◎この世界がこのまま終わるまで、のマナー
堀切和雅
「低調」系演劇!?
ひどい名前の劇団だな、と思いながら、ちゃんと予約して開場前に受け付けを済ませて座を占めると、ひどい音楽が満ちている。うるさい。暗いから、本も読めやしない。わざわざつくったのだろう、面白い店名の電光看板が舞台上空に幾つも吊り下がっており、12畳くらいの正方形に組んだ黒い舞台には、小さなちゃぶ台というか、テーブル。置いてあるのは、ビール、ではなくあくまで発泡酒の缶。
もしかして噂に聞いていた「低調」系演劇なのか!? と思っていると、芝居はじつに低調に始まって、若者たちの特段なんでもない日の宴会だ。
普通にしゃべっている状態の演技、というのは、僕たちも含めて、アングラの運動とも切れた小劇場演劇が、バブル崩壊の頃に始めた流儀が、ひとつの伝統にまで彫琢されてきているのだな、と思った。そりゃ、みんなお金もないし、装置にお金もかけられないし小空間か劇場でない空間も使わなければならないし、で、外的条件からしても、この形式が深められるのには必然性があるのだが、とにかく、舞台と観客席の壁なんていうのは、それを暴力的に突破しようとしたセンパイ方にはもうしわけないが、もはや突破されるまでもなく薄くなっている。
と書いたところでねんのため最近の演劇にも詳しい人(僕はしばらく観劇ご無沙汰だった)に聞いてみると、「『脱力系』という言葉は聞きますね。『五反田団』とか『あひるなんちゃら』とか」ということだった。が、あとで述べるように、この舞台では脱力して見える中にも、葛藤というか、人間関係やセカイへのストラグルが内包されており、しかし起こることが全然輝かしくないので、「低調」という言い方もアリかな、と思う。
近い距離では役者の技量がモロに出るが、ここに集まった俳優たちは練度が高い。「現実感」へのピントを合わせたりぼかしたりを精妙にするのがこのタイプの演出の愉しめるところで、いまの観客はもはや、それで作り事を事実として観たり、メタレベルで観たりすることの快感に慣れていると思う。
観ているうちに、互いに説得しあおうとするときのもどかしげな手の動きなどが上手に誇張されており、それが「今の若い人ってほんとにこうなのかなあ?」と判断を迷うほど自然で、もちろん姿勢や視線の制御などもこまやかに自覚的で、出ている俳優が、皆ちゃんと板の上にいられるレベルであるのに、感心する。
そんな技術的彫琢をしてまでやっていることが何かというと、全然格調の高くないことで、ただ、そこにいるトモダチ同士が、互いに、極度に気を遣いあっているように、とりあえずは見える。そのうち女同士の体いじりなどが始まって、「参ったな、そういうの?」と、でも演技は巧いので観ていたら、それでさえみんな大したことなどにはなりえない、ということが表明されている感じになり、また、そこに登場していた男たちも「とりあえず」同性愛者であることが示され、でも、もうセックスなんて「どうってこともない」前提なのだなあ、と、自分も若い頃にはいくらかはそういう感じになった、ことを想いだした。
これらは基本的に良いことで、とくに、恋愛の対象はその人の欲求によって、何だっていいじゃん、というのは賛成。トッド・パール作、ほむらひろし訳の絵本に『いろいろかぞく』というのがあって、これは、お父さん二人の家族も、お母さん二人の家族も、もらいっ子の家族も、動物と人間の家族も、みんな家族で、みんな世界で一番! というラディカルなもの。これを僕は、小学生の娘とまだ一緒の蒲団で寝ながら読んで聞かせて、いまのうちに洗脳、というか、この世で正しいことのひとつ、と教えている。
むかしはディスコミュニケーションにさえ気がつかなかった、ものだ
出ている若者はみんな服装からしてチャラいのだが、これが「大学生」という設定であると知って軽く驚く。こんな宴会をして、体いじりぐらいしかやることがないのが大学生なのか。あまりに大勢の人たちが大学に行くようになって長いし、世の中がシュリンクしてその学生たちも夢も大きな物語も語りようがなくなったから、まあこれが普通の若者、として差し出されているのだろう。僕より上の団塊逃げ切り組には解りようもないかも知れないが、僕の世代は20代で成長期の最後の残り滓としてのバブルの狂い踊りもその終わりも体験したので、少しは解るような気もする。数年前まで大学で教えていたのだが、表参道にあるその学校でも、女子学生たちはおしゃれにぎらぎらする余裕もなく、資格くらいは取得しておかないと就職もできない、という現実を理解し、質素に、日々を大切に生きていた。
大きな物語に酔って相互のディスコミュニケーションに気がつかなかった過去の世代と違って、いまの若者はコミュニケーションの通/不通を極度に気にかける。上の世代が言うように若者にはコミュニケーション能力が不足しているのではなく、それが「通じていない」ことをちゃんと解ってしまうから、口ごもり、仲間内の言語空間に撤退し、細部を確認しようとし、言語が機能しないのであのようにもどかしげに身振り手振りと共に発語するのだ。アートは、ときに正確な時代の写し絵を生み出すことがある、という機能を持っているが、この舞台の低調ぶりは、現状の直視または直観から生まれるものだ。そして観るわれわれは、気遣い合うようなその気配のやりとりに、一瞬にして自分も他人も引き裂いて血塗れにしてしまうような、ひりひりとしたものが内包されていることに気づく。「今の若者にはやさしいところがある」というのも本当だが、それは、ちょっとした言い違いや、気分の気圧変化で、徹底的に空しく白々しく一瞬で消えてしまうような、恐さを持つ。「やさしさ」と、「人格的なひとごろし」が、すぐ隣り合っているのだ。
過剰な気づき、という病気
「リミックス」と謳う所以は、この公演がこのグループの過去公演から4つの場面を切り貼りしたものであること。2番目の場面は、他人には見えない「恋人」が視えているらしい、もてないタイプの青年の話。シーンの間に、あのうるさいひどい音楽が戻ってくる。ここではたと、「こんなうるさい曲を流すのは、いったん前のシーンを忘れろという、『リステリン』的うがい効果?」と、演出者の深謀遠慮を想定してしまう。そしてシーンの終わり近くなって、シーンが終わる理由を、その「恋人」が「今回はそういう企画だから」というようなセリフでメタ言及する。すると観客も安心と共に笑う。
ここには、この種の演劇手法の爛熟を感じるが、まあそれ自体はもはや軽いエピソードでしかなく、この舞台の場合には僕は、結果的に、4つの場面の作・演出者の世界の感受とそこへの働きかけの癖というか、病気みたいなものを感じる。あとでパンフレットを見たら、「国分寺大人倶楽部は『愛・青春・死』を描く劇団です」とか、「おまけの10分間演劇は鼻糞ほじりながら書きました。観ないほうがいいです」とか、そんなにいやらしくはないが、余計なことが書いてある。これは過剰な留保癖というべきで、しかし、この舞台が現在の写し絵になっているとすれば、たしかに、世界は現在過剰な留保に満ちている。もちろん震災や飢餓や紛争というのは話がべつで、ここでそれらに便乗的に触れてポーズを取ることもないし(留保とは逆に、そういう「配慮」の過剰というのも、ある)、このグループが直接それに触れるなんていう大それたことを今回しなかったのも正しい。
逸れたが、芝居にメタレベルをかけるのは、「直言を避ける」という姿勢の表明でもありうる。これは善く働くこともあるし、単なる保身の姿勢であることも、ある。
そのへん、またどっちとも言えないしつこく複雑な舞台に構造化された留保ぶりが、このお話しと演出の味だ。
残り二つのシーンは、一転どろどろとしていて、「『愛・青春・死』を描く、というのは半分本気だったの?」と思わせる、劣情・みっともなさ・業のごとき繰り返し、の塊だ。
いやになったが、4本を「リミックス」するに当たって、その登場人物を関係づける、というお約束の手法は軽々とやってのけているし、登場人物が「しりとり」を暇つぶしにやっていることに、終幕の感情の高まりを絡め、「くりかえすことをくりかえしている」というこれまたメタな、人間への視線をしれっと織り込むなど、この作者のやることが簡単には無視できないレベルのものであることが随所に示されていて、全体として力を抜いたふりをしながら、観客の心を離さないようにする、というワザはあるよ、という言外の言明がされている。
このように、文章を頭の中で書くことによって観る現実が多層化してしまうのを病的なメタ認知と言う。台本を書く作者の中にも、これがあるように思う。
そうそう、観ていない人のために、どういう4つの場面がリンクしているかを簡単に示しておくと、1,若者の宴会と同性間の愛の駆け引き(「ストロベリー」)、2,ひどくモテない「おたく」という設定の青年が、他の誰にも視えない「ガールフレンド」を得るが、訪ねてきた友達には「視えない」ので、どうも青年はオカシくなってしまったらしく、友達は急速に引く(「ガールフレンド」)、3,父子家庭に、姉と弟がいるのだが、弟のところに来ている家庭教師と一家で、ぎこちない会食になる。のちに、父は、死んだ妻がわりに、娘(姉)と近親姦していることがわかる(「グロテスク」)、4,ラブホテルに籠もりっきりの男女の、しりとりしながら愛を確認しあっているらしい停滞した様子(「ホテルロンドン」)の各場面間で、2のおたく青年の女友達が、3では弟の家庭教師であり、3の姉が、4で男の永遠の愛の確認を求める女となり、しかし短い暗転のあとで、10年後だったかには別の男と寝ている、というつながりになる。
何度も言うが、役者は皆練れていて、「ガールフレンド」を幻視する青年を、「うん、僕にも見える見える」と騙そうとして気づかれ、逆ギレして怒り出すスピリチュアル系を自称する青年などは、ほんとにその役者が憎たらしくなってしまった。また、学習遅滞で、身体のバランスも悪く、しかし性欲をそそけ出している少年の役などは、あまりに演技がうまいために、かえって「お前ら、これはまさか本気で覚悟してやっているんだろうな!?」と、ちょっと心の中で気色ばんでしまった。
まあ、そういうのも、演技の水準が高くてこそ、初めて起こりうる感情。
だけれども、4本の演劇のおいしいところを束にして、それぞれが底流とする空気を、「おいしいところ」への伏線代わり(たぶん)に使い、まとめてしまうという案はすぐれているが、そうすると、もともとの1本1本の細部はtoo muchではなかったのか? まあ、観ていないのでわからない。
私の結論
すべてを相対化するのは、安全な思想ではある。性的志向を問わないというシークエンスには、良い意味で、「日本もアメリカのやうになりましたね」という感慨を覚えた。そのこと自体は善いことと思うほかなく、他者の他者性をとりあえずは認める姿勢、というのは、いまの若者には基本として広まっている、と感じる。
ただ、演劇表現をしながら何度でもその相対化を行うのは、他者を害すまい、という意味での安全な思想ではなく、単に客に突っ込まれないための「安全思想」なのではないか? という疑いも残る。
相対主義的な社会観・世界観は、その根拠が緩いものでしかない場合、一転してロマン主義的な激発を許す土台となってしまうと考えられる。そういう、ロマンに狂うのもまた、いいんじゃない? という惰弱な姿勢は。もちろん、ロマン主義はあっていいし現に僕にもあるのだが、人間のそういう性質には、ちゃんと対峙しないといけない。
別の例で言うと、たとえば、すべてが相対的で、数が多ければ正しい、すべての価値は相対的だ、という民主主義ではなく、「戦う民主主義」が必要だ、というようなこと。もちろん、「戦う民主主義」を支える情念がロマン化することもあるので、どうせそういう無限運動をするしかないのが人間の性質なのなら、将来そういうことにも、頭を使ってみてはいかがでしょうか?
相対主義を超える、より原理的に個の安全を担保する思想は、「ダイバーシティ」を絶対的に擁護する、ということだ。これは数学や論理学の理屈を使っても証明できる性質のことだと予感する。ダイバーシティはもともと宗教や民族の多様性のことだが、最近は性的指向や、障碍・健常者の別や、老人や病者といった特性を、包括的に認めようという考えを示すようにもなっている。生物種の多様性もダイバーシティで、多様であるからこそ全生物の絶滅が避けられる、という確率論的な話になっているが、僕は、「何かが正しい」と決めることはつねにそれが間違いである可能性を残すので、安全のための思想として、多様性はまず擁護する、というふうに考えている。
これは、「何かが正しい」と決めることは危険だと言いながら、「多様なのは正しい」と、決めること。こういう種類の逆説を通らないと、意味の問題は語れない。これは存在論・認識論でも同じで、観念論のなかに「我思う、ゆえに我在り」と、アンカーを打ち込むようなこと。
この舞台では、多様性が認められ、「弱くある自由」(立岩真也)が認められている、ということまで望めるようにも見える。しかし、作者の立つ韜晦的な姿勢によって、いまひとつ、正体が掴めないようでもある。それはいいのだが、それを達成としないで、すべての相対化から、ダイバーシティの肯定にまで、このグループのやっていることが、やがて達することを信じ、たい。
おまけ(鼻糞ほじりながら、ではない)
と、一応書き終えて思い出したのだが、社会学者ということになっている宮台真司さんは、若者に向かって「『終わりなき日常を生きろ』! と喝破する」という形容矛盾のような致命的な誤りをおかしておきながら、それは間違ってましたと謝った、のはいいが、その後には、「あえて『亜細亜主義』を」とか、「あえて天皇を召還する」などと言い出した。宮台さんというのは、必ずしも悪いことではないが、「あれもこれも取ろう」とするタイプの人で、あれだけ好き勝手に行動しながら、大学のポストは決して離さない、という賢さを持っている。
それは、繰り返すが、悪いことではないが、ちょっと憎たらしいな、という感じもする。とくに、浪漫主義を「あえて」と言いながら持ち出す手つきは軽すぎて、その怖ろしさを認識はしているだろうに、まだ言うか、それともそう「あえて」言う自分の影響力をあらかじめ留保する再帰的な釈明姿勢? とかいろいろ思わざるをえない。
影響力があるんだから、ちゃんと自分の存在を賭けて、相対的にではなく、言って下さいよ、ということ。つまりこの人は、指揮官として一兵卒を死なせることはあっても、その逆は絶対やらない人なのだ。悪い面での、エリートの自覚がある。
この演劇の作者が、そういう種類の賢い人だとすると、ちょっとやだな、というので、連想した。
そんなことまで考えさせるのは、やはり観る価値のある舞台だったな、ということです。
もうひとつおまけ。「叙事詩の堕落したものが小説である」という考えを1967年の講演でボルヘスは紹介した(『詩という仕事について』岩波文庫、所収)が、倣えば、古代的な「詩」も近代の「ロマン/ドラマ」も機能しない現在を、精確に捉え、堕落しきった状態を舞台に置いたのが、今回の「リミックス2」だと言える。ただ、よく思えば分かるように、韜晦や留保なしの「真情」が一点確保されれば、この堕落しきった状態から「ドラマ」も「詩」も再び現れてくるはず。その覚悟が作者と演者にあったと見るかなかったと見るかが、この舞台を真面目に評価するべきかどうかの、岐れ目だと思う。
(2011年7月5日一部修正)
【筆者略歴】
堀切和雅(ほりきり・かずまさ)
1960年生まれ。学生の時にはバンド「スーパースランプ」結成。岩波書店入社の年以来、劇団「月夜果実店」主宰。青山学院女子短期大学教員(領域:表現)を経て、エッセイスト。ユビキタスタジオという、ひとり出版社もつくったが、良い本は売れる本ではないという現実の前に立ち往生状態。
著書に『「30代後半」という病気』(築地書館)、『娘よ、ゆっくり大きくなりなさい-ミトコンドリア病の子と生きる』(集英社)、『なぜ友は死に 俺は生きたのか? 戦中派たちが歩んだ戦後』(新潮社)など。
【上演記録】
国分寺大人倶楽部×王子小劇場 番外公演2『リミックス2』
脚本・演出 河西裕介
王子小劇場(2011年6月14日-19日)
(第5~8回公演の4作品を約20分ずつの短編にリミックス-『グロテスク-remix-』『ガールフレンド-remix-』『ストロベリー-remix-』『ホテルロンドン-remix-』)
出演
後藤剛範 加藤岳史 大竹沙絵子 坂倉奈津子 深谷由梨香(柿喰う客) えみりーゆうな(世田谷シルク) 大塚秀記 根岸絵美(ひょっとこ乱舞) 今村圭佑(Mrs.fictions) 小針まみ(ニャンニャン★シコリータ) 小田尚稔 小西耕一
スタッフ
舞台美術・宣伝美術/井上紗彩
宣伝写真/堀奈津美(*rism/DULL-COLORED POP)
舞台監督/伊藤智史
照明/保坂真矢(Fantasista?ish.)
音響/田中亮大 衣装/大竹沙絵子
制作/会沢ナオト(劇団競泳水着)
協力
柿喰う客 世田谷シルク ニャンニャン★シコリータ ひょっとこ乱舞 Mrs.fictions ひとつだプロダクション
チケット料金
【前売】2,800円 【当日】3,000円 【中高生】20円(枚数限定、前売のみ)
【×王子小劇場】
「×王子小劇場」は王子小劇場が、作品としてはもちろん、興行的勝算にも期待ある団体・企画に対して行われる、共催レーベル。劇場使用料金ではなく、有料入場者数×(一定金額)円の従量課金システム。リターンもリスクも、団体と劇場が分け合う。作品づくりの段階から団体と劇場が連携し、宣伝・広報にも力を入れる。
小西さん、お名前を欠いて申し訳ありませんでした。先ほど追加しました。お確かめください。