東京デスロック「シンポジウム」

◎「対話」をめぐる響宴-繰り返される期待と裏切り
  落雅季子

 東京デスロックの演劇は、少し私を警戒させる。どこかへ連れて行かれるような気がして、安穏と観てはいられない。それがどこかはわからないのに、思案しながら自分の足でそこまで歩くことになるような予感を抱えて、私は彼らの公演に訪れる。2012年の『モラトリアム』、『リハビリテーション』の頃から、彼らは舞台と客席の境界を曖昧にしていくなど、観客との関係性を構築し直し、作り手と観客双方のアイデンティティを問い直す試みをより先鋭化させてきた。今作『シンポジウム』は、その問題意識の線上にある一つの到達点と言える。

 床まで白く設えられた部屋には、カメラで会場の様子が壁の三方に映されている。壁に沿って椅子が並べられ、タオルや文庫本といった私物が置かれているだけの空間。やはり、舞台と客席どころか、客席同士の隔てもない。椅子以外の場所の床に座るようだ。壁際から徐々に空間が埋まってゆくのを見ながら開演を待つ。出演者とおぼしき人々が現れ、開場中の時間と地続きに、椅子にひらりと座った。準備が整ったのを見定めて、藤原ちからがこう言った。「それでは、シンポジウムを始めます。」

■シンポジウムの始まり
 出演者自らの宣言により、シンポジウムは始まった。本作は哲学者や喜劇作家、医者という異業種の人間たちが語り合う、プラトンの『饗宴』をモチーフに作られている。富士見公演で一部入替があったものの、横浜公演には俳優に限らず、音楽家、ダンサー、編集者などのメンバーが東京、埼玉、青森、横浜、京都、ソウルから集められていた。「なぜ人は旅をするのか」「観光とは何か」「日本の新しい風」など、土地や政治に絡めたテーマを、司会進行を務める藤原が決めて提示するので、それについて彼らが話し合う様子を聞く。議論とそのフィードバックが繰り返され、その間、多田淳之介の操作するライブカメラは、ひとりの俳優を選んでズームしたり全体をぼかして映したりする。

 しゃべるなと言われたわけではないが、観客は集中したり上の空だったりしながら黙って聞くばかりだった。彼らが語る様子に感化されて、議題に対する自分の意見を掘り起こされる感覚は大いにあった。『シンポジウム』の名のもとに行われた議論は、実際ほとんどうまくいっていないように見えたし、話したい内容の組み立てがうまく出来ないパフォーマもいて、核心に至る手前で話が空回りする場面もたびたびあった。でも、そういう状況を観ることに一体どういう意味があったのだろうか。

 あの場にいながら、目の前で行われている議論について考えなかった人や、全く別のことが気になって(たとえばここで議論を聞かされている意味とか)聞くどころではなかった人もいただろう。あるいはこの演劇を観に来ない、東京デスロックのことを知らない無数の人たちを想像しながら目の前の議論を眺めると、また違う風景が見える。公演が参院選前だったこともあり、話の流れの中で「原発の稼働に反対の人?」と言って採決が取られた場面があった。そのとき、パフォーマたちは全員挙手した。少なくとも、その場では全員が反対だった。なのに、なぜ日本で反原発が進まないか?ここにいない人、いても手を挙げない人、声の届かない場所にいる人。無数の声と同時に無数の沈黙があることを見せる、象徴的な出来事だった。

■お茶菓子という仕掛け
 一つのテーマでの議論は20分程度。フィードバックを挟み、二つめのテーマでも20~30分話して同じくフィードバックがひと段落した頃、唐突に音楽が掛かった。パフォーマたちがお菓子とジュースを運んできて全体に配り、場内に散って床に座る。今日の感想を軽く聞いたりして、一緒におしゃべりを始めたようだ。私もお菓子を受け取った。とりあえず開けてみて口に入れる。チョコパイがぱさぱさするので黙った。しゃべらなくていい理由ができた、と思った。見回すと、素直にお菓子を受け取る人、食べながら話し始める人、お菓子を床において三角座りしたままの人などがいる。これまで作品から断絶されていたところを急に内側に引き入れられるようなことがここで起きたわけで、いずれにせよ、パフォーマとの境界が一時的に消失し、観客にとって身の置き所がぐっと揺らいだ瞬間であった。

 そのまま、パフォーマたちの発案でソーシャルネットワークサービスについて話す流れになる。これまで黙っていた人々もそろそろと喋り始め、日によっては観客同士のおしゃべりが自発的に生まれたりもしていた。もしかして私たち、お菓子なんかもらって油断させられているのかな?でも、何に?

■愛を語る人々
 終盤、おもむろにマ・ドゥヨンが立ち上がり「愛の話をします」と音頭を取った。彼に指名された日本人のパフォーマたちが、日替わりで愛について自由に語る。具体的な誰かを思い浮かべているであろう者、過去の自分を振り返るように噛みしめて話す者。それは、彼らの心に隠された大切なものが垣間見えるドラマティックな体験だった。

 日本語が不得手なドゥヨンは韓国語を使って、自分の考える「愛」について話し始める。場内は再び静かになり、彼に注目が集まった。その場にいた多くの人にとって、韓国語での彼の語りは理解することができなかった。しかし、会場全体に彼の言葉を聞こうとする姿勢は確かに生まれた。わからないものをわかろうとすることが愛かもしれない、という不思議な喜びが会場全体で作り上げられたこのシーンは、作品中でもっとも美しいと感じるものだった。

■傷ついた観客たち
 お茶菓子の時間の巧妙さや、外国語で愛を語る俳優の姿が持つメッセージ性の完成度は高い。それにも拘らず、今も、『シンポジウム』について思い返すことは私にとって大変苦しい。

 この作品は、人々の対話を見せながら、時間をかけて小さな引っかかりを積み重ねる作りになっていた。たとえば青森出身が三人、というパフォーマの出身地の偏りは、土地について語るときに恣意的な効果をもたらしたりはしなかっただろうか。また、壁にかけられていた小さな時計。司会の藤原は、話が途中でも時計に目を走らせては「そろそろ時間なので終わります」と言ってぶった切るので、じっと聞いていた身としては「納得できないまま話が終わる」というフラストレーションが植え付けられる。SNSについてのおしゃべりの時間だってそうだ。通常、SNSは「離れた場所にいる知り合い」と話すために使われ、「目の前に今いる誰か」とのコミュニケーションには用いない。それなのに、「今ここ」にいる人々とSNSの話をすることになる不自然さは、かえって隣人との距離を浮き上がらせはしなかっただろうか。

 ラストシーン、マ・ドゥヨンによってもたらされた愛のカタルシスは一瞬、それらの違和感を吹き飛ばすようでもあったが、最後に、彼の同時通訳を務めていたイ・ホンイがそれを翻訳してくれることになったとき、彼女から伝えられた日本語はわずか2センテンスほどのあっけないものだった。そのまま、呆然とする観客の戸惑いを置き去りにして、本編は終わった。

 取り残されたような観劇後の感覚は、私の中で徐々に嵩を増していった。その正体を知りたくてたびたび(白状するが、一度や二度ではない。)観に行ってしまったのは、この感覚が私にとって重要な関心事に起因するものだという予感が強くあったからに他ならない。

 この作品で私が見たのは、別に観客にも思考を強いるハードさとか、単なる通じ合えなさではない。言葉にすることへの期待を見せた人のそれが、裏切られる様子だ。あなたと話がしたいと思って対話を始めた人が、伝わると思って他人に期待していたのを裏切られるのを見せられたことが私は何よりたまらない。大谷能生が、東京出身の佐山和泉に東京の話を聞きたいと頼んでも「特に(東京育ちを)意識したことはない」と言ってかわされてしまったこと。「何でこんなに話してるのに分かり合えないんだろう!」と、横浜公演の千秋楽できたまりが藤原に言い放ったとも聞く。私は、そういうやり取りを観ることしかできなかった。マ・ドゥヨンの話に対するイ・ホンイの翻訳の短さだって、内容を知りたいと思った気持ちに対する裏切りの1ケースだ。

 設定された議題について、全員が同じ知識を持っているわけではないので、どうしたって言葉は誤解を生み、議論は気まずく煮詰まる。一般的に、話し合いの場では、声の大きい人やたくさんしゃべった人が勝利したように見え、そのテクニックや前提を共有できない人の排除が起きる。見ていてそれは粗野で恐ろしく、巻き込まれたくないと感じる情景だ。小さなSTスポットは天井も低い。床いっぱいに人が座り、壁際を囲んだ椅子にパフォーマが座ると、空間全体に圧迫感が生じる。彼らが椅子の背に無理矢理座ったり、時に立ち上がったりしていたのは、そうした重い空気を避けるようであった。

 わかりあえない人と話すというのはどういうことか、そのやるせなさを、いちいち、まざまざと見せつけるために、このシンポジウムは作られていたように思う。黙って議論を見せられて、お菓子をもらって話すことはできたけど、その場にいることで観客だって、しっかり傷ついた。

「シンポジウム」横浜公演から
「シンポジウム」横浜公演から2
【写真は、東京デスロック「シンポジウム」横浜公演から。
提供=東京デスロック 禁無断転載】

■負荷の共有
 多田の演出は、パフォーマたちにリアルタイムに思考する負荷をかけ続けるように施されていた。このことは、かつて多田が『再/生』で音楽をかけて俳優を激しく踊らせ、身体を疲労させる手法を使ったことを思い出させる。あの作品において、観客はいっさい肉体的に疲労することはなく、俳優が消耗してゆく姿を見ることで彼らと徐々に分断され、乖離した鮮やかな時間の中に置かれる瞬間があった。今回は、負荷そのものをパフォーマと観客に共有させたことが『再/生』とは圧倒的に違う。その場にいる全員が、対話へのアプローチ方法の違いが生む軋轢を等しく見せつけられ、ともに消耗していった過程がこの『シンポジウム』だった。

 たとえば遠い街の津波。原発からの放射能や汚染水の漏れ。想像することが困難なものに想像力を届かせるよう努力するより、なぜ想像力が届かないのかを考えさせるほうが、よほどシビアだ。思考力の限界は本人の人間性そのものに肉薄するからである。限界をなぞるようにして考えさせることは、これまでの生き方を追いつめることにも等しい。

 それを面白く聞いていた人や、特に関心を払わずにいた人もいるだろうが、次第に議論が発展しない様子にまどろっこしさを覚えてくるのは事実だ。介入するわけにもいかないので飽きて、それでも懸命に思考し、言葉を紡ごうとするパフォーマたちを見ては、痛々しい気持ちになったり疲弊したりする。それは、パフォーマたちの受けているダメージが、時間差でじわじわ染みているということだ。直前の議論がひどく紛糾し、その空気を引きずったままお茶菓子の時間が訪れた回があった。停滞した空気が流れ、場内の会話は驚くほどはずまなかった。誰もが何となく黙っているうちに場がクールダウンし、観客もパフォーマも肩を寄せ合ってお菓子を食べることで、すれ違った心が癒されてゆくような感覚が得られたのは不思議な体験だった。

 ところで本編の後、最後のシンポジウムと称して、多田淳之介によるホームルームのような、振り返りの時間が設けられていた。「他人に話を聞いてもらうとうれしいのはどうして?」「言葉にしたいこととしたくないことの違いとは?」。多田から投げかけられる質問は日によって異なるが、数分の沈黙が流れた後、「それでは、シンポジウムを終わります」という多田の言葉によって、今度こそ作品は終わった。

 しかし、終わったのだろうか。本当に?

■“演劇の消費者”からの脱却のために
 作家が単なる発信者で、観客が受信者という構図を打ち崩すことは様々な場所で行われていることだが、今回の『シンポジウム』では、その打ち崩そうとする行為自体がパフォーマンスとして提示されていた。議論が行われる。それを観る者がときどき中に引き入れられるような仕掛けが用意されている。そのことが、参加を“強いていた”ように見えたのはなぜか。時にそれを面倒とか、プレッシャーに感じた胸の奥には何があるのか。お菓子だって、今ここで食べろと言われたわけじゃないのにどうして開けないといけない気がしたんだろう。

 あとから思えば、あの時間は「この場にいる誰もが、どのように存在していてもいい」ということが作り手側から提示された時間のように思える。お菓子を食べても食べなくてもいい。他人に話しかけてもいいけれど、話さない自由だってあるよ、という。なのに生じた妙な同調圧力。それに抗えなかった根底にあるのは、劇場に来てお金を払ったから何か面白いものを見せてほしいと要求する“演劇の消費者”の感覚ではないのか。ほら、そうなるとやはりこの作品自体が、私たちの受け身の感覚に対する裏切りとも言えるのだ。

 パフォーマたちの話し合いの議題として、しきりに政治に関するトピックが扱われていたのも、これでわかる。政治に何を望むか話すとき、私たちは各党がいったい何をしてくれるのかという消費者的な観点で話をしがちで、待ち受けて口を開け、餌付けになびいて投票してきた結果が今の日本だからだ。

 裏切られるのがつらいのは、それと対になって、期待していた自分に気づかされるからである。東京デスロックは俳優にも観客にも、演劇の一消費者からの脱却を求めている。他人とうまく話せないこと。所在なさを抱えながらその場に居続けること。上演中に立ち現れるディスコミュニケーションの問題が全て演出として解釈・回収され、何が起きようとも多田の手の内に収まるように見えるよう作られているという意味において、安易な受け入れと承認を許さない彼の意識が浮かび上がる。

 あのとき「シンポジウムを終わります。」と多田は言ったが、手段が同時に目的でもあり、目的を手段としながら作る孤独を、今後彼はどう形にしてゆくのか。多田の切り開く演劇の未来を見続ける必要がある限り、これは終われない。何にもまして重要なのは、観客の立場である人々がそれをどう受け止めてゆくかだ。

 私がこうして書いた文章もあなたには届かないかもしれないし、ここまで読んだ甲斐なかった、と思われるかもしれない。でもプラトンの『響宴』は、愛をテーマに人々が語り合う書物であった。伝わらないとわかっていたって話さずにはいられない気持ちをこそ、私は愛と呼びたい。それは、何度傷つくとわかっていても繰り返し恋に落ちる、滑稽さと真摯さのことである。

【筆者略歴】
落 雅季子(おち・まきこ)
 1983年生まれ、東京育ち。会社員。2009年、横浜STスポット主催のワークショップ参加を機に劇評を書き始める。主な活動にワークショップ有志のレビュー雑誌”SHINPEN”発行、F/T2012BlogCamp参加、藤原ちから氏のパーソナルメディアBricolaQでの”マンスリー ブリコメンド”執筆など。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ochi-makiko/

【上演記録】
東京デスロック「シンポジウム
横浜会場 2013年7月13日(土)-7月21日(日)
富士見会場 2013年7月27日(土)-7月28日(日)

MEMBER
東京デスロック《夏目慎也 佐山和泉 佐藤 誠 間野律子 多田淳之介》
マ・ドゥヨン [俳優/第12言語演劇スタジオ] Fromソウル
柿﨑彩香   [俳優/渡辺源四郎商店] From青森
きたまり   [ダンサー・振付家/KIKIKIKIKIKI主宰] From京都 ※横浜会場のみ
沖田みやこ  [俳優/のこされ劇場≡] From北九州 ※富士見会場のみ
大谷能生   [音楽家・批評家] From横浜
藤原ちから  [編集者・フリーランサー] From横浜

照明:伊藤泰行 音響:泉田雄太 舞台監督:海津 忠(横浜公演) 浦本佳亮(富士見公演) ドラマトゥルク:佐藤泰紀(急な坂スタジオ) 通訳:イ・ホンイ 演出助手:杉 香苗 宣伝美術:宇野モンド 制作:服部悦子 企画製作:一般社団法人unlock 東京デスロック 協力:青年団 渡辺源四郎商店 第12言語演劇スタジオ KIKIKIKIKIKI のこされ劇場≡ (有)レトル krei inc. シバイエンジン 急な坂スタジオ にしすがも創造舎 公益財団法人セゾン文化財団

チケット:日時指定・全席自由・整理番号付
料金 一般…予約・当日共2,500円 学生・シニア(65 歳以上)…予約・当日共2,000円

横浜会場
助成:芸術文化振興基金
提携:STスポット
主催:一般社団法人unlock 東京デスロック

富士見会場
主催:公益財団法人キラリ財団
平成25年度文化庁劇場・音楽堂等活性化事業


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください