鳥公園「おばあちゃん家のニワオハカ」

◎〈不在〉の遠心力が生み出すアッサンブラージュ
プルサーマル・フジコ

前略 未来の誰か様へ

「おばあちゃん家のニワオハカ」公演チラシ演劇ユニット・鳥公園の『おばあちゃん家のニワオハカ』(以下『ニワオハカ』)を観たのは2010年3月18日のマチネで、外は晴れて気持ちの良い一日でした。会場となった市田邸は文化財に指定された建物で、それらしい雰囲気のある庭もある。雨の日はどうなのか? 夜はまた全然雰囲気違うだろうなーとか思いながら観ていると、まず冒頭で、おばあちゃん(鈴木克昌)と会話しながら入ってきた孫娘(井上知子)が突如立ちくらみをし、自意識過剰な独白をまくし立てる。終わると、彼女は、客席を睨み付ける。何か、面白いことが始まりそうだとわたしはそれで直感する。

そこにヒッピーふうの薄汚れた格好をした妹(森すみれ)が現れ、姉の立ちくらみを目撃する。見られた姉はその場を取り繕うが、姉妹の仲はぎくしゃく。妹は仏壇に向かっておばあちゃんの遺影にチーン!とお祈りしてそのまま眠る。すると庭から死んだはずのおばあちゃんが生えてきて、植物まみれのその姿は妹にしか見えない。さらに、おばあちゃんが産めなかった水子の霊(笹野鈴々音)も現れて、悪戯っぽい、不気味な”sous le soleil exactement”のメロディに乗って動きながら遺影を自分のものに差し替えてしまう。水子の霊は学校の先生に化けて「赤ちゃんはどこから来るか?」をキャッキャ言いながら教えたり、「徹子の部屋」を真似たりする。芸達者である。ルールル、ルルルルールル♪ 穏やかな番組のテーマ曲が流れ、場の空気も和らいだところで、おばあちゃんをゲストに迎えた徹子=水子は、おばあちゃんがその死後に出版した自伝『あたしの人生幸福ばかりでありんした』を最初は絶賛して褒めそやすものの、次第に水子としての本性を顕わにし、あたくしが興味を惹かれたのはむしろ書かれていない部分、もっと何か、あるでしょう、あなたが書かずに封じ込めていることが、どうして私(水子)のことを書いてくれないんですか、どうして他のものとすり替えてしまうのか、苦しめ! 捨てないでちゃんと私の分量だけ苦しめ! と血相を変えてにじり寄り、その剣幕に驚いたおばあちゃんは我を失い発狂し、パンツを汚すのだがそれは初潮で、その汚れた下着を妹は庭から掘り起こしてひそかに処分しようとするも姉に見つかり、姉は、フラフラ外国で遊んで突然帰ってきたあんたが私よりおばあちゃんに近づいてるなんて許せないキーッと憤る、姉妹喧嘩、汚物がべっちゃり頬に! お漏らししたおばあちゃん恥ずかしさのあまり激昂して家出をし、姉にビデオレターを 送りつけ、道端で見つけた不思議な人形「小さいミスター」について奇妙な愛着を語る…

「おばあちゃん家のニワオハカ」

「おばあちゃん家のニワオハカ」
【写真は「おばあちゃん家のニワオハカ」公演から。撮影=塚田史子 提供=鳥公園 禁無断転載】

…今わたしは、上演台本を読み返しながら、あの時観たイメージをたぐり寄せつつこの文章を書いている。でも「水子」と書いたけども、それは台本の人物紹介欄にそう書いてあるからで、観ているあいだ実はそれと気づかなかった。当日パンフやチラシにもその事実は書かれていない。

そこだけでなく、『ニワオハカ』は肝心な部分を書かない。例えば家出を回想するシーンでは、山手線に乗って新宿で降りた中一の知子(姉)が、結局どこにでもある牛丼屋に入って別に美味しくもなかった、というどうでもいいエピソードしか語られない。あるいは異国から帰ってきたすみれ(妹)の食事シーンでは、アボガドに醤油とオリーブオイルとニンニクチューブをかけてぐっちゃぐちゃにかき混ぜて食べるすみれを見て、「あんたまだそうやって食べて たんだ?」と冷ややかに知子が蔑むが、すみれは「あっち(イタリア)の人はみんなこうやって食べてたよ、醤油の代わりにバルサミコ酢で」と嘘をついて反撃し、会話をうやむやにしてしまう。どちらの場面でも、感情とか理由とか、あるいはもっと他にありそうな重要な出来事(恋愛とか挫折とか?)について語られることは全然ない。書かないこと。語られないこと。といって、例えば観客であるわたしの脳裏に、その隠された彼女たちの物語が視覚的なイメージとして再現されるといったこともない。ただ匂いだけが残る。彼女たちが纏う匂いだけが。

劇的(ドラマティック)なストーリーはここにはない。しかし意味や文脈を駆使して物語を繋ぐのではなく、俳優がもたらすイメージをただ匂いとして舞台の上に降り積もらせる手つき。やわらかい不気味さと、凜とした強さとを感じさせるこのお芝居は、シャーン、シャーンと鈴の音の鳴る無限ループの儀式によってカーテンコールを迎える。だが、物語は決してそこで閉じることなく、ただ茫漠とした彼女たちの記憶=匂いが市田邸の空間にひろがり、それがわたしを浸すのだ。澄んだ空気の下で鳥の声を聴く穏やかな気持ちと、暗い井戸の底を覗き込んでいる湿った気分とを、この作品は味わわせてくれた。しばらく言葉を失った。

*

こんなふうに劇的な起伏に頼らず、ただひたすらイメージを積み上げていく手法を、無手勝流に美術の用語から拝借して「アッサンブラージュ」と呼んでみたい。それは断片の寄せ集めによって作られる建築物のことであり、その最大の特徴は、霧散するイメージを綴じ(閉じ)ない点にある。アッサンブラージュは想像力の風船をそっと手放し、それが予想もつかない場所に着地することを夢見ている。

ストーリーやエクリチュール(書き言葉)には、固有に蓄積されたパターンや定型の流れがある。作り手も観客も、想像力をつい「物語をうまく閉じる」方向でカタルシスを求めがちだし、それが商業的な成功への近道であるとも言える。たしかに、ただ霧散したままのイメージを横に並べるだけでは、観客への訴求力に欠ける。

そのため、あえてイバラの道とも見えるアッサンブラージュの方法を採る場合、美しく劇的なストーリー性のある構造とはまた別の、それに拮抗しうるだけの傑出したファクターが不可欠となる。機会があればまた詳述してみたいが、結論だけ言うと、アッサンブラージュはより即興的/ライブ的/ダンス的で、かつマテリアル(物質的)な方向へと接近しやすい性質を持っている。さらに言えば、劇作家(戯曲)よりも演出家の存在感を際立たせる。そして演劇は、ダンスやアートやライブパフォーマンスに接近することで変化し、溶け合い、生き延びる道を模索することになるだろう。わたしはアッサンブラージュの様々な可能性を考えてみたい。それは、野蛮なフロンティアとしての未知の領域を感じさせてくれる。

*

さて、しかし鳥公園の『ニワオハカ』の場合、ダンス化傾向の流れとは一線を画していた。これは、戯曲そのものの中にとある爆弾を忍ばせることで、アッサンブラージュを成立させたのだとわたしは見る。といっても戯曲の構造の美しさを観客に「分かる」ように理解させ、共感させ、メロドラマとして涙させるといったタイプの演劇では全くない。あくまでその爆弾は、トロイの木馬的にそっと身を潜める場所として戯曲の構造を間借りするだけであり、その中 でぽんっ、ぽんっと小爆発を繰り返し、その運動によって戯曲の血肉を形成し、俳優のイメージを躍動させ、そしてグッと観客を引き寄せる匂いを舞台の上に降り積もらせるのだ。では、その爆弾は一体何なのか? というとそれは〈母の不在〉である。

「おばあちゃん家のニワオハカ」
「おばあちゃん家のニワオハカ」

「おばあちゃん家のニワオハカ」
【写真は「おばあちゃん家のニワオハカ」公演から。撮影=塚田史子 提供=鳥公園 禁無断転載】

家族を描いているにも関わらず、この戯曲の中で「母」という言葉が出てくるのは数カ所のみ。そのどれもが、本来おばあちゃんと二人の孫とのあいだに当然血縁的にいるはずの女性のことではない。代わりに登場するのが水子だが、彼女は〈母〉としては振る舞わず、学校の先生を演じたり、「徹子の部屋」を真似することで周囲の人間とコンタクトをはかる(失敗する)。その試みによって、水子はおばあちゃんと孫を〈母〉とは別のやり方で接着するのだ。水子がいなければ、単にあっち(死=おばあちゃん)とこっち(生=孫)が別個に存在するだけで、そこに接点も物語も生まれなかった。

そういえば水子以外の三人全員に、実は家出の経験がある、という事実は特筆すべきだろう。〈母の不在〉という爆弾のもたらす遠心力が、知子を、すみれを、そして誉子を、「家」の外へと弾き飛ばしたのか? あるいはその逆で、家出というモチーフからこの爆弾が生まれたのか? いずれにしても『ニワオハカ』は、家族を描きながらも決して閉じた「家」の中の陰惨な物語には陥らず、結局誰もがひとりの女にすぎないという当たり前の(だが忘れがちな)事実を取り戻し、各個人の凛として立つ爽やかな姿を立ち現すのである。それは成長や、成長を前提とした苦悩や決意の物語ではない。女(人間?)は、生み出してもいつかそれを失うし、そもそも、何も手に入らないのである(のかもしれない)。

「毎日毎時間くり返し、はじめましてとあなたに出会いますね。何も積み重なっていかないこと、もしかしたら怒っているでしょうか? 本当言うと私もずっと、何かを積み重ねなければ何ものにもなれない気がしていたのです。でも、何かする、何もしないもっと手前から私は常に私でしかなく、ああなんだ、どこへも行けないじゃない、どこにも、行かなくたっていいんだねぇと思ったものです。」(誉子の手紙よりの引用)

鳥公園は、劇団・乞局で俳優として活躍する西尾佳織が立ち上げたユニットで、メンバーにはもうひとり、森すみれ(俳優・美術)がいる。その二人だけ。このミニマムなメンバー構成もまた、鳥公園の身軽さと爽やかさを象徴している。5月末にはリーディング公演、そして9月には待望の第4回公演『乳水』が予定されている。

完全に蛇足になるけども、作・演出の西尾のブログのタイトルは現在「手紙をかくよ」であり、『ニワオハカ』の中にも何度か手紙を宛てるシーンが登場する。それでわたしも、この文章を未来の誰かにポストしようと思って書いた。未来の景色や、未来のコミュニケーションの形がどうなっているか想像もつかないが、2010年という古びた過渡期の時代を生きるわたしには、ただ誰かに向 かって祈りを込めて手紙を書く、ということだけが、ほとんど唯一の、誠実な方法であるようにも思う。だからこれは手紙です。鳥公園という演劇ユニットの存在が、どこかの時代の誰かに届いて、ほんの少しのあいだ記憶に留められますように。

かしこ

(初出:マガジン・ワンダーランド第188号、2010年4月28日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
プルサーマル・フジコ
2010年4月より、ミニコミ誌などに雑文を書き始める。5月末発売予定の雑誌「エクス・ポ テン/イチ」(HEADZ発行)にも登場予定。個人ブログ「プルサーマル・フジコの仮テント」。

【上演記録】
鳥公園#3『おばあちゃん家のニワオハカ』
東京・市田邸(2010年03月17日-23日)(休演日:2010年3月19日(金))

作・演出:西尾佳織
出演:森すみれ、井上知子、笹野鈴々音、鈴木克昌

舞台美術・小道具 / 大泉七奈子
衣裳・制作 / 飯田裕幸
音響 / 佐藤尚子
web / 森淳・すみれ
チラシデザイン / 寺木南
チラシ構成 / すみれ
写真 / 塚田史子
企画・製作 / 鳥公園

一般前売:1800円、学生前売1500円、当日:2000円

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