劇団ナカゴー「パイナップルの食べすぎ」

◎ナカゴーに荒事の髄を見る
 カトリヒデトシ

 ナカゴー「パイナップルの食べすぎ」を見て、「助六」だなぁ。という感想をもった。たまたま他の劇場で一緒になった事務局の大泉、都留両氏にその話をもらしたところ、それでレビューを書いてくれと依頼を受けた。このところの「クロスレビュー挑戦編」などで、これは演劇だとは思わない、というようなことを放言している。それは3月に大病をし、以前とやや演劇観が変わってきた個人的事情もあるのだが、自分がなにを演劇だと感じているか、何に演劇性を強く感じるかがよりはっきりしてきたからなのである。そのことについて書いておくのはいい機会だと思い、書かせてもらうことにした。

 「パイナップルの食べすぎ」はホームドラマの体をとって始まる。事実婚の二人(鈴木潤子、加瀬澤拓未。重要かどうかわからないが結婚へのこだわりが後半現れる)のところへ近所の少女(藤原よしこ)が遊びに来ている。彼女は家にいるのを好まず週末というとこの二人のところへ遊びにきているようだ。その家のペットがお目当てらしい。そのペットは掃除機で、擬人化された動きをするために女性が操作している(当日パンフレットのキャスト表には掃除機は1役で載っていて操作者は「ヒト」として載っている)。掃除機も藤原になついていて二人は動物王国のような熱いスキンシップのじゃれ合いをしたりする。掃除機がペットという設定はいいとしても、それを擬人化する操作をする人には人格がなく、セリフもない。「先週ヒトを殺しちゃって取り替えたばかりだからまだよく慣れてない」という説明がされる荒唐無稽さはナカゴーの凄さである。そこに近所に住む「シンクロ少女の名嘉さん」と現実そのままの設定の名嘉友美が遊びにきて食事をねだる。4人はきわめて平穏な休日をそこで過ごし始める。そこに藤原のバイト先の店長(千葉謙太郎)がストーカーのごとく訪れる。訪問の理由ははっきりせず、嫌がる彼女を尻目にずかずかと上がり込み団らんに加わっていく。さらにペット仲間でそのペットが死んだためペットロス症候群で精神的バランスを崩している女(墨井鯨子)が訪れ、事態は急速に展開し始める。まとめると驚くほど、ごく普通な話でナカゴーの芝居とは決して思えない(もちろんペットが掃除機とかはあるが)。そのペットロスの女が自らの喪失感や二人へのあこがれを語りだすあたりからエキセントリックさの温度があがってくる。「掃除機を譲ってくれ、こんなに私はつらいんだから」「あんたたちは幸せなんだから、私を救う義務がある」とキレはじめ「なんで事実婚なんだ恥ずかしくないのか」となににもかににも難癖をつけだし、途中からはそこにいた4人全員への悪口、悪態、罵詈雑言の矢襖の攻撃が繰り返される。ここのとろこの墨井の悪態が見せ所聞かせ所なのだが、稽古するのも大変な場面なので、墨井の役者としての力と精神のタフさが求められるなかなかつらい芝居の場面であった。墨井は日によって出来不出来があって悔しいこともあっただろうが、その重責をよく務め芝居を支えていた。思うさま暴れた女が去っていくと店長も去り、名嘉ちゃんも去り、少女も帰宅をうながされ休日は静かに終わっていくのである。

 ナカゴー自体、その斬新さと破天荒なデタラメさ、ところがそこで紡がれる「世界」の文学性の異様な高さなどで今後ますます注目され、多くの階層やレベルや方法論での考察を必要とされていくだろう。たとえばデタラメは簡単そうに思われ、現在の評価では軽んじられがちであるが、何度みても感心させられるデタラメさというのはランダム性を排除した精緻な計算に基づくものであることをナカゴーは教えてくれるし、考えることは多いはずである。

 今回はその多様な魅力のほんの一端を「悪態」ということで考察していきたい。

 ひとつの作品を見たときに、「あ、これは○○と同じだ」という感想を持つことがある。これはその作者なりのオリジナリティを否定したり、軽んじたりするつもりからでは一切ない。私の興味関心がそういった物語の祖型といったもの、ストーリー紹介の手順という意味でのプロットのパターンに引きつけられやすいということがある。たとえばこの「パイナップルの食べすぎ」は本谷有希子の「幸せ最高ありがとうマジで!」(2009年第53回岸田國士戯曲賞受賞作)と「似ている」と感じてしまうのが私の感性だ。

 平和に暮らす家庭を訪れた人物がその家庭を破壊しようと暴虐の限りをつくすというプロットに親戚関係を見てとってしまう。もちろんプロットはプロットにすぎず、その語り口、ものがたりかたにこそ肝や妙があって作品の質や価値が決まるのだから、最終的にその二作は全く異なるものになるのは当然である。「似ている」と感じるのも直感で、今までの演劇体験から導かれた、多分に恣意的なものである。「似ているからどうだ」と単純に行くものでもないのは当たり前のことである。

 そんな私だが、この作品には「助六」を感じたのであった。 「助六由縁江戸櫻」という外題で歌舞伎十八番の一作として知られるが、半可通を承知でいえば、歌舞伎といえば助六や揚巻の姿が思い浮かぶほどポピュラーな演目でありながら、団十郎以外が助六をつとめる際にはタイトルや音楽が変わるというほど重要視される演目であり、十八番中最長で上演も最多な江戸歌舞伎の代表作である。曽我ものでもあり背景も複雑でストーリーを理解しても作品として「おもしろい」かどうかは微妙なものである。しかし、衣装や台詞回し、かけあいなど荒事のひとつの代表であることは間違いない。

 感心したのは墨井演じるペットロスの女の悪態である。彼女は訪れた鈴木、加瀬澤の家庭で自己の要求が通らないことから難癖をつけ始める。自分のペットの掃除機が「死んだ」のでここの掃除機がほしい。あなたたちは私にそうする義務があると主張する。それが徐々にエスカレートしていき、二人への激烈な悪態へと高まっていく。激高した墨井が言い放つ悪態の数数が実に衝撃的で、芸術的に感じるほどの暴力性を携えていた。こんな悪口きいたことない、という点だけでもおもしろいのだが、私はそこに助六の門兵衛仙平への悪態や揚巻の「悪態の初音」と言われる雄弁術にもとづく、とうとうとした言い立てと同じものを感じとっていたく感動した。

 「助六」は歌舞伎としては珍しい一幕一場の場面転換のないきわめて小劇場的な芝居で、上演に2時間を越える長丁場の作品である。この三浦屋格子先の場で見所になるのは、助六の男伊達と花魁揚巻との意地の張り合いや、二人の気っ風のよさ、悪役の意休がやりこめられ退治される痛快さである。前述のように二人が言い立てる啖呵、掛け合いは、「悪態」の本領であり、立役助六の最大の見せ場でもある。

 立役が悪態をつくにいたる経緯は、SFでジャンルになっている「ファーストコンタクト」を考えていただくとわかりやすいだろう。初対面のどぎまぎ、気まずさから生じるあるシチュエーションの中で生まれるものである。共同体に「客」(=【マレビト】)がやってくる【ことぶれ】と、内部の人間はまずだまって様子を見守る【しじまを守る】が、やがて抗しきれなくなって嘆願しマレビトに服従を示していく。それがマレビトとの出会い、初対面のシチュエーションであると折口信夫が打ち立てた学問大系・折口学は説明する。訪れる人は客であると同時に神でもあるし、また同時に共同体に害をなす怖ろしいものでもあるかもしれない。だからその緊張感、ためらい、態度保留といった初顔合わせの軋轢が生じ、それが主導権あらそいを生むのである。その緊迫の中で直接の力の行使を避けるために悪態の応酬【かけあい】がその場の収拾、結着のための代替にされるのである。マレビトは自らの存在を誇示し相手を恐れいらそうと悪態をつく【そしる】のである。内部は抗する手立てとしてその悪態の揚げ足をとったり、言いかえしたりする【もどく】のである(【 】は折口独特の意味をもつキーワード、折口名彙)。

 悪態は相手の口を封じ、屈服させるために発せられるわけだが、そのもっとも効果的な方法には奇抜な譬えや別の事物を引き合いに出しながら、周囲にいる味方や第三者を共感させ、哄笑させるやり方がある。「啖呵」が、「せきを伴って激しく出る痰」のことであり、「タンカを切る」とは「タンを治療する」ことでこれが直ると胸がすっきりすることから発したことばである。だから胸につかえている溜飲を下げるような、鋭く歯切れの良い口調が採用され、そのことばは聞き手を昂揚させるものとなる。聞き手はやがて観客に育っていくもので、そこには原初的な「演劇性」が誕生している。今となっては古典だろうとも、当時は同時代的にリアリティのあるのが悪態であり、機知に富む、痛快無比なものだった。

 落語の江戸っ子たちが織りなす放埒な悪態や啖呵、「いどり祭り」「摩多羅神祭り」「悪口祭り」など各地に残る悪口をいいあう祭り。文芸においても式亭三馬「浮世風呂」湯屋口論や、井原西鶴「世間胸算用」闇の夜の悪口の段には「おのれが女房はな、元日に気がちがうて、子を井戸へはめをるぞ」といった刺激的ないいまわしがあったし、明治になっても夏目漱石の「坊ちゃん」にも山嵐の悪口が手ぬるいと江戸っ子の坊ちゃんが「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云うがいい」と手ほどきをするシーンがあったりする。 墨井の見事で、感動的な「悪態」に、悪態の持つ特別な力=聖性といったものが畏怖をもって受け止められ重要視されてきた日本の文化の伝統が思い浮かんだのである。悪態には「言霊」としてのふるまいがある。言霊にはあらかじめめでたいことをいっておくと本当にめでたいことが起こるという「前祝い」=「予祝」としての機能があるとともに、「魂の荒ぶり」を鎮める機能がある。荒ぶる魂とは自然の荒々しさ、人の心を荒廃させる力のことである。

 「パイナップルの食べすぎ」では悪態が鈴木・加瀬澤の夫妻、そこに同席した名嘉、藤原をも台風のように暴力的になぎ倒していくのだが、墨井が去った後にはまた以前のような日常が回復し、みなそれぞれの生活へと戻っていく。それはストーリーの収束としてはごくまっとうなものであるとともに、どんなにひどいものだろうが、やがてすぎさっていくという穏当な農耕民族的ともいえる自然への処し方がみてとれる。嵐から凪ぎへと変化していくさまは観客にカタルシスをもたらす。今回の悪態は「予祝」とはかけ離れているが、共同体が嵐のような変動の後に再び平穏な日々へと回帰していくのに立ち会うことは、共同体の結束や構造が再強化されるのを目の当たりにすることになり、みているものを穏やかな気持ちにさせていく流れがある。そこにあるのは厳粛な「鎮魂」の思想だ。荒ぶりを鎮め、穏当なものへとかえていく機能もまた言霊の大切な働きであるのである。

 別役実が「ベケットと『いじめ』」の中で、「演劇には方法論化できない80パーセントの部分と、方法論化できる、要するに時代の世相に従って変えていかなければならない20パーセントの部分がある」といっている。その80パーセントは「演劇」の「変化しない部分」であって、「最終的にはわからない部分」「無意識な部分」、同時に「前時代からこれこれが演劇だよといわれてきたものを踏襲してきた部分」だと述べられている。現在の小劇場の中に、過去との結節点、特に「日本」的なものの出現を感じ、それを読み解くことが私にとっては演劇体験の喜びの重要な部分を占めている。そのため民俗学的な発想がその依拠するものになることが多いのだが、そういう解釈がはやらなくなった今でも、演劇のもつ「芸能性」は、明治以降輸入された近代劇が旧劇に属するものとハイブリッドして発展していく日本の演劇史の重要な根幹のひとつだと考えているので、そこをいつも自分の発想の根本においていきたいと思っている。その中でマレビトや流された「王」が困難を乗り越え成長し帰郷するという型を持つ貴種流離譚などの重要なタームらは日本演劇において「変わらない部分」であるはずだ。ナカゴーに助六を見て、私が大変満足なのはそういう理由からであった。
(初出:マガジン・ワンダーランド第241号、2011年5月18日発行。無料購読は登録ページから)

【著者略歴】
 カトリヒデトシ(香取英敏)
 1960年、神奈川県川崎市生まれ。大学卒業後、公立高校に勤務し、家業を継ぎ独立。現在は、企画制作(株)エムマッティーナを設立し、代表取締役。「演劇サイトPULL」編集メンバー。個人HP「カトリヒデトシ.com」を主宰。

【上演記録】
劇団ナカゴー ナカゴー特別劇場Vol4『パイナップルの食べすぎ』 同時上演「エクレア、ヘディング」「月餅」
阿佐ヶ谷 アルシェ(2011年4月26日-5月8日)
作・演出 鎌田順也

出演
鈴木潤子(ナカゴー)、エイキミア、加瀬澤拓未、墨井鯨子(乞局)、千葉謙太郎、名嘉友美(シンクロ少女)、藤原よしこ(ブルドッキングヘッドロック) 、掃除機

【エクレア、ヘディング】
篠原正明、鈴木潤子、髙畑遊、日野早希子、三越百合(以上ナカゴー)
飯田こうこ9KUUM17)、林生弥(ブルドッキングヘッドロック)他

【月餅】
篠原正明、日野早希子、鎌田順也(以上ナカゴー)
泉政宏(今夜はパーティー/シンクロ少女)、太田誉允(今夜はパーティー)
神戸アキコ(ぬいぐるみハンター)、正木尚弥、森勢ちひろ(ウンプテンプカンパニー)

ナレーション:池内志穗

スタッフ
音響・照明 ナカゴー
舞台監督 篠原正明
制作 波多野香織
web・宣伝美術 tutoji
前売り・当日 1500円

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