場が器・容れ物で、公演が容れ物の中身というふうにたとえられる。そのとき劇場は演劇と日常の境界線になる。岸井大輔がここ三年ほど断続的に続けてきた「ポタライブ」シリーズは、様々な現実の街中を散策しながら観劇するというユニークな上演スタイルを特徴とする。その「ポタライブ」が寺山修司の「市街劇」の意匠を今に引き継ぎつつそれと異なるのは、岸井が舞台空間を劇場から現実の街へと解き放つとき、その主眼が、寺山のように「虚構の烙印を付された演劇を、歴史と同じ高みに押し上げること」ではなく、あくまで固有の場所性を備えた具体的な空間に対する異化、「場の劇化」に向けられていることだ。

 「ポタライブ」の上演に際し、岸井は対象とする街を歩き回り、住人へインタビュー調査を行うといった文化人類学的ともいえる綿密な下調べをもとに公演ルートを決定する。案内人の語る街の歴史に耳を傾けながら観客が歩く道筋、それがポタライブにある唯一のプロットだ。現実の街の風景のなかに、ピアニカを弾きながら歩く少女や、雑踏のなかからふいに視界に割り込む踊り手たち。演劇というにはあまりにもささやかな非日常的な断片がサブリミナルに挿入されていく。演じる役者たちは、観客たちがスナップ写真のように街の風景を切り取って観るためのフレームとして機能する。寺山の市街劇では、具体的な空間は必要とされてはおらず、森山直人はそれをサイバースペースの先取と指摘するが(注1)、言い換えるなら「ポタライブ」では、公演を容れ物に逆転させることで、場を演劇の中身として包み込む。そのとき、容器と中身とを隔てる境界、あるいは日常と演劇を隔てる境界は、役者たちの身体が担うことにある。

 で、こういう上演を続けてきた岸井が、再び劇場のなかでひとり芝居をやる(注2)というのに関心があった。その公演の概要はいたってシンプルだ。「1988年の6月30日、あなたは何をしていたか」について、一般のひとびとに対し、ひとりあたり10時間のインタビュー取材をした記録を素材に、劇中には性別や年代の異なる12名が登場する。取材の再現が淡々と重ねられ、その全員をひょっとこ乱舞の伊東沙保がひとりで演じ分けるというもの。舞台装置もシンプルで、後方に大きなスクリーン、椅子がひとつ。客席の前にタワー型のパソコンが置かれ、女の子が観客に背を向けて座り、スクリーンの白の画面に黒字で映し出されるインタビュアーの台詞をキー操作で送っていく。伊東はそれに対話していきながら、様々なひとびとが1988年6月30日の記憶が次第に甦ってくる過程を再生する。

 「忘れることもまた愛することだ」と寺山修司は言ったけれども、それでは忘れていたこと、あるいは忘れていることすら忘れているものをもういちど思い出すのはどんな行為なのだろう? 思い出した瞬間、そこになにが現れるのだろう-岸井大輔がそこにみるのは、演劇的な身体である。この芝居について岸井は、「演技メソッドである記憶の再生(リアルにある瞬間を知覚・想起している身体は見るに足る、というようなもの)を、俳優でない人がしたらどうなるか」という「記憶の再生」についての実験から着想を得たと述べている。

 ここで再び「容れ物」と「中身」という例に戻って、極めて図式的な言い方をすれば、人間の身体とは「忘れられている過去」という「中身」が充溢した「容れ物」である。忘れられた過去は、その器としての身体のなかに蓄積され埋もれている。あやふやな記憶の断層を掘り起こし、それが思い出される瞬間、「記憶=中身」は身体という境界の表層に浮かび上がる。記憶が堰を切ったようにあふれ出し、話すのに夢中でふと我を忘れる瞬間にだけ晒し出される無防備な身体。そのときあふれ出る記憶は容れ物に逆転し、再生に没入する身体は演劇の中身になる。この芝居では、演劇を劇場から街へと解き放った結果、その境界線として役者の身体が意識化される「ポタライブ」と同じ問題意識が、ひとりの役者の身体の次元で追求されている。ここでの焦点は「中身」を外に放擲することによって現れてくる身体という場の劇化にある。

 しかし実際の公演では、「俳優でない人たちの記憶の再生を、俳優が再現する」という二重の構造になっている。記憶が甦った瞬間の日常の身体に私たちが見いだす偶発的な演劇性が、俳優の「演技メソッドとしての記憶の再生」(つまり役者が演技をするとき、過去の自分の記憶を総動員して、ある感情や経験を表現しようとすること、泣く演技しようとして、まずは自分自身の悲しかった経験を強く意識するというふうに)によって舞台空間によびおろされる。私はそこで、ドキュメンタリーというリアルとフィクションのあいだで宙づりになったジャンルが内に秘めている奇妙な緊張感や、「演劇」や「現前性」というものがそこで捕まえようとされながら逃れていく差延の行程を観たのだった。

 とはいえ、岸井が演劇でしかできないこと、演劇とはなにかについて問い続けている稀有な劇作家/演出家でありながら、その作品に共通して惜しいと思うのは、そこでかたちにされているのが刺激的な問い自体の面白さであって、かたちとなった答えが公演のなかで打ち出されている、あるいは観客たちが探し出せるようなレベルになっていないことだ。「演劇の形式化」を標榜する岸井だが、いまのところ岸井は、自分が用意した形式の観察者的な視点にいるようにみえる。実験のコンセプトがもつ面白さは、素材のまま舞台に載せられ料理しきれていない、あるいは料理しようとする視点がないように思える。現実の街であれ、人々のインタビュー取材であれ、丹念に集められた素材だからこそ、あまり手を加えない料理人のような感じで。

 「バイエル」の印象も、往々にして12人を演じ分ける役者の力量に感嘆するか、見知らぬ人々の次第に似たり寄ったりになってくる自分語り(と演技)を延々と聞かされることに厭きてくるか、1988年6月30日の自分の記憶を想い出す作業に埋没していくか、そのない交ぜのものに堕してしまいがちだ。そのなかで一瞬、暖色のスポットライトのなかで、伊東がしきりに話しながらゆっくりと体を捻り、片手でもう片方の腕を支えながら上昇させていく。一瞬チェルフィッチュの「クーラー」を彷彿とさせもする不思議な動きだ。チェルフィッチュとはちがって、これは武術の動きに由来したものだというが、その演出は岸井が「バイエル」のなかでかいま見せたおぼろげな答えのひとつで(もちろんチェルフィッチュ的な新しさや共通性をよしと言っているのではなくて)、そこにこれからの岸井作品が面白くなっていくための糸口があるように思えた。




(注1) 森山直人「今日の舞台における<ドキュメンタリズム>の傾向について」『ユリイカ』2005年8月号(青土社)の論考に示唆を頂いた。
(注2) 再演。初演は2003年。戯曲は変更されておらず、初演ではインタビュー時の映像を後ろのスクリーンに映し出していたという。
(初出:週刊「マガジン・ワンダーランド」第7号、9月13日発行。購読は登録ページから)

【筆者紹介】
小澤英実(おざわ・えいみ)
1977年生まれ。東京都杉並区在住。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程在籍中。日本学術振興会特別研究員。専門はアメリカ文化論。著書に『現代批評理論のすべて』(共著、新書館)論文に「破壊しに、と彼女は言う―ニブロール的身体のモード」(「ユリイカ 特集:小劇場 」2005年6月号、青土社)など。個人サイト(http://www.geocities.jp/eimiozawa/)

【公演記録】
ころがす作品1「1988年6月30日、あるいはバイエル」
王子小劇場(8月18日-21日)

作 演出:岸井大輔
出演:伊東沙保(ひょっとこ乱舞)

音響:寺田俊彦
操作:八ツ田裕美

舞台監督:吉田慎一
照明:関口裕二(balance,inc.DESIGN)
制作:COLLOL
制作補:柏戸綾 高橋悌 日下田岳史
記録映像:藤田敏正
チラシデザイン:鈴木 順子(PISTOL☆STAR)
WEBデザイン:うさぎ事務所

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