新国立劇場「エンジョイ」(岡田利規作・演出)

◎ 「演劇をやってほしい」という熱い周囲の期待を、岡田利規はどのように裏切ることが可能か?
森山直人(京都造形芸術大助教授)

「エンジョイ」公演チラシ“verisimilar”という英単語がある。「迫真的」という訳語をあたえられたりもするが、もともとは“very similar”、つまり、「非常によく似ている」「本物そっくりである」という意味である。
いまや「リアル」という言葉が、あまりに手垢にまみれてしまったとすれば、「本物そっくりである」というこの単語の切り口は、岡田利規(チェルフィッチュ)が、近年高く評価されているその一端を確実に言い当てていると言える。

たとえば、新国立劇場の芸術監督である栗山民也は、2006年春に上演された『三月の5日間』の再演を見た感想を、次のような言い方でつづっている。
「何人かの役者たちが、それぞれの違った視点からいくつかのエピソードを語りながら、緩やかに変奏するその物語はいまの若い世代の姿をいくつかのスタイルで炙り出します。そして、そこに漂うけだるい気分は、恐ろしいほどにリアルなのです」(『エンジョイ』パンフレットより)。
言うまでもなく、最後に出てきた「リアル」という言葉は、「いまの若い世代の姿」という表現とあいまって、“very similar!”という声にならない感嘆符を強く喚起していると言えるだろう。

いまの時代、と「非常によく似ている」こと。言いかえれば、舞台が時代と「本物そっくり」に見える、ということ。――ところで、そういうことを志向するようになったのは、演劇をはじめた最初からではなく、実は比較的最近になってからのことなのだと岡田自身が発言しているのは興味ぶかい。

僕は2001年に[芝居の方法論が]転換するまで、表現が現代性に向かう、自分の表現が現代性を帯びるということへの関心があまりなかった。たとえばばいまのぼくの演劇は、言葉遣いにしろ身体性にしろ、現代的だと言われるし、こういう指摘に対して否定もしないです。でも昔はそういう現代性への嫌悪感がありました。
(演劇批評サイト「ワンダーランド」でのインタヴュー

こうした「嫌悪感」をひとまず放棄し、同じインタヴューでの彼の言い方を借りれば、「自分にフィットした方法で現代を記録すること」へと方法を転換してからの岡田利規の作品しか、私を含めて大多数のいまの観客はおそらく知らない、ということになる。ただ、勝手な想像かもしれないが、いまのようなスタイルへと変貌を遂げてからも、ここでいう「現代性への嫌悪感」は、形を変えていまでも生き残っているのではないだろうかと、私には思えるところがある。「現代の若者の姿」にとって、「本物そっくり」の言葉と身体をあえて舞台の上に、意図的にデフォルメした姿として現出させてしまう、という、場合によってはかなり倒錯的でもありうる作業に膨大な労力を費やすことを支えるには、「悪意」の一つや二つはあって当然ではないか。私は、「本物そっくり」のアートが持ちうるだまし絵的な快楽が、上演としての強度(もしくは反強度)を帯びる貴重な瞬間に、これまでチェルフィッチュの作品を見ることのうちに何度も立ち会ってきたと感じているが、そのなかに流れている「悪意」を、必要とあれば「批評性」というお行儀のいい言葉に置き換えてもかまわない。

さて、そのような観点から今回の新作『エンジョイ』を見てみると、どうだろうか。無視できないのは、「悪意」もしくは「批評性」といったものが、それを成立させる「場」との関係性において、見え方や意味合いが変化していくということである。ある舞台作品にとっては、作品の具体的な内容ばかりでなく、それを可能にしているコンテクストや文化的フレームも同じように重要であるということだ。その意味で、今回の『エンジョイ』が、岡田利規が新国立劇場に招かれたはじめての作品であるという点は、やはり決定的である。もっとなまなましい言い方をすれば、なんといってもこの作品によって、彼は同じ頃から脚光を浴びるようになった小劇場系の若手作家――たとえばポツドールの三浦大輔、五反田団の前田司郎などを思い浮かべてみてもよいが――よりも「先」に、ナショナルシアターの正規のプログラムに選ばれたのである。

私はこのこと自体、皮肉でもなんでもなく、ストレートに喜ばしい事態だと思っている。けれども、そのことによる一種のリスクについても一抹の危惧を覚えるものである。わかりやすい部分からあげれば、このことは、岡田が「今日の若手を代表する演劇作家」というレッテルを必然的に背負わなければならなくなったということを意味している。しかも厄介なのは、岡田作品の評価が、少なくともこれまでは、その「演劇らしくない演劇」という特徴に対して向けられてきたという点だ。新国立劇場という「場」(文化的なコンテクスト)は、いわば「演劇」が「演劇」らしくあることを強いる空間である(誤解のないように言い添えるが、そのことは、芸術監督の個人的な資質や好みとは何の関係もない、構造的な磁力のようなものだ)。率直なところ、残念ながら今回の『エンジョイ』は、そうした磁力に対して、必ずしも充分に戦うことができずに終わってしまったような気が私にはする。おそらくそうなった理由として、ひとえに作品の言葉や動作といった具体的な内容に腐心していればよかったこれまでとは異なって、今回のような場合、いわば「場」の精霊とどのような契約を取り交わすか、ということに関する戦略が必要であり、それが不足していたためではなかったかと思われるのである。

作品そのものの具体的な構成や細部、というだけなら、私は『エンジョイ』が、これまでの岡田作品とくらべて悪い仕上がりだとは思わない。むしろ、なぜこの作品が、いまこの時間にこの新国立劇場(小ホール)で上演されており、それを私たちが観客として見ているのか、という点に、2時間という上演時間を通じて、納得できる理由がついに見出せなかった、という言い方のほうが正しい。同じ作品を、もっと別の場所、たとえばSTスポットで見ていたら、たぶんそんなことにはならなかったはずである。

無論その印象には、物理的な空間の大きさの違い、という要素も大いに関わっている。「それじゃ、一幕はじめまーす」という例のあの調子が、すんなりこちら側に伝わってこない原因の一端は、岡田に特有の「観客に親密に語りかける文体」が、親密さの成立しにくい空間的な広さのせいで、充分に活用できなかったということ。この点では、太田省吾が、一昨年、京都で開催されたプロジェクト「演劇計画2005」のあるフォーラムで行った発言が、かなりの程度まで的を射ているように思われる。

太田 ・・・この前、初めてびわ湖ホールで実際見させていただいて、僕は台本を読んだ感じと劇場で見た感じは相当違う感じを受けたんです。それはどこかっていうと、観客と舞台の関係なんですよ。僕は観客席にいて、あの言葉をこちらに向かってかけられるんですよね。ここの関係はどういうものなんですか? つまり、スペースもいつもより大きかったのかな。
岡田 ああ、普段の自分たちにとってですか? そうですね、普段より広かったですね。
太田 それを意識されたからかもしれないですが、ビデオでいま見ていると割合しっくりくるんですよね。だけど、あの劇場空間に広がっていったときには、僕は観客として、あの言葉をなぜあのように公言できるんだというふうに感じたんですね。なにか侵食されるような。あの台詞は語る者の勝手でしゃべっているというスタイルなのに、劇場では、それを観客は聞くべき者として強制される。そんな表現構造になっている。・・・
(『演劇計画2005』事業報告書より)

私自身は、チェルフィッチュの俳優の口調を、「聞くのを強制される」という太田のような感じ方で感じたことはない。けれども、今回『エンジョイ』という作品を見ながら強く実感したことが二つある。ひとつは、好き嫌いは別として、間違いなくいまや彼/女たちのトレードマークとなっているまさにあのしゃべり方が、見ている側を、いわゆる劇場の「観客」というよりもはるかにぼんやりとした「路上の存在」――なにか偶然そこを通りかかった人が、一時的に、何気なく座って目撃しまっているような、そういう存在へと変質させる効果を強烈にもっていたのだということだった(そうした効果は、「劇場らしさの乏しい空間」の方が、はるかに容易く発揮されるだろう)。もうひとつは、新国立劇場という「場」が、その座席に腰を下ろす人間を、予想以上に強烈に、「演劇の観客」という存在へと変質させる効果をもっているということだ。ブレヒトの有名な比喩を、あくまでもたとえとして用いれば、新国立劇場においては、人は「煙草を吸いながらリラックスしてみる」存在には、なかなかなれないのである。それ以上に、新国立劇場の客席に座った瞬間から、いままでこの劇場で見てきたさまざまな舞台の記憶や、そこに変わらずに存在し、そうした記憶を執拗に呼び起こそうとする劇場の具体的な壁や空間的広がりのたたずまいや、ここがまぎれもない「国立」劇場であるという文化的知識などが、知らず知らずのうちにうごめきはじめ、作品がはじまる前からすでにある方角を向いてしまっている自分自身を発見し、つくづく驚いてしまったのである。

いま述べたような、文体と「場」の齟齬、のほかに、もう一点考えさせられたことがある。それは「フリーター」という題材の扱い方と、「場」の精霊との関係についてである。『エンジョイ』は全体としてよくある恋愛話という体裁をとっており、そこに登場する「フリーター」や「ホームレス」が、社会問題を扱う、といった手つきでは扱われていない。作品の途中で、最近発生したフランスの移民労働者の暴動や雇用問題をめぐる学生のデモの映像が唐突に挿入される場面があるが、それらを俳優たちが演じる日本のフリーターやホームレスの日常と結びつけて語るということはなされず、むしろ「結びつき」についてはノーコメントのまま並置される。このような構造は、『三月の5日間』におけるイラク戦争と渋谷のラブホテルの関係性と、まったく同じである。

だが、岡田利規の舞台作品に政治的なリアリティが喚起されるのは、少なくともこれまでの作り方においては、物語と無関係に露呈する「演劇的な貧しさ」からではなかっただろうか? 先に述べたような、なぜそこにいてそのような光景を目撃しているのか、自分でも充分説明できないような中途半端な「路上の存在」として、訳もわからずに目撃してしまった「じゃ、一幕はじめまーす」という調子のあの呼びかけの、あの強烈な演劇的「貧しさ」。演劇が「演劇らしさ」を捨てて、時代の光景に対して「本物そっくり」(very similar)のだまし絵であることを選択した瞬間に、不意になまなましく生起してきたあの「貧しさ」のなかにこそ、物語が直接扱っている内容以上の生身のインパクトを私たちは受けとめていたのである。

その意味では、今回の『エンジョイ』の舞台装置は、あまりにも中途半端な「貧しさ」しか提示できていなかったように思われる。中央奥に設置された大きめのきれいな映像用スクリーンや衝立、それに舞台の奥に行くにしたがって、ちょうど通常の八百屋式とは逆向きの勾配のついたメインステージも、「貧しさ」というよりは、むしろ「シンプルな演劇空間」という美意識に回収可能なものだった。おそらく必要だったのは、岡田がこれまで使用してきた空間で試みてきた以上の徹底した「貧しさ」を、照明、音響、映像、美術等の総力を結集して立ち上げる(というか、ひょっとするとそれは「立ち上げない」ということに近づくのかもしれないが・・・)ことか、さもなければ、演劇の劇場というものが常に持っている「演劇的な華やかさ」への志向をいったん受け入れた振りをした上で、その華やかさを逆手にとる演出プランを構想することのどちらかではなかったかと思われるのだ。いずれにせよ「若手を代表する演劇作家」のひとりであることを、もはや受け入れないことが不可能になりつつある以上、岡田利規は諸手をあげて周囲の期待に応える「フリ」を、ぜひとも身に着けてほしいと思う。その「フリ」の追求こそが、彼の反-演劇的な資質をより一層快楽的に、政治的に発揮するために、いま不可欠の戦略であることを私は疑っていない。
(初出:週刊「マガジン・ワンダーランド」第25号。2007年1月17日発行。購読は登録ページから)

【付記】
岡田利規作・演出の『エンジョイ』は、12月13日昼の部を見ました。「マガジン・ワンダーランド」の読者はおそらくかなりの人が見ているであろうことを考慮し、あらすじ等の説明はあえて省略しました。
最後に、本文とはまったく関係ありませんが、昨年末に出しそびれてしまった2006年の私のベスト3を列挙して終わります。
1 ヤエル・ファーバー演出『モローラ-灰
2 ヤスミン・ゴデール振付『ストロベリークリームと火薬
3 太田省吾演出『ある夜-老いた大地に
3 松田正隆作・演出『アウトダフェ
(編注)当サイトの「振り返る私の2006」に収録しました。

【筆者紹介】
森山直人(もりやま・なおと)
1968年東京生まれ。京都造形芸術大学映像・舞台芸術学科助教授。専門は演劇批評、現代演劇論。現在同大学舞台芸術研究センター発行の演劇批評誌『舞台芸術』の編集委員。

【公演記録】
エンジョイ」(作・演出:岡田利規)
新国立劇場小劇場(2006年12月7日-23日)

キャスト:
岩本えり
下西啓正(乞局)
田中寿直
南波典子
松村翔子
村上聡一(中野成樹+フランケンズ)
山縣太一
山崎ルキノ
山中隆次郎(スロウライダー)

スタッフ:
作・演出:岡田利規
美術: 伊藤雅子
照明: 大平智己
音響: 福澤裕之
衣裳: koco
舞台監督: 米倉幸雄

芸術監督: 栗山民也
主催: 新国立劇場

【関連サイト・ページ】
白鳥のめがね(16日現在(4)まで)
わぁ。(驚きに満ちた小さな悲鳴)(16日現在、その2まで)
デイリー・サクラー
楽観的に絶望する
ブロググビグビ
小劇場系
ときどき、ドキドキ。ときどき、ふとどき。(曽田修司)
しのぶの演劇レビュー
富士日記2(宮沢章夫)
「エンジョイ」の前に 他者が渡す(河内山シモオヌ SWITCH ON Excite)

「新国立劇場「エンジョイ」(岡田利規作・演出)」への5件のフィードバック

  1. 森山さん

    劇評として読めなかったんで(笑)自由に意見を言わさせていただくと半分賛成。

    新国立劇場の客席に座った瞬間から、いままでこの劇場で見てきたさまざまな舞台の記憶や、そこに変わらずに存在し、そうした記憶を執拗に呼び起こそうとする劇場の具体的な壁や空間的広がりのたたずまいや、ここがまぎれもない「国立」劇場であるという文化的知識などが、知らず知らずのうちにうごめきはじめ、作品がはじまる前からすでにある方角を向いてしまっている自分自身を発見し、つくづく驚いてしまったのである。

    権威とか御文化なるものとかを、それなりに上品な仮想敵みたく思い込んで幻想抱くと楽しいデス。
    けどそれ、もろ森山さんや僕の思い込みですよ。御自身も書かれてますが。

    冷静になってみれば・・・ニホンに「演劇的な華やかさ」を持つ演劇の劇場ってあるのか?

    反体制をオカズに生涯射精を決め込んでる演劇人は勝手にやれや、って事で論外として、
    新国立は森山さんの言う「貧しさ」が別ベクトルで現れた総本山みたいなもん、と僕は見てます。

    僕の読解力のなさかもしれないですけれども、
    劇の意味はよくわかんなかったがしかし新国立でやったのが気にいらねえから批判しとく、というふうに読めちゃうのですね。自分も半分共感できるからよけいに。
    ただ僕は、書かなきゃいけない立場の人間じゃあないんで公に垂れ流そうとは考えない。
    なんつうかこむずかしげな語句を出して、こやって文章になることを外から読むと演劇好きな人って頭悪い?って思いますよ。

    残り半分の賛成できなかった点はここ

    おそらく必要だったのは、岡田がこれまで使用してきた空間で試みてきた以上の徹底した「貧しさ」を、照明、音響、映像、美術等の総力を結集して立ち上げる(というか、ひょっとするとそれは「立ち上げない」ということに近づくのかもしれないが・・・)ことか、さもなければ、演劇の劇場というものが常に持っている「演劇的な華やかさ」への志向をいったん受け入れた振りをした上で、その華やかさを逆手にとる演出プランを構想することのどちらかではなかったかと思われるのだ。

    僕は厭ですね。
    中にはおとなしくいちゃうけど、押し付けられる有形無形の圧力には精一杯の反抗をみせるいじらしさ、ってか。
    子供っぽくないですかぁ?「中産階級」のガキの反抗期を売り物にした猿商売の反復になりますよ。それを演劇は温存すべきというなら有だけど。

    まあそれにね、「貧しさ」が逆転しちゃってすげえっていうものみたかったら鬼畜イベントいきますわ。
    殴られんの覚悟でホームレスに酒薦めて一緒に飲んだ方が早いすよ。
    しょせんいいご身分の演劇なんかに求めないって。ぐだぐだ書いてしまいました。乱文御容赦。

  2. 演劇の批評として、演じられる「場」と劇との関係を論評することはあっていいと思う。
    それが「場」違いではないかという結論であってもかまはない。
    ただ、僕のような極く普通の観客(このページに寄稿されるようなアカデミックなあるいはマニアックな人々ではないもの)にとっては、新国立劇場で取り上げない限り、岡田の芝居に出会うのはもっと遅れていたと思う。ちなみに僕はたいへん面白いと感じた。
    「演劇」と「貧しさ」の切っても切れない関係(ここで苦笑)を考えれば、むしろメジャーデビューを喜んで、早く「貧しさ」から抜け出る事を支援してやるのも観客の勤めではないか、と思っています。
    僕の体質としては「プロデューサー」なのでやはり「劇の興行」全体の批評を心がけたいものだと思っています。

  3. それにしても、上の「筑豊」という名のコメントが気になったので、再び書く事にした。
    この評の文体の「貧しさ」は一体なんだ。シニカルな語り口で精いっぱいの強がりを言っているが、ただの上げ足取り。
    この「筑豊」の立場は、次の文に表れている。
    「ただ僕は、書かなきゃいけない立場の人間じゃあないんで公に垂れ流そうとは考えない。
    なんつうかこむずかしげな語句を出して、こやって文章になることを外から読むと演劇好きな人って頭悪い?って思いますよ。」
    「垂れ流している」のは貴様のほうだ。
    「ニホンに「演劇的な華やかさ」を持つ演劇の劇場ってあるのか?」
    ないなら、ない事を論証して見ろ。
    「新国立は森山さんの言う「貧しさ」が別ベクトルで現れた総本山みたいなもん、」をきちんと説明して見ろ。
    斜に構えてカッコつけてるつもりかもしれないが、すべて「匿名」の陰に隠れて、やっていることではないか。
    文体のいやらしさは胸くそが悪くなるほどだが、それよりも「匿名」の卑怯千万は日本人として許し難い。
    今度は本名で、書くように。論争は望むところだ。
    いやならホームレスと一緒に酒でも飲んで、こんなところに醜態をさらさないほうがいいぞ。

  4. 山口と申します。別のコメント欄が何だか閉じられてしまいましたので、こちらに乱入いたします。

    昔読んだ雑誌の中に、たぶん松尾スズキだと思うけど、お芝居の見方みたいなものが載ってました。

    まず、「1・見てたのし」「2・知ってたのし」「3・教養が深まる」などの3ステップ伝えてくれるものが芸術作品としてすぐれると言うもの。だと言うような内容だったと・・・

    正直申しますと、この間のこうちさんの劇評は2と3を伝えてくれていました。1の部分の感想文は色々な方が書いているようなのでもう結構。と言う感じです。

    しかも、お芝居がリアルという話であるのであれば、この劇の中の方々は全然リアルじゃないですよ。

    私は、第一感想として「彼ら人格障害か?」と思いましたから…実際あんな人達あまり遭遇しませんよ。会ったらあったで「病院行ったほうが・・・」と進めたくなる方々だったもの。

    たぶん、リアルであまり理解できない若者像を彼らに求めた方々は、「年のせい?」だと思うのですが、どうでしょうか?

    ところで、上の方は中村さんでは無いですよね。かき方が似てらっしゃったもので・・・

  5. 山口さん

    中村隆一郎です。
    夜中に目が覚めてうろうろしてたら、このページを発見しました。
    こんなところに書き込まれても、みつかりません。ので、何かありましたら、ぼくのHPに書き込んで下さい。
    よろしく。
    http://www3.zero.ad.jp/ryun

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