鈴木忠志演出「シラノ・ド・ベルジュラック」「イワーノフ/オイディプス」

鈴木忠志演出「シラノ・ド・ベルジュラック」「イワーノフ/オイディプス」
◎筒井康隆を読むように鈴木忠志を観よ
田口アヤコ(演劇ユニットCOLLOL主宰)

新国立劇場にての鈴木忠志氏演出の3作品連続上演。
16年ぶりの東京公演、ということで、
日本の演劇界をおおきくゆさぶる2006年の一大ニュース、だった
日本人演出家のなかで
これほど世界に認められ、愛された人はほかにはいない、
ケンブリッジ大学刊行の
「20世紀を主導した劇作家、演出家21人」というシリーズに
スタニスラフスキー、ブレヒト、ピーター・ブルックと並んで
アジア人から ただ一人選ばれているらしい。すげえ!!!


新国立劇場「劇的な情念をめぐって」公演チラシまあしかしわたしのまわりでも
ぶわあああっという盛り上がりはなかったのが事実、
口コミで、ひそかに、ひそかに、盛り上がった、
重鎮、の作品に対してどう反応をするか、
若い「演劇人」たちは そりゃあ気を使う、

中劇場でのシラノ・ド・ベルジュラックを11月3日に、
11月10日にイワーノフ/オイディプスを小劇場で観る、
客席、アフタートークでみていたら、
10代から80代まで、
まさに老若男女、
中学生女子から熟年男性までを引き込む
筒井康隆氏の小説作品一連を思い出した。

そうか、
ここにあるのは ねじまがった欲望だ、
まあ、その欲望の大半は 性欲、
俗で、ばかばかしく、おろかで、みっともない 欲望。
ここにいるのは ごくごく普通の人間である。

シラノは幼なじみの年下美少女に恋い焦がれ、
ぐずぐずしているまに かのじょをいきなり出てきた美男にうばわれ
その男の恋文の代筆、というかたちで
ねじまがった恋心を伝えようとする。

イワーノフは困難に立ち向かうのがじぶんの使命である、
と かってに思い込み、
文化や宗教の異なる女と結婚する、という障害をじぶんで設定する、
それがうまくいかなくなると
あたらしい若い娘と あたらしい結婚生活をはじめようと
ねじまがった夢を見る。

オイディプスは神託のことばを信じすぎたというべきか、
だれのせいでもない、はずなのに、
父を殺し、母と交わったじぶんの
ちょっとだけねじまがった欲望に対して、
自らの目をつぶしてつぐなう、という驚くほどおおきな
ねじまがった解決法をとる。

鈴木忠志氏、という演出家を語る時に、
利賀村、という場所と
鈴木メソッドという俳優の身体訓練方法について
なにかを語ることが必要、なのだとおもうのだが、
利賀村については わたしの個人的な思い出 など
もわもわーとうかんでくる、きりがない、ので、
・わたしは1995年、96年、97年の利賀・新緑フェスティバルに
劇団山の手事情社劇団員として参加したことがある。
・わたしは2006年利賀演出家コンクールに出場した。
・わたしがこれまでに鈴木忠志氏の演出作品で観たことがあるものは、
『世界の果てからこんにちは』&『リア王』(利賀にて)である。
という個人的経験を列挙することでとどめておきたい。

鈴木メソッド。
床を踏みしめることで 足の骨を折る、とか
あまりの厳しさに膝やら腰やら治るひまがない、とか
おそろしい伝説ばかりが耳に入る。
わたしは 鈴木忠志氏のメソッドを直接学んだわけではなく、
伝え聞いたものを
じぶんのからだの調整方法として取り入れているだけなので、
深い考察までは至らない部分もあるのだが、
山の手事情社、東京オレンジ、双数姉妹といった
早稲田劇研出身の劇団に伝わる歩行訓練、
そして 木村真悟氏率いる劇団ストアハウスカンパニーの歩行訓練と
からだのコントロール方法の基本はおなじところから発生しているな、
というのが感想、早稲田系、ということか。
からだのつかいかたの激しさばかりが目につきがちだが、
かぎりなく静止したからだに、
いかにして 前 に向かう方向のエネルギーを持たせるか、
ということの訓練であるとおもう。
鈴木メソッド、というものは
じつは声のコントロールについて とくに有効である
というのが わたしの認識だったのだが、
中劇場、小劇場ともに おどろくべき声の使い手は
ドイツ人俳優ゲッツ・アルグス氏だけだった、
中劇場はとくに、劇場の大きさに対し、
俳優の声で構成する空間の大きさが圧倒的に小さすぎた。
ので 期待がはずれた部分が大きい、というのが第一、
なので もうすこし研究をしてから言及したいとおもう。

ここで各作品のぐっときたポイントについて、
ちょっとだけ書いてみたい。

中劇場『シラノ・ド・ベルジュラック』

・ロクサーヌという名のあのおんなのこの

どこにそんなに魅力があるのかさっぱりわからなかったが、
戦の陣中に馬車で駆けつけて来る、というのは
とても美しいイメージだとおもった。
まあ男のファンタジーだ
兵士はそんな夢を見るんだろう
舞台上では台詞のみの表現ですこし残念だった。

・冒頭、母親との会話のシーンがいちばん好き。

・5人の兵士たちに
ひとりずつ
おんな

与えられる、そのおんなに ちかづく 瞬間。
不覚にも涙がでた。
それはミニスカートの たとえば女子高生がでてきて、
そのふとももに手をのばす、とはぜんぜんちがう
おんなじだけど、ちがう、
女優は欲望の対象になる
ということ、
女性は欲望の対象になる
ということ、
女性に対する欲望が生じなかったら
性交不能、人類滅亡である
いまの時代、男女同権、なんていわれながら
女性が正しく欲望の対象になることがすごくむずかしくなっている
あたしはあたしのものである
と同時に
だれかのものにもなりたい
と おもうけれど
結局ロクサーヌは尼僧になる。
おんなのしあわせ台無しである。
ううむ。

小劇場『イワーノフ』

・とにかくあのカゴに入ってみたい。
飼われたい欲望。
・花嫁たちのシーンがいちばん好き、
上手奥から車椅子に乗って一列で登場する花嫁たち、脚萎えの花嫁たち、
カゴのなかで、ここが、わたしの、世界のすべてとばかりに歌う彼女たち、
幻想であり、
魔女であり、
夢の女であり、
母親でも妹でも娼婦でも生徒でもある 未来の妻
カゴの男たち は
イワーノフの友人たち、コントロール可能な
目をつぶったら消すことのできる夢。
しかし女たちはそうはいかない
いつまでも、いつまでも、いつまでもまとわりつき、
アンナからサーシャへと名前を変え、増殖し、イワーノフを搾取する。
ここには愛なんてなくって、
そもそも結婚なんてものには愛なんていらなくって、
カゴの男たちにあばかれるプライベートって、
そもそも結婚にプライベートなんてなくって、
それでもアンナもサーシャも結婚に幻想を抱きすぎていて、
おとこにその責任を押し付ける、
おとこからなにもかもうばいとろうとする、
妻、というものは おとこにとってもっともっと怖いもの、
ということでいいような気がした、
彼はきっと帰宅恐怖症なんだ、

・なんでアンナだけカゴに入っていないんだろう、
死期がせまった妻、というのは
もう怖くない コントロール可能な存在、という解釈なのだろうか、
妻と夫の 親しさ、近さ、を描いたシーンはないため、
カゴにはいっていない、という意味はわからなかった。
医者がアンナのことが好き、っていうのが
にんげんのばかばかしさをかんじさせる いい人物設定なのに
ぜんぜんわからなかった。
アンナがすべてのひとの愛情を受け付けない体勢に
はいってしまっているからか。
あれだ、
イプセン『人形の家』のランク先生の愛を受け入れないノラ、のような、
身勝手さがあっていいのではとおもった。

小劇場『オイディプス』

・わたしはこの物語の羊飼いの台詞がとにかく好きで、
羊飼いの卑小な良心、「不憫で、殺せなかったのでございます」
ここで泣いた、
オイディプスだっておおきな人間ではないが、
いちおう王である、
その堤防がくずされていく、
ドイツ人がことばがつうじなくって、
まわりがなにを言ってるのかほんとうにはわからなくって、信じられなくって、
いちばん愛しているはずの王妃でさえも、
オイディプスって、
なかなかオイディプスと王妃との愛情関係をしめすのはむずかしいのだけれど、
まあ、みてるひとはオイディプスなんて話は知識をもったまま見ていて、
こいつおまえのおふくろだよ、とおもいながらみているから、
オイディプスがこいつの言うことわかんねえよ、という不安をしめせば
王妃のほうはちかづくことができる、そこがおおきな発見だった

シラノ、イワーノフ、オイディプスというこの3作品、
俳優の高い身体能力による うずまくエネルギーのおおきさはもちろんだが、
この3作品においておそろしいのはそれではない、
鈴木忠志氏、
このひとはなにをやろうとしているのか、
どこまであたまのなかで妄想されていて、
それがどこまで実現されているのか、
そこに大きな疑問が生まれる、ねじれが生まれる、

観客は客席に座りながら
ここにいるこいつらは なんだ?
いまめのまえにいる このひとはなんだ?
わたしがここにいることって なんだ?
と がつんと、からだに、くる
それはクラブ(踊るほう)のスピーカーの前にいると
ずぶずぶ伝わってくる振動のことだし、
ジェットコースターでてっぺんまでいく、前の座席のひとから
下り を、降りる、
じぶんが
落ちていく
そのG だし、
好きなひとのとなりにいて、手をつなぎたい、手をつなぐ、
どきどきする、これはまちがいかもしれない、ゆめかもしれない とおもう、
その心臓のうごきだし、
そんなことは演劇には可能だし、
やろうとおもってやることなのだ、
これはエンターテイメントだ
にんげんはただ食べて眠るだけでは生きていけない、
起きてから眠るまでのすべての時間に飽き、
刺激をもとめる、
じぶんの感覚を掘り起こしたい、という欲望
それに答える
演劇は、エンターテイメントだ。

新国立劇場をつかった現代演劇、
まだこれぞという名作に出会ったことはなかったが、
今回の連続上演は「国立劇場」の名にふさわしい公演だったとおもう。
12月7日からはじまる
チェルフィッチュ岡田氏の新作『エンジョイ』にも期待したい。
日本の、国立劇場、を ピナ・バウシュにつかわせているばあいではない、

日本の現代演劇は、大いなるエンターテイメントだ、
宣言。

【筆者紹介】
田口アヤコ(たぐち・あやこ)
岩手県盛岡市出身、1975/11/12生まれ。東京大学美学藝術学専修課程卒。演劇ユニットCOLLOL主宰。演出家/劇作家/女優。劇団山の手事情社・劇団指輪ホテル等での俳優活動を経て、自身の劇作を開始。おさんぽ演劇「ポタライブ」の劇作を劇作家岸井大輔氏とともに進行中。blog『田口アヤコ 毎日のこまごましたものたち
次回公演は『きみをあらいながせ~宮澤賢治作「銀河鉄道の夜」より』(王子小劇場、2007年3月9日-13日

【公演記録】
シラノ・ド・ベルジュラック
スタッフ
原作:エドモン・ロスタン
翻訳:辰野 隆/鈴木信太郎
構成・演出:鈴木忠志

芸術監督:栗山民也
主催:新国立劇場(11月2日-12日)
新国立劇場/静岡県舞台芸術センター(SPAC)共同制作

キャスト
蔦森皓祐 竹森陽一 新堀清純 永井健二 吉見 亮 仲谷智邦 久保庭尚子 内藤千恵子 鶴水ルイ 福寿奈央 日和佐美香 大川麻里江 佐山花織 齋藤志野 斉木和洋 榊原 毅

イワーノフ
原作:アントン・チェーホフ
翻訳:池田健太郎
作曲:ロジャー・レイノルズ
▽『オイディプス王』
原作:ソフォクレス
翻訳:福田恆存(日本語) ヘルダーリン(ドイツ語)
構成・演出:鈴木忠志

芸術監督:栗山民也
主催:新国立劇場(11月4日-12日)
新国立劇場/静岡県舞台芸術センター(SPAC)共同制作

キャスト
ゲッツ・アルグス 蔦森皓祐 加藤雅治 三島景太 貴島 豪 奥野晃士 藤原栄作 武石守正 植田大介 高橋 等 藤本康宏 竹田 徹 佐東諒一 佐藤嘉太 久保庭尚子 舘野百代 斎藤有紀子 齊藤真紀 高野 綾 内藤千恵子 瀧井美紀 布施安寿香 三木美智代

【関連情報】
・シラノ・ド・ベルジュラック(新国立劇場webサイト、写真集) http://www.nntt.jac.go.jp/frecord/updata/20000001.html
・イワーノフ/オイディプス王(新国立劇場webサイト、写真集)
http://www.nntt.jac.go.jp/frecord/updata/20000002.html

「鈴木忠志演出「シラノ・ド・ベルジュラック」「イワーノフ/オイディプス」」への2件のフィードバック

  1.  鈴木忠志様。
     ボイストレーナーの荒谷です。先日、福寿直子があなたのお芝居に出て、声を誉められたとか。彼女は私の教室では中ぐらいのレベルの声です。
     日本の演劇の弱点は俳優の声です。三島影太君でも見違える声に短時間でなります。
     ただパクリが多く、50年以上かけて開発した世界にも例を見ない、超効果的な方法を、多くの人に教えるのに大きな躊躇があります。
     しかし私が死ねばこの方法は永遠に封印されるでしょう。そのジレンマがあります。一度お会いしたく思います。

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