G.com 「実験都市」

◎天才になれなかったぼくたちのために-文芸部員としての最終リポート
 水牛健太郎

「実験都市」公演チラシ
チラシデザイン=栃木香織
イラスト=池田盛人

 七月三十日、土曜日の夜の回を見終わった後、主宰の三浦剛にG.comからの脱退を申し出た。二〇〇九年の一月から二年半、わたしはG.comの文芸部員だった。舞台化された作品は遂になかったし、実態はご意見番+雑用要員のようなものだったけど、内部の人間であったことは間違いない。しかし今年の三月下旬に京都に引っ越して、今回の公演は全くかかわることができなかった。
 今回の作品はなかなかよいと思った時、ワンダーランドに評を書こうと思いついた。それだけの価値がある公演だった。内部関係者が劇評を書いても信用されないから、けじめとしてG.comは辞めることにした。それでも、もちろん、ふつうの劇評とはかなり違ったものになるだろう。いい置き土産になればと思う。

 『実験都市』は旧ソ連のSF作家ストルガツキイ兄弟の作品『滅びの都』に想を得たSF作品だ。人工太陽の輝くもとで、全人類を幸福にするための実験を続ける「都市」。対立する「裏都市」との最前線に配備された安東(吉田朋弘)ら男たちのもとへ、裏都市出身の案内人(佐藤晃子)に率いられ、亡命を希望する一行が到着する。その正体は作家アルカージイ(内藤羊吉)と、彼の小説に基づいて作られた人間性回復装置(小石川祐子)、それに装置に魅入られたゾーエ(袴塚真実)。装置には顔がないが、見たものが最も安らぎを感じる者の顔に見え、いったんは人の心の底にある愛情を引き出す力を持っている。しかしスイッチが入って覚醒するや、彼らの頭脳からあらゆる「思い出」を消し去り、人間性を奪い取って、集合的な「肉の山」に変えてしまうという恐ろしいものだった。劇の始まる時点で既に人工太陽の点滅のペースがおかしくなるなど変調があるが、人間性回復装置の覚醒をきっかけに人類は一気に滅びへの道をたどり始める。

 舞台装置は、ソファが三つ、椅子が二つ。左奥に水道の蛇口が取り付けられバケツが置かれている(水は出ない)。この簡素な舞台で、音響と照明の助けがあるとは言え、あとは俳優の身体だけで、この壮大な滅亡と再生の劇を表現するのである。

 小劇場で人類の滅亡を表現する場合、いろいろな方法があるだろう。象徴的な表現を使ったり、身振り手振りを取り入れたり。最近であれば、メタフィクション的な構成によって「逃げ」を打つというのがありうる方法かと思う。小さな舞台で人類の滅亡を表現することは無理であるという認識を、観客にも共有してもらい、ハードルを下げるのである。記憶に新しい人類滅亡劇・五反田団の『生きてるものはいないのか』はメタフィクションではないが、舞台上で登場人物が一人ひとり死んでいくことを延々と繰り返す。まさにその構成によって、それが「死ぬ演技」であるという認識を明確に観客との間に共有するし、観客は「死ぬ演技」のいろいろを楽しむという見方をする。その共有なくしてあの作品は成立しない。

 ところが、G.comが素晴らしいのは、それは同時に、小劇場演劇界の主流にG.comが受け入れられない理由でもあるのだが、百人も入らない小さな劇場の舞台で、人類の滅亡をまったく大真面目に、恥ずかしげもなく、表現しようとするのである。普通は無理である。しかし、選ばれた、力ある俳優たちがそれを可能に見せてしまう。いや、見ながら時々、やはり無理だったと思うのである。不可能だと。果たしてこれ、成立しているのか、していないのか。目にしているものを疑いながら、しかしもう一度信じながら見続ける。

「実験都市」公演から
【写真は、人間性を失い肉の山になろうとする人々。撮影=栃木香織 提供=G.com 禁無断転載】

 人間性を失ったゾンビのような人の群れに、案内人は身をささげ、やがて一つの肉の山と化してしまう。ドラマチックな音楽と照明。張った発声。負荷のかかりまくった俳優の身体。新劇? そう新劇かもしれない。しかし、新劇にありがちな立派なセットもなく、こんな小さな舞台で、わずか六人の俳優で、大真面目に人類の滅亡を表現しようとしているのだ。馬鹿らしくて、くだらなくて、しかし素晴らしくて、わけがわからない。G.comの作品をもう五年見続けているが、涙が止まらなくなったのははじめての経験だった。

 この作品は人類の滅亡と再生という壮大なテーマに徒手空拳で真っ向勝負を挑んだ。そもそもの無謀さゆえ、ストーリーには矛盾も目立つし、舞台上のリアリティを維持するのさえ容易ではない。それを埋めるのが俳優たちの身体であり、スキルだ。一歩踏み外せば、たちまち劇は空中分解し、観客たちは夢から覚めてしまうだろう。その意味で、舞台上で行われているのは紛れもなく本当の冒険であり、挑戦だった。

 G.comの最大の魅力はまさにここ。俳優の本気の挑戦が見られるということだ。今回の公演でも、大きな場面ほど力を発揮する専属女優・佐藤晃子を軸とした上記の場面のほか、相対する人ごとに違うキャラクターに変化するという難場面を含む人間性回復装置・小石川祐子の精緻な演技、人間性回復装置に死んだ娘の姿を見出した王(ワン)を演じる菊池豪の感情の爆発など、それぞれの俳優に高いハードルが用意され、それが芝居としての見せ場と一致していた。ハードルを超えようとする俳優の姿が、感情に訴える物語の内容とあいまって見る者の心を揺さぶった。

「実験都市」公演から
【写真は、人間性回復装置に死んだ娘を見出す王(ワン)。撮影=栃木香織 提供=G.com 禁無断転載】

 G.comは桐朋学園芸術短大出身の三浦剛によるユニットで、結成十二年になる。わたしは劇作家協会の二〇〇六年のセミナーで三浦と知り合って公演を手伝ううち、G.comの一員となった。G.comはシアター・トラムの「ネクスト・ジェネレーションvol.2」に選ばれ、二〇一〇年の一月に公演を行った。それで少しは名が売れたが、以前は全く無名のユニットだった。

 ネクスト・ジェネレーションは四日間で五公演のスケジュールだったが、初日が満席になったほかは、動員は振るわなかった。観客の心をつかめず、口コミが全然発生しなかったことは明らかだった。トラムという晴れの舞台で「ダメ」の烙印を押されたに等しい(その後、いろいろな酷評も耳にした)。大舞台に手堅く行こうとしたのが裏目に出たようだ。完成度は高いが、引っかかりのない舞台になってしまった。大きなチャンスに空振りしてしまったことに気付いた私は、三浦に「再浮上するのにあと三年はかかる」と言ったものだ。

 才能。才能ってなんだろうか。わたしのような評論家は、他人に対してはよく「あなたは才能がある」などといい、若い物書きや演劇人をそそのかし続けているが、自分に向けたとき、才能という言葉は痛いトゲを持った大きな謎として突き刺さってくる。

 たとえばわたしは二〇〇五年に、人から見れば華やかに見えるに違いない賞をもらって評論家デビューしたが、その後鳴かず飛ばずなのはなぜだろうか。客観的に言って「努力が足りない」か「才能が足りない」のどちらか、あるいは両方だろうし(「努力し続けることが才能」なんて言い方もある)、「要約」ということならばそれでいいと思う。

 しかし本人の目から見れば「要約」しきれないこともいろいろあって、たとえば、デビュー直後に、そうとは知らずに「押してはいけないボタン」をいくつか押したことも、今となってはわかっている。文壇ルールみたいなものに外れたり、暗黙に求められている振舞いを見せなかったり。

 もしそんなボタンを押さなければ成功できていたのか。それとも、そんな失敗を帳消しにするほど、「努力」か「才能」のどちらかがあればよかったのか。そもそも「どのボタンを押すべきか」をちゃんとわかるのも才能のうちなのか。「そんなことぐちゃぐちゃ言ってる時点で才能(もしくは努力)が足りないよ」という返事もありそうだ。

 たとえば野田秀樹ぐらい才能があふれていれば、「ボタン」とか関係ないだろう。若い時から周囲に天才と呼ばれ、それにこたえ続け、天才の看板を下ろさないまま栄光に包まれて一生を過ごす。天才には天才の苦労があるだろうから、単純に羨んでいるわけではない。しかし、そんな才能は明らかにないのに、自分が全くふつうの人間とも思えないというところに、わたしを含む多くの人たちの不幸の源がある。

 三浦剛に才能はあるだろうか。桐朋在学中は周囲に天才と呼ばれていたとか。本人の言だが、本当らしい。桐朋の同期生にハイバイの岩井秀人がいる。その後の二人の対照的な歩みを思えば、年端もいかぬ若者を天才呼ばわりしてもろくなことにならないと言いたくもなる。

 三浦との五年間の付き合いを振り返ってみれば、確実にいくつかの能力はある。空間把握の能力は優れているし、魅力的なセリフを書く。何よりも俳優に信頼される。傷つきやすく不安を抱えた俳優たちをなだめたりすかしたり時に叱ったりしながら、優れた演技を引き出していく。不思議なくらい、俳優という動物のことを知っている。三浦は基本的に能力のある俳優しか使わない。有名な人はいないが、どの現場でも俳優仲間の尊敬を自然に集めるような、職人肌で腕に覚えのある俳優たち。その彼らがみな、三浦の力を認め、呼ばれれば喜んで参加する。これまでの出演者の中には俳優座のベテランなどもいたが、相性のよしあしはあっても、演出家としての三浦を馬鹿にした俳優は一人もいなかった。

 一方で三浦に欠如している部分も極めて大きい。知識・教養がない。いくら促しても勉強しようとはしない。本を読んで「お勉強」することに不純なものを感じるらしい。他人の舞台もあまり見ない。批判的に物事を見つめ、歴史的・社会的に自分の位置取りを決めていくような知的作業とは全く無縁だ。

 尊敬すべきご両親のもと、愛されて育った三浦の価値観は、「家族」を無条件に信じるような保守性をはらんでいる。そのことは今回の作品にも如実に現れていた。価値観や感覚の先鋭性に大きな価値を置く人は、三浦の作品に耐えがたいものを感じるのではないか。分かりやすく言えばちょっとクサい、ということだ。

 知的作業をしないということと密接に絡んでいるが、三浦の演劇観はどうしたって古い。時代と切り結ぶような新しさには興味がない。三浦が時代の寵児になることはちょっと想像できないし、「いま」を映す演劇として評論の対象になることも、ないだろう。

 これらの点に関しては、わたしなりにいろいろ努力したこともあったのだが、三浦は変わらなかったし、これからも変わることはないと思う。三浦は、自分がいいと思うものを、自分がいいと思うようにやっている。「嘘のなさ」を時流に乗ることよりも重視していると言えば格好良すぎるか。

 だから、演劇の「いま」を知りたければ、G.comを見に行く必要はない。そう断言してしまおう。きらきらした才能たちが「いま」を鮮明に彩るのが、小劇場演劇の魅力だと思う人。知的な位置取りに興味がある人。センスがすべてだと思う人。いずれもG.comは見なくていい。

 ただ、「演劇の『いま』」よりも「演劇」の方が大きい。インテリジェンスよりもセンスよりも演劇は大きい。だからG.comのような芝居もある。才能は限られていても、俳優たちと真剣勝負で、作品を作り上げてきた。歩みは遅いが、確実に一歩ずつ進んできた。

 三浦にとって、G.com立ち上げ以来の年月は、「天才」と呼ばれた過去との戦いだったのではないか。わたしと出会った五年前、三浦はまだ周囲に自分の天才性を印象付けることに余念がなかった。その実は、自分の才能に不安を抱いて、保証を欲しがっているように見えた。三浦はその後、少しずつ軌道修正を図ってきた。自分の実力にふさわしい自然な自信を培って、少しずつ成長しようとしていた。しかしそれは、どんなに厳しい道のりだったか。わたしは想像するだけだが、一度自分に約束された全能感を捨て去って「ちょっと才能のあるふつうの人」になるのは簡単ではないと思う。

 二〇〇九年にわたしともう一人、脚本家の岡田久早雄さんが「文芸部員」としてG.comに加わったが、その主な役割は、三浦の背中を押すことだった。二十歳にして天才と呼ばれた男は、三十歳にして壁の前で立ちすくんでいた。加入後、公演のスケールは大きくなり、扱う題材の幅も広がった。予算組やチラシ折り込み、広報など、制作の体制もこの時期にようやく整った。

 トラム以後の三公演はいずれも充実した内容だった。メディアに注目されるようなことは一切なかったが、観客からの受けはよかった。何よりも、最初は空席が目立つが千秋楽に向けて満席になるパターンが定着してきた。三公演の共通点は、俳優の存在感が前面に出ていることだ。G.comの魅力がうまく発揮できている。トラムの公演と違い、観客の心に届いている。当日券が出た。過去公演のDVDも売れた。固定ファンも少しずつ育ってきた。

 今回の公演では高齢者の姿が目立ち、私が見た回では二~三割が白髪頭だった。中にはずっとお菓子を食べている人たちがいて、袋をがさがさ探る音が響いた。迷惑ではあるが、ふだん小劇場演劇を見ない人たちが来ている証拠であり、G.comの可能性を見るべきなのだろう。

 G.comはこれからも着実にいい芝居を作り続けるだろう。小劇場演劇シーンとは関係ないところで、ちゃんと成長し続けるだろう。もう大丈夫。わたしの役割は終わった。

 わたしはこの劇評を、G.comの今後のための参考になるようにと思って書いた。そしてコアな演劇ファンにうまく伝わりにくいこのユニットの魅力を知ってほしいと思った。あえて問題点も書いたけれど、それでもこの文は公平な劇評なんかではちっともなく、むしろG.com文芸部員としての最終リポートになった。

 最後に『実験都市』の主人公・安東の最後のセリフを引用して、G.comでの二年半に幕を下ろそう。

 みんな聞いてくれ、
 僕は無力だ ものすごく無力なんだ
 けど、それがなんだってんだ

【著者略歴】
 水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
 ワンダーランド編集長。1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。大学卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。2011年4月より京都在住。元演劇ユニットG.com文芸部員。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ma/mizuushi-kentaro/

【上演記録】
演劇ユニットG.com 『実験都市』
中野・劇場MOMO(2011年7月27日-31日)

作/演出 三浦剛
出演
 吉田朋弘(オフィスわぁまる)
 佐藤晃子(演劇ユニットG.com)
 古口圭介(演劇企画 夜の樹)
 菊池豪
 袴塚真実
 小石川祐子(REAL WAVE)
 家紋健大朗(ドリームスター)
 重盛玲架
 内藤羊吉(ジョイントオフィス)
舞台監督 山内大典
照明 橋本剛(colore)
音響 岡村崇梓
衣装 橘佳世
大道具  奥田晃平(演劇ユニットG.com)
宣伝美術 栃木香織・池田盛人(イラスト)
制作 奥田英子、中島みゆき
文芸部  岡田久早雄、友田健太郎、三浦実夫
協力 蕎麦処「美濃戸」、山岡信貴、演劇企画夜の樹、オフィスわぁまる、ジョイントオフィス、ドリームスター、株式会社REAL WAVE、 ハイバイ、黒色綺譚カナリア派、箱庭円舞曲
企画製作 演劇ユニットG.com
チケット料金 前売り3600円/当日3800円/初日割3000円

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