◎愛と憎、狂気と正気の <極> に、もの悲しい波長の空間が
阿部未知世
1. 口火
静岡舞台芸術センター(SPAC)の芸術監督、宮城聡が、SPACの役者を使って、唐十郎の作品を上演する!
唐十郎と言えば、アングラ演劇の最高峰。
1960年代末から70年代、「状況劇場」の紅テントで<腰巻お仙>などなどに、強烈な衝撃を受けた体験がある。
宮城聡はかつて、劇団「ク・ナウカ」を率いて斬新な演劇を創り、SPACにおいても、<夜叉が池>などのように、独特の様式美と色彩豊かな、力強い空間を展開している。
その唐十郎と宮城聡が、真正面から出会う。これを知った時、軽い戸惑いと未知なるものへの期待がうまれたことは事実だった。
キャッチコピーには、<能×アングラ×宮城聡>の掛け算。しかも会場は、夜の野外劇場。一体、どんな世界に連れ出されるのか…。胸は高鳴るのだった。
2. しつらいといでたち
舞台は、細い角材をあらく格子状に組んだ、いわばスノコ状のものが、コンクリートの床一面に敷き詰められている(役者は主として、その格子の上を移動する)。
その奥には、かまぼこの切り口のような形の低い建物。そこはまるで動物の飼育小屋のように、いくつかの部屋が連なっている。その屋根全体に、多数の廃材が無造作に厚く積み上げられている。そしてその背後は、自然林の低い丘が迫る。
登場人物は皆、白塗り。最低限、身体を覆っただけの者もいる。衣装は、紗かオーガンジーのように透けて肌が見える。何人かはその衣装を、肌の透けない服に重ねている。
そして足には、足袋。その足袋の色は、多くは白。一部は黒。
3. 物語とメッセージ
ここは海に近い、伊豆の精神病院。そこに勤務する医師の光一はある日、患者の六条という女から、<あなた>と意味ありげに声をかけられ、鍵を渡される(患者は皆、ほとんど裸に近いいでたち)。
光一には、アオイという婚約者がいる。そんな光一に六条が語るのは、かつてのふたりの関わり。六条が、一方的に語ることは、こんな話。かつて光一は、ゆきずりの六条に、アパートの鍵と身分証明書を預けたのだという。六条は、それを返すべくあちこちを渡り歩いた揚げ句、今この精神病院にいて、鍵を返すことができたのだ。
ノミのサーカスに入るのだ、と言っていた六条も、やがて病院を出て、化粧品のセールスの仕事を始める。一方、光一とアオイは、約束だった富士サーキットでのカーレースを観戦している。アオイはすでに妊娠していて気分がすぐれない。車まで蜜柑を取りに行っていた弟は、混み合う駐車場で、六条の車とごたごたを起こしてしまう。
化粧品のセールスをする六条は、光一にこんなことを頼む。東京でも仕事をしたいから、アパートを世話してほしいと。不動産屋を紹介するくらいならと応じる光一に、六条は化粧品を渡す。
病に伏すアオイを、光一が見舞う。六条から渡された化粧品を、アオイへの土産に。ベッドルームに休んだまま姿を見せないアオイは、こんなことを言い出す。光一のスーツケースに昔の鍵を見つけた。誰か、他に女の人がいるのではないか…。さっきのプレゼントは化粧品ではなく髪油で、匂いがしみついてとれない…。
光一は、六条のアパートで、ワインを飲みながら寛いでいる。そこへ不動産屋が入って来る。アオイの強い願いで、この場に案内したのだという。しかし、立ち聞きしているはずのアオイの姿はすでになく…。
崖の中腹に立つアオイ。下半身からは血を流している。高くきれいだったアオイの声は、いつしか野太い六条の声へと変わり、ついには、闇に身を投じる。
伊豆の精神病院で光一は、六条のことを知るために、彼女がいた6号室に入り、そこで考えたいのだと、親友で同僚でもある是光に訴える。しかし、是光はそれを許さない。
伊豆の海岸。ずっと以前やったように、光一は今な亡きアオイにあてたラブレターを砂に書いている。その思いが、天国のアオイに届くことを、切実に願いながら。
そこに現れた六条。光一の思いを踏みにじるような六条とのやり取りの中で、光一は抱いた六条の首を絞め、ふたりは、憎悪と恍惚のただ中に立ち尽くす。
よく知られた源氏物語の<葵>の巻に触発された、唐十郎と宮城聡の<葵上>である。
しかし物語には、この男女の愛憎劇に交差する、もう一本の直線が存在する。それは、正気と狂気を両端とする線。果たして、正気と狂気は明確に分けられるのか。それはむしろ、渾然一体のものではないか。という問いである。
断片的なこんなシーンがそれを物語る。
是光医師が、病院の拡張を夢見れば、看護婦はすかさず言う。患者の心はもっと広い、と。極めて謙虚で、心のやさしい駐車場の従業員が、入院する兄への差し入れを届けた際、彼は、是光と看護婦へこんな意味のことを問うた。11本めの指を切り落とさねばとの強迫観念に憑かれた兄を、死体や指が浮いているような所に、旅行に連れて行ってやりたい。壁を這いまわる兄を、自宅の壁で這いまわらせてはいけないのか、と。
そして光一自身が、六条の居た、6号室には入ろうとしたではないか。
このことによって、最後に抱き合う光一と六条は、愛と憎しみの間だけではなく、狂気と正気の間にも立つ。ちょうど愛と憎という直線と、正気と狂気という直線の交わる<原点>に佇むように。そしてそのすべてを引き受けて(あるいは、それらを発して)、苦悩と法悦の混沌たる<極>となっていたのではないだろうか。
4.掛け算を解く
最初のキャッチコピーを思い出してみよう。<能×アングラ×宮城聡>という掛け算を。
この物語は、能の<葵上>とは全く異なる内容である。ちなみに能では、病に伏す葵上は、舞台に置かれた一枚の着物で象徴される。巫女によって呼び出され、今や生霊の本性を鬼女の姿で現し、荒れ狂う六条御息所は、やがて横川の小聖の法力によって、立ち去って行く。それだけの物語である。
3間四方の板張りの舞台の上で展開する物語は、きわめて抑制された、様式的で抽象的な表現のかたちを採る。そしてその場で皆が履くのが白足袋なのだ。
打って変わってアングラは、唐十郎の「状況劇場」の舞台を思い出せば、そこにイメージされるものは、ほとばしる生命力、何でもありの自由さ、夜の新宿の裏通りの臭いにも通じるような猥雑さ、そして何とも言えない真摯さ、などなど。大袈裟に言えば、人を惹きつけてやまない、得体の知れない怪物的な、むき出しのエネルギーの塊のようなもの。
この存在を腑分けするのが、宮城聡。
<葵上>が能に発するが故に、能の手法に敬意を払う。板張りの、何もない舞台。といってもこちらは、板をはがした桟だけの状態。しかしこれは、人を動かすのに好都合だ。細い桟を行き来する動きは、どうしても制約されがち。リアルであって、どこかそれを離れて抽象化する可能性を秘める。足袋をはけば一層、能をイメージさせる。
そして衣装。肌が透ける服は(狂人が裸であったことに対して)、正気からは狂気が透けて見える、狂気と正気は、あざなえる縄のような、密接不可分の意なのだろう。
格子状の舞台と透ける衣装。格子は、そして透ける布は、ともに何かを濾し取ることができる。宮城はアングラを、この二重の濾過装置を透過させることで、舞台上に愛、憎しみ、狂気、正気の、混沌の<極>を出現させようと試みたのではないか。
そしてそこに生まれたのは、猥雑さとは無縁の美しさと、どこか物悲しい波長を発する空間だったのではないか。それを堪能できるか、物足りなさを残すか、感じ方はふたつに分かれるであろうが…。<了>
【筆者略歴】
阿部未知世(あべ・みちよ)
1951年1月、北海道・釧路生まれ。金沢大学卒。国際鍼灸専門学校を経て鍼灸師。「鍼灸水風井」院長。浜松市在住。
【上演記録】
SPAC「ふたりの女~唐版・葵上~」(Shizuoka春の芸術祭2009)
舞台芸術公園 野外劇場「有度」(2009年6月20日、27日、7月4日)
演出:宮城聰
作:唐十郎
出演:三島景太、奥野晃士、永井健二、武石守正、吉見亮、たきいみき、牧山祐大、三木美智代、木内琴子、若宮羊市、石井萌生
上演時間:約80分
入場料:一般大人4,000円/同伴チケット(2枚)7,000円 大学生・専門学校生2,000円 /高校生以下1,000円