新国立劇場「テンペスト」

◎テンペスト、希望の婚礼
 鉢村優

【新国立劇場「テンペスト」公演チラシ】
【新国立劇場「テンペスト」公演チラシ】

 シェクスピア最後の戯曲。彼が長い劇作の末に行き着いたのは、理性で感情を制し、他者を赦す人間の気高さを称えることである—テンペストをしてそのように語る人は多い。しかし演出を手がけた白井晃は、そこではない何かを見つめていた。

 実の弟の奸策によってミラノ大公の地位を追われ、娘と二人、絶海の孤島に追放されたプロスペロー(古谷一行)。彼は魔術を身につけ、空気の精エアリエル(碓井将大)を従えて妖精を操る。プロスペローは嵐を起こして船を難破させ、彼の政敵を孤島に集めた。いまやミラノ公となった弟ゴンザーロー(長谷川初範)、共謀してプロスペローを追放したナポリ王アロンゾー(田山涼成)とその従者たち。彼らはプロスペローの魔術に幻惑され、おびえて逃げ惑っている。一方、父王とはぐれたナポリ王子ファーディナンド(伊礼彼方)は、プロスペローの娘ミランダ(高野志穂)を一目見て恋に落ちる。ミランダはやさしさと好奇心にあふれ、目を輝かせている—。

 今回の演出でまず目を引くのは舞台美術(小竹信節)であった。印象的な2つの手法は、まず、舞台いちめんに撒き散らされ、積み上げられる段ボール。次に、ひらめく布というモチーフである。

 段ボールは大きな台車にのせてゆすられれば、難破しかけた船のように、また、積み上げられれば孤島の熱帯林に姿を変える。妖精がさかんに打ち鳴らせば、悪党を驚かす雷鳴のメタファーにもなる。登場人物の長い裾と、舞台を駆け巡る妖精が掲げる麻布は、動きのたびに生きているような表情を見せる。それは「テンペスト」で重要な役割を演じる妖精の存在を、観衆に常にイメージさせる作用を持った。目に見えない空気の中に、妖精はいつも遊んでいるのだ。変幻自在の段ボールとひらめく布の表情、それはそのまま、白井が観衆にかけた魔法である。隙のない美意識によって構成された舞台は非常に強い引力となって、開演早々に観衆を芝居に集中させてしまった。

 しかしなぜか、その魔法は第2幕で急速に力を失っていく。観客が水夫と化け物の狂言まわしを楽しみ、妖精の饗宴に夢中になっているうちに、プロスペローはあっけなく政敵を赦している。政敵への怨みと赦しの葛藤に煩悶する部分はごくあっさりと通過し、その内面を描写する演出も少ない。プロスペローの突然の赦しに疑問を持ち、躓いた観衆は多かったようだ。ひとりの人物が怒りを捨て、復讐から赦しへと至るという過程が「テンペスト」の中核をなす物語だと、われわれは予想していたのだから。本プロダクションで用いられた「人間礼賛」という謳い文句ひとつを取って、私たちはこの作品の意味するところを限定し、分かりやすい紋切り型で見ようとしてはいなかったか。その躓きを前に、演出の魔法はもはや壁紙のパターンのように、装飾としての役目に堕してしまったかに見えた。

 いや、魔法の幻滅さえも仕組まれていたのだ。視覚効果の陳腐化を逆手に取った演出は、引き算によって解釈を際立たせることに成功した。赦しに至る過程の扱いが非常に手薄なのは、白井にとって、そこが重要ではないからなのだ。人間は赦すゆえに尊いのではない、と。白井版「テンペスト」のプロスペローはもとから、復讐するつもりなど無かったのではないか。とうに怒りなど捨てていたプロスペローは「あっけなく」悪党を赦す。彼らなど、ちょっと小突き回して、怖がらせ、笑ってやれば充分なのだ。

 白井が見つめていたのは、プロスペローの赦しではない。娘ミランダである。彼は船を難破させると、恐れおののく娘をなだめて、船を難破させた理由もそこそこに、ミランダにファーディナンドを見せる。一目で恋に落ちる二人を遠くから眺めて、エアリエルに言うのであった。「万事うまく運んだぞ」と。

【写真は「テンペスト」公演から。撮影=谷古宇正彦 提供=新国立劇場 禁無断転載】
【写真は「テンペスト」公演から。撮影=谷古宇正彦 提供=新国立劇場 禁無断転載】

 ミランダは人間の良さだけを、美しさだけを集めた乙女。プロスペローはどんな王妃が受けるより高い教養を彼女に授けた。彼女は目を輝かせて何でも知りたがり、父を苦しめた悪党を前にしても感嘆の声を上げる。また、追放された時の航海では赤子の自分はさぞ足手まといだったろう、と彼女が詫びると、プロスペローは娘の手を取って「お前が私に生き抜く決意を湧き上がらせた」と言う。

 このように、ミランダがかたどるのは希望、それも、荒波のさなかにおける人間の希望である。プロスペローは天与の希望に、持ちうる限りの知性を与えて、理想的な人格に育て上げた。真善美の化身であるゆえに、ミランダは絶世の美女として描かれるのである。

 しかし、娘を溺愛し、その幸せを心から願う老父に残された時間は長くないようだ。照明(勝柴次朗)が作り出す時計の針は、闇夜に浮かんで刻々と進んでいく。エアリエルはプロスペローに放免の時を再三問うが、それはむしろ、プロスペローに残された時を尋ねていたのかも知れない。

 舞台美術の魔法が解けはじめる第2幕で、代わってミランダとファーディナンドの関係が脚光を浴びる。ファーディナンドはミランダに求婚し、プロスペローにその誠意を試される。しかしその試練の苦役もミランダとの睦まじい会話で埋め尽くされ、あっという間に終わってしまう。ここでも、プロスペローの仕打ちは、答えの見え透いた遊戯として解釈されている。つまり、「復讐」も「試練」もミランダをファーディナンドと結び合わせるために用意された、茶番じみた付随物に過ぎない。プロスペローはそもそも、無垢なる青年ファーディナンドを見込んで、娘のために難破させたのだ。

【写真は「テンペスト」公演から。撮影=谷古宇正彦 提供=新国立劇場 禁無断転載】
【写真は「テンペスト」公演から。撮影=谷古宇正彦 提供=新国立劇場 禁無断転載】

 こう考えると、演出に一貫性が見えてくる。「テンペスト」すなわち嵐の目的は、敵に対する復讐ではなく、希望を広い世界に送り出すことにあったと。人間が持ちうる美徳の全てを身にまとった希望は、純真な若者の助けによって、広い世界に出て行く。

 テンペストという古典に対する白井解釈の今日性は、ひとりの英雄的行為ではなく、人間が誰しも持ちうる希望に焦点を当てたことにある。英雄は稀有な存在なのだから、その赦しに人間の普遍的な尊さを見出すことはできない。希望を持ちうるというごくありふれた性質にこそ、人間の尊さはあるのだ。プロスペローは魔法の杖を折り、娘と並んで大切にしていた書物を捨てて、ミラノに帰る。それは、もはや書物の中にしかみられない、ひとりの「英雄」によって世界が変えられた時代を捨て、無力な凡人として現代を直視しようとする姿なのかもしれない。

 徹底的な美的センスに裏打ちされた芝居は目に楽しく、音楽のニュアンス豊かな色彩も出色の存在感である。縦横無尽の舞台美術と狂言回しを楽しむだけでも、それは充実した観劇経験だろう。総じて重くならず、かなり軽妙なシェイクスピアであった。しかし演劇を祝祭の熱狂で終わらせない、胸のつかえを残す幕切れこそ、この公演をすぐれたものにしている。紋切り型ではない解釈と、理解するためにある程度の整理を要求する演出は、観衆に釈然としない後味を残したかもしれない。しかし、哲学的思弁とエンターテイメントのいずれかに振れすぎる演劇が多いなかで、観客に苦しむことを強いず、それでいて豊かに考える素地を提供する白井演出は、すばらしいバランス感覚を示しているといえよう。
(2014年5月31日18:00の回観劇)

【筆者略歴】
鉢村優(はちむら・ゆう)
 1988年東京生まれ。東京大学経済学部卒。会社員として文化事業に携わるかたわら、クラシック音楽の評論活動を行う。現在、東京と福岡のアマチュアオーケストラに曲目解説を連載している。

【上演記録】
新国立劇場「テンペスト」
新国立劇場(5月15日-6月1日)

作:ウィリアム・シェイクスピア
翻訳:松岡和子
演出:白井 晃

[出演]
古谷一行、高野志穂、羽場裕一、伊礼彼方、野間口徹、櫻井章喜、碓井将大、河内大和、山野史人、田山涼成、長谷川初範、原金太郎、大林洋平、近藤隼、平良あきら、林浩太郎、野坂弘、依田朋子、福島彩子、酒井幸菜

[スタッフ]
美術:小竹信節
照明:勝柴次朗
音響:井上正弘
音楽:mama!milk
衣裳:太田雅公
ヘアメイク:佐藤裕子
振付:井手茂太
演出助手:豊田めぐみ
舞台監督:加藤 高

[チケット料金]
S席7560円、A席5400円、B席3240円、Z席(当日券)1620円

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