◎500円の価値
伊藤寧美
会場に入ると、『資本論』の次の一節がスクリーンに表示されている。
「商品は、自分自身で市場に行くことができず、また自分自身で交換されることも出来ない。したがって、われわれはその番人を、すなわち、商品所有者を探さなければならない。商品は物であって、したがって人間に対して無抵抗である。もし商品が従順でないようなばあいには、人間は暴力を用いることができる。(『資本論(一)』マルクス・エンゲルス編/向坂逸郎訳、岩波文庫、1969. p. 152)」(註1)
開演前の諸注意のアナウンスに続き、司会が短いデモンストレーションを行う。彼女が舞台上の俳優のもつグラスに500円硬貨を入れると、彼は少しポーズをとって見せるのだ。次いで司会は今回の公演費用の内訳を聞き取れないほどのスピードで読み上げ、その最後に、以上の決算の結果本公演の値段(すなわち入場料と経費の差額を観客数で割った金額)は500円である、ついては観客に500円を返金する、と述べる。作品は、ここから始まる。
作品は、観客と舞台上のインタラクションに重点を置く前半部、俳優間のインタラクションを見せる後半部に分かれる。この媒介になるのがこの500円である。
前半部は、舞台上の俳優に観客が500円を支払い、演出を付ける、というのが基本的な構成である。俳優はあらかじめ決められた台詞を朗読し、随所で司会が台詞を中断させ、観客に演出を募る。観客からの演出指示は原則自発的に行われ―つまり演出には参加せず、返金された500円を持ち帰ってもかまわない―またその内容は、私の観劇した上演では、可否は一切問われなかった。演出の内容は随時箇条書きにスクリーンに表示され、俳優は相反する複数の指示が出ても全てに応えることが要求される。
最初のいくつかの指示は、観客は手探りで出していた。台詞の一部を英語に変える、方言で話す、その場から動かずに、など、ちょっとした罰ゲームを見ているような、無害であり、退屈でもある内容だった。だが次第に、どんな指示が面白いのかという方向に場内の意識が向いてくる。文の終わりに一発ギャグを入れる、山下残のような動きで、など、ともすれば台詞が言えなくなるような無茶な指示も飛び出してくる。演出内容が次第にエスカレートしていく中、私がそこに参加したのは次の場面だった。
前述の、その場から動かずに、という演出指示を俳優がこなしていないという状態に言及して、ある観客が、俳優の足を縛る、という指示を出した。次いで、舞台上に縛る道具がないという事態を受けて、演出の谷竜一氏が(彼も500円を払い)舞台上にテープを置く、という指示を出した。俳優はそのテープを用いて自分の両足を縛り演技を再開した。
この一連の場面は他者の身体的自由を奪うという点で極めて暴力的であり、またそれまでに出されてきた演出指示が次第にエスカレートしてきたことを踏まえれば、いずれ彼を精神的、身体的に傷つける指示が出るだろう、と考えられた。これらの演出がその場かぎりのパフォーマンスであり、かつ出された演出に対価が求められるからこそ、一層その危惧は増した。
その次の中断で私は挙手し、先に出た二つの演出を取り消して欲しい、と要求した。だが司会の返答は、500円で取り消せる演出指示は一つまでである、だった。では「テープを外してください」と私は告げ、500円を支払った。この時、舞台上のスクリーンにリストアップされていた演出指示に新たに追加された項目は「↑の演出を取り消す」であり、矢印の先にあった演出は谷氏が出した「テープを舞台上に置く」だった。演技が再開されると俳優は、さらに両足にテープを巻きつけた後、テープを舞台の外に放り投げて台詞を続けた。
「足に巻きつけた」テープを外せ、という私の演出意図は少なくとも司会には伝わっていたようだ。俳優がさらに足を縛りだした時、彼女は驚いた様子を見せていたからだ。私と司会とのやり取りか、オペレーターが文章を入力する際か、演出指示の取り違いがどの時点で生じたのかは定かでない。だが、少なくとも彼は意図的に「誤読」していた。それがわかるのは作品前半部の終盤、舞台監督が(やはり彼も500円を払い)安全上の配慮として、足のテープを外すという演出をした時だった。この指示に対し、彼はこう返す。「僕がこれをやっていたいんです。」
そのときやっと、このインタラクションの主眼は500円で演出の権利がやり取りされることではなく、金を持つ観客と空のグラスを持つ俳優との立場の不均衡を前提に、500円で何が要求できるのかが問われているのだと気付く。冒頭の『資本論』の引用によって明らかにされるのは、500円を払うことによって、自らの言葉が常に正しく伝わると考えていた私の金銭への無批判な信頼や、たかだか500円で舞台上の俳優を暴力から「解放」できると考えていた私の、自身が持つ特権に対する無自覚な態度である。
やがて演出リストが飽和状態になる頃、司会が進行を止め、作品は後半部へ移る。スクリーンには様々な文学作品や哲学、思想書等のテキストの断片的な引用が、その書籍の価格と共に次々に表示され、全く異なるコンテクストにある複数の作品が、一つの語りの流れにあるかのように巧妙に配置される。
カート・ヴォネガットのSF小説が、西原理恵子のエッセイに編み込まれることで、両作品が突然ナンセンスなユーモアを帯びる。また、喩栄軍『www.com』と岸田國士『紙風船』は、夫婦の会話という一点によって結び付けられているにも関わらず、それぞれの作品の二組の夫婦が同じキャラクターを有するかのように見えてくる。作者や作品、登場人物といった要素の絶対性が失われていく過程が示される一方で、引用と共に表示される書籍の価格が、引用元となる個々のテキストが一作品として一定の価値を持つことを観客に思い起こさせる。
さらにWikipediaの項目をあえて引用しながら、出典が不十分であるためにスクリーンには引用箇所が表示されない、という挑発的な演出が「テキスト」の価値を一層問いかける。
【写真は、「不変の価値」公演から。撮影=石井飛鳥(虚飾集団廻天百眼) 提供=集団:歩行訓練 禁無断転載】
台詞を話す俳優は、会話の相手となる別の俳優に、やはり500円を支払うことで演技を要求しその会話を成立させる。舞台上の俳優のあらゆる行為が持つ経済的価値を500円硬貨を通じて可視化させるのだ。村上龍の小説に入れこまれる、会社経営者と二人の社員で行われる労働争議のやりとりでは、経営者役がシュプレヒコールを黙らせるのに500円を社員役に支払い、再び声を上げさせるためにもう一人の社員役が黙りこんだ社員役に500円を支払う。
金が支払われる限り演じるという原則の下では、演じる役柄や台詞、他者との関係性はもはや問題にはならない。俳優のいかなる行為にも経済的価値が発生するという点のみが、繰り返しパフォーマンスされる。
しかし、引用テキストや俳優の行為のはらむ経済的価値が徹底的に露わになると、逆にそれらの価値は相対化され、500円の価値もわからなくなっていく。スクリーンに表示される書籍の値段は高いのか安いのか、妻の役を共演者に要求する時に支払う500円と、共演者のシュプレヒコールを黙らせるのに支払う500円の価値は等価だろうか、と。そして作品前半部で、私たちが演出した内容と支払った500円は、本当に価値が見合っていたのか、改めて問われるのだ。
作品全体のクライマックスで、もう一度観客に500円で演出をする機会が与えられる。私の観た回では、この瞬間に挙手をした観客がいた。その演出指示は、しゃべらないで、というものだった。続く俳優の朗読は熱っぽく演じながらしかし一切声を出すことなく行われた。膨大な量のテキストを語り尽くした後で、俳優の声が消え去ってしまうというこの演出は見事に決まっていた。
だが、もはやここで500円を支払う意味はなくなっている。なぜならば500円の価値がわからなくなってしまった時点で、この演出を「何円」という尺度で測ることはできなくなっているからだ。にもかかわらず観客が「観たいものを観る」ために行う金銭の授受は、舞台と観客の関係性の不均衡を増してしまう。金銭を介した両者の関係こそがこの演出の美しさを損なうものだった。それでも、いかなる演出をするにもルールに則り500円を支払わなければならない、というやりきれない歪みの中にこそ「不変の価値」があることに私たちは気付くべきだった。
観劇後の夜に、私は個人的にこの作品の前半部分についてブログに感想を書いた。それに対し、出演者の一人であり、テープを足に巻くという演出をこなしていた人見功一氏からツイッター上で反応をいただいた。
人見功一(@kigekidaiho)「そうか、あのお客さんは僕を『守ろう』と思って演出取り消しを選択したのか」2012年11月24日8時49分ツイート。
同アカウント「あの取り消しに対する舞台上の僕の解釈は『楽させねぇぞ』という真逆のものだった。足縛ったままの方が絶対面白くなるに決まってる。『誤読』の前に『誤解』があったんだなあ。」2012年11月24日9時00分ツイート。
私はこの「誤解」や「誤読」を肯定的に捉えている。観客が金を払うことで合理化しかねない暴力から俳優が逃れる手段となりうるからだ。私の「テープから解放しよう」という思いさえ、俳優にとっては面白さを奪う暴力にもなる。だが、それ以上に私が自らの演出に対して後悔にも似た辛さを感じるのは、この誤解が500円の価値観のずれゆえに起きたものではなかったからだ。「テープを外す」という要求自体が500円に対して過不足ないものかという問いが私には浮かばなかった。むしろ金銭を介しながらも、何円払われても応えない、何円払っても求めたい、という経済原理を超えて作品の在りようを指向する両者のインタラクションゆえに、誤解が生じたのではないだろうか。歪みや誤解の中にしか「不変の価値」はないのかもしれない。だからこそ、この誤読に市場経済に対抗するかすかな希望を見いだし得るのだ。(2012年11月23日ソワレ観劇)
註1 谷竜一『不変の価値 ver. 2.1』(集団:歩行訓練、2012)。p. 2
【筆者略歴】
伊藤寧美(いとう・なび)
1988年兵庫県出身。国際基督教大学卒。東京大学大学院総合文化研究科修士課程在籍。専門はイギリス現代演劇、戯曲。2009-2010年、サセックス大学(英国)に留学。劇評に「避難所からの疎外―『完全避難マニュアル』考」(『シアターアーツ』46号)、「16年目の贖罪―『ピラカタ・ノート』考―」『act』20号)「回転舞台の上、ねじれた権力の形―新国立劇場『温室』―」(『シアターアーツ』52号)など。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a /itoh-nabi/
【上演記録】
集団:歩行訓練「不変の価値」( F/T12 公募プログラム)
シアターグリーン BASE THEATER(2012年11月21日-24日)
構成・演出:谷 竜一
出演:人見 彰、高橋勇作 ( 突劇!?喜劇病棟 ) 、斎藤寛貴 ( 劇団シバイヌ ) 、石下未和
スタッフ
舞台監督:眞鍋智裕(劇団シバイヌ)
音楽・システムデザイン:石井通人(buffer Renaiss)
照明:別府僚太 ( 突劇!?喜劇病棟 ) 、福岡嗣与 ( 万能グローブガラパゴスダイナモス )
宣伝美術:松見真之介 ( Morishworks )
制作:橋本奈々美
共催:フェスティバル/トーキョー
主催:集団:歩行訓練
料金:自由席 一般前売2,500円、プレビュー割引1,800円 *未就学児の入場は保護者同伴
★ポスト・パフォーマンストーク
11月22日(木)19:30 松田正隆(マレビトの会)×谷竜一(集団:歩行訓練)
11月23日(金)19:30 鹿島将介(重力/Note)×谷竜一(集団:歩行訓練)
11月24日(土)13:00 長谷川寧(冨士山アネット)×『不変の価値』出演者
上演時間 :100分(予定)
*11/23(Fri) 13:00 日本語上演、英語字幕付・英語同時通訳あり
*11/23(Fri) 19:30 Ustream中継あり、Twitterからの参加可能 #fuhennokachi