◎台詞=言葉を支える声とからだ 稀有なオーディエンス体験
鴨下易子(アトリエ・ドミノ主宰)
『瀕死の王』のチラシは、縦長の金色のフレームに入った写真だ。2人のティアラをつけた喪服姿の女性の間に、頭に王冠を載せた男性が車椅子に座っている。王冠からタイトルにある王様のようだが、パジャマを着て病人に見える。ティアラや王冠がなければ、喪服もパジャマも普通で、写真館で撮った家族写真に見えないこともない。その家族写真の金枠にかかるように、「死っ!死にたくねぇ!」と書かれている。初めて見る不条理劇は、チラシにも奇妙さがあり変に印象的だった。
観劇経験の浅い私にとって、この芝居は初めてづくしだ。イヨネスコの戯曲に演出の佐藤信、舞台で見るのは初めての柄本明に佐藤オリエ、そして去年できたばかりの劇場「あうるすぽっと」。イヨネスコという名前は知っていたけれど、『瀕死の王』という作品名は初めて聞く。
この芝居は、衛兵が登場人物の名前を告げ知らせるところから始まる。国王ベランジェ1世・第1王妃マルグリット・侍従兼看護婦ジュリエット・第2王妃マリー・専属医師兼死刑執行人兼占星術師が、呼ばれた順に登場する。台詞が続くうちに、この国では、言葉で物を動かせることがわかる。暖房係の衛兵は命令することで暖房をつけようとするし、王に至っては天候さえコントロールすることができた、らしい。それが王の死へ向かう病のために、言葉は物を動かさず国土は荒廃している。王が死を認めずに抵抗しながらも、最後にはマルグリット王妃に引導を渡されて死にいくまでのお話である。
この芝居を見て「感動したか?」と聞かれたら、「特別感動はしなかった」と私は答えるだろう。感動という言葉には感情移入の強さを感じるし、それを狙うような思い入れたっぷりの台詞回しは苦手だ。だから感情的なマリー王妃の台詞でさえ、そう重くはなかったのでほっとした。そうして見ているうちに、言葉の意味がしっかりと聞こえていることに気がついた。眼鏡を買い替えなければ、と思うような視力なので表情は良く見えないのに、台詞からとてもクリアに芝居が見えてきた。
この『瀕死の王』を見るまで、芝居とは『観客』を舞台に見(魅)入らせ感動させることを目的にしている、と思っていた。だからこの芝居が観客に共感を起こさせるのではなく、台詞を通して戯曲を体験させてくれたことに驚いた。今まで私が芝居と思っていたものは視覚的な演劇で、今回の体験は台詞が喚起したイメージが頭の中に像をつくる聴覚的な演劇だったのだ。聞こえてくる言葉からの体験なので、『聴衆』の言語経験によって脳内で再構成された芝居は異なる。だから同じ芝居を見ても、観劇体験が大きく違うということが起こりうる。バーチャルな世界で使われる『脳内劇場』は視覚的だが、その聴覚版というわけだ。感情や視覚は共有しやすいが、『聞く』『読む』という言葉に関する体験は実は個人的なものだ。芝居の客を『オーディエンス・聴衆』と呼ぶ国で、文章やスピーチに引用を入れる人が多いのは、観劇後も記憶に残った台詞が、生活の中で肉付けられ実感を持つからだろう。言葉はライブのその時だけでなく、その後も刻まれた言葉から連想が生まれ『脳内劇場』はさらに生成し続ける。ただしテキストの構造の良し悪しが、その舞台の強度を決めるのは当然だが。
この劇評が終わったら、翻訳と参照しながら原語でテキストを読んでみようと思い、フォリオ版を買って眺めてみた。目はフランス語を見ているのに、頭の中では「あうるすぽっと」で聞いた台詞が再生されてくる。数ページ見ただけで、はまって原稿が書けなくなるのが怖くなり、今はお預けにしてある。今回の佐藤信演出の芝居は、私の頭の中にすっぽりと戯曲を入れてしまったのだ。『瀕死の王』ファイルができている。なんというオーディエンス体験だろう。
これ以降は、私の脳内劇場で生成されている物語を書いてみよう。6人の異なる声が揃ったところから舞台は始まったが、王の声はすでに衰えている。彼は聞きたくないことは聞かず、聞きたいことだけを聞きたいように聞いていた。マルグリットの言葉は特に聞かず、他の人の言うこともきちんとは聞いていない。それまで魔法使いのように万能だった王は、おそらく聞かないことによって全てを統べる言葉を失ったのだろう。そういえば古代日本の大王(おおきみ)も聞くことによって統治していた。『聞くこと』と『言葉の力』は、同じものの2つの面なのだろう。この2つによって周囲との関係は変わってしまう。だから言葉の力がなくなり不安定な声になった王と共に、王国も揺らぎ荒廃していく。王の死は王国の滅亡であり、世界の消滅に繋がる。そして王の心臓の鼓動に5人が同調する場面で、寓話のようなこの物語が実はひとりの人間の内部で起こっていることだとわかってくる。
終わり近くマルグリット以外の4人が消えていくと、それまで客席にもあった照明が消え、劇空間が突然縮んだ。まるで4つの声が支えていた広がりが消えたようだ。最後に浮かび上がってきたのは、その奥に異界への入り口を予感させるような縦に伸びた空間。マルグリットの台詞(声)は、その空間のカタチを浮かび上がらせるように聞こえてくる。そんな感覚は初めてだった。王はこの場面で、今まで聞こうとしなかった王妃の言葉を聞き、本来いるべき世界の中心に戻ってくる。そして垂直の空間は、死に向かって下から消えていった。神話のようなこの場面が、エリアーデとイヨネスコが友人だったことを思い出させる。
実は『瀕死の王』を見る目的の1つに柄本明の声があった。以前演劇に詳しい友人に聞いた、声のいい役者の1人が彼だったから。期待して出かけたその目的の声の主は、なんと王としての声を失った役だった。最初は何か拍子抜けしてがっかりしたけれど、6人の違う声を聞き、そして佐藤オリエの声と空間の関係に驚いているうちに、柄本明の声に対する不満を忘れていた。ところが私の頭の中で何度も再演されている脳内劇場の佐藤オリエの声が支えている空間に意識を向けた時、そこには声を聞いている柄本明がいた。彼はそこで『声』ではなく、『耳』になっていたのだ。舞台で役者が、他の役者の台詞をきちんと聞いているということは凄いことだ。劇空間の密度が違ってくる。聞く芝居をするのではなく本当に聞いているから、話し手をしっかりと支えることができるのだろう。
2週間も前に耳から入った物語が、新しい発見や気づきを起こし、まだ内容が更新されている。この『瀕死の王』で私が見つけたのは、演技をする声とからだではなく、台詞(言葉)を支える声とからだだった。そして戯曲に忠実な空間・時間を演出家がつくり、台詞に忠実な出演者が戯曲を再現してくれた。今では彼ら戯曲に奉仕する人たちも、私の頭の中の物語の一部になっている。
(初出:マガジン・ワンダーランド第116号、2008年12月3日発行。購読は登録ページから)
【筆者略歴】
鴨下易子(かもした・やすこ)
フランスの舞台人の耳と声を治した故トマティス博士に師事し、フェルデンクライス・メソッドをベースにした『声とからだの調律士』となる。アトリエ・ドミノ主宰。若い頃は感性(?)と目だけで見ていたので舞台と映像体験はそれほど違っていなかったけれど、からだと耳が観劇に参加して来た今は、ライブにはまりそうで怖い!
【上演記録】
あうるすぽっとプロデュース「瀕死の王」
あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター)2008年9月28日-10月5日
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○作:ウジェーヌ・イヨネスコ
○演出:佐藤 信
○訳:佐藤 康
○出演:柄本 明/佐藤オリエ/高田聖子/
斎藤 歩/谷川昭一朗/松元夢子
企画:鴎座
企画製作:あうるすぽっと
(スタッフ)
美術:佐藤信/照明:黒尾芳昭/音響:島猛/衣裳:岸井克己/演出助手:鈴木章友/舞台監督:北村雅則/宣伝美術:マッチアンドカンパニー/宣伝写真:ノニータ/広報:小沼知子/制作:藤野和美/プロデューサー:ヲザキ浩実
(東京公演)
主催:(財)としま未来文化財団/豊島区
助成:芸術文化振興基金
(兵庫公演)
主催:兵庫県立尼崎青少年創造劇場
▽あうるすぽっとインタビュー 佐藤信×柄本明(取材・文/尾上そら)