#3 市村作知雄(東京国際芸術祭)

山海塾から芸術の世界へ

市村作知雄さん -日本の演劇状況や抱えるや問題については後ほどお話をうかがうとして、次に市村さん自身の活動をお聞きしたいと思います。学生時代は早稲田大学ですね。

市村 68年入学ですから、全共闘運動のまっただ中。ほとんど試験なしで卒業してしまいました(笑)。

-幸せな時代でしたね(笑)。専攻は演劇ですか。

市村 ぼくはロシア文学専攻でした。ロシア未来派のマヤコフスキーなんかを読んでいたんですけど、授業にもあまり出てなかったし、大学時代のことはいまとほとんど関係ないですね。

-演劇との関わりは…。

市村 演劇は好きでしたが、職業にするとは思ってもみなかった。自由舞台や劇団木霊などとの付き合いは多少ありましたが、ほとんど関係はなかったと言った方がいいですね。(暗黒舞踏の)土方巽が出てきたり、状況劇場の唐さんも活躍し始めた時代ですから、いろいろありましたね。

-いただいた資料をみると、大学を卒業してから山海塾に入るまで、10年ほどブランクがありますね。

市村 経歴が飛んでますよね(笑)。いろんなことをしてましたが、一番長かったのが溶接工です。7年ぐらいやってましたかね。それから札幌で学習塾を経営して、やがて東京に戻ってフリーのライターをしましたが、あまりおもしろくない。ドイツへ留学していた友達がたまたま山海塾の公演をみてきて、今日山海塾の人と会う予定だけれど、行けなくなったからお前行ってくれと言われて、ああいいよと代わりに、待ち合わせた白石かずこさんの詩の朗読会に出かけました。相手は坊主頭だからすぐ分かると言われていたけれども、探しても見つからない。呼び出しをかけてやっと会えました。当人は山海塾の公演が終わってしばらく経っていたから、頭にだいぶ毛が生えていた。分からないわけですよ(笑)。その後ずるずると山海塾との付き合いが始まって、訳が分からないまま制作の仕事を始めたのが、いまの職業につながりました。83年に山海塾が海外公演から戻って国内公演をしようとしていた時期ですね。当時はまだ「チケットぴあ」のない時代です。信じられませんけど。時期的に恵まれたのか、ぼくが制作になってからドーンと売れました。

-海外公演も手掛けたんですか。

市村 いや、海外公演は別にエージェントがちゃんと付いてました。でも海外とのコネクションはこの時期にできました。向こうの人たちの感覚を、思考回路の違いや習慣の違いを教えられたし覚えました。こういう言葉遣いをしたらまずいとか。山海塾時代にだいぶ勉強しました。

-分かりやすい例を教えてもらえますか。

市村 もめるのは、交渉の際の断り方ですね。日本の一番手っ取り早い断り方は、スケジュールが合わない、会場が埋まっているという言い方です。そうすると向こうは、いつなら都合がいいかと聞いてきます。ほかの会場の話をしたりしもます。そうなると答えられなくなる。そうなってから初めてできないと言うと、大問題になります。最初からできないと断ればいいことなんです。それをスケジュールが合わないという言い方をするのでトラブルが起きてしまう。あと公演のキャンセルの場合ですね。ただ残念だけどできない、と言うだけでは足りない。われわれはこういう形で精一杯努力した。しかし残念だけれどもこういう結果になった。だからキャンセルする。こういう言い方が必要です。われわれは間違っていないという言い方でないとまずい。ともかく謝ればいいとか、ただごめんなさいじゃ失礼です。などなど、細かなことはいっぱいあります。

日本とヨーロッパを比較すると

-各国でさまざまな演劇祭が開かれています。関係者との交流で、日本の、特に東京国際芸術祭と、どういう点が違うと感じていますか。国や自治体の関わりなど、いろいろあると思いますが。

市村 アメリカは違ったシステムを持っていて、フェスティバルの国ではありません。フェスティバルと言えばヨーロッパが本場になりますが、それは全然違います。国や地方都市など各レベルからお金が出ている。主催者側はその辺は細心の注意を払っていて、国のお金が都市よりも多くならないようにするとか、それぞれにポリシーを持っています。日本のように、民間が主催しているような形態はまずありません。われわれは貧乏ですよ。

-先ほど香港などのフェスティバルで予算は8億円ぐらいというお話がありましたが、ヨーロッパの有力フェスティバルだと、おおよそどれぐらいの予算で運営しているのでしょう。

市村 ピンキリだと思います。音楽系のオペラなどを中心にしたフェスティバルの十数億円規模が最大ではないでしょうか。演劇を含む総合フェスティバルはいま、大きなもので8億円前後の予算規模になっていると思います。ただこれも単純に比較できません。人件費や会場費が予算に入っているかどうかなど、複雑な問題がありますから。まあ、そのぐらいでしょう。日本人は勤勉だから、少ないお金でこれほど働いていますけど、われわれに8億円もあれば(笑)。こちらの内実はなかなか海外に言えませんね。信じられないと思いますよ。

-国際的にみるとそう多いとは言えない予算で、NPOとしてさまざまな活動を展開し、そのノーハウを蓄積し、国際的なネットワークも広げて来たと思います。そういう努力を前提としながらも、国や地方自治体がさらに関わり方を変えたり深めたりしてくれたら、違った展開ができるのではないかと感じたことはありませんか。

市村 予算規模がまるきり違います。この前ドイツに行ったら、(ドイツの演劇関係者が)どうして国(ドイツ)は国家予算の7%しか(芸術関連予算を)出さないのか、なぜ10%にしないのか、と騒いでいる。日本だと国家予算の10%といったら、べらぼーな金額になるでしょう。ドイツでは、政府が7%の予算を削減しようとしていると怒ってるわけですよ。日本の芸術関連予算は0.1%ぐらいだと思います。日本の国家予算が今年度82兆円ですから、7%と言ったら5兆円から6兆円ぐらいになってしまいますよね。文化庁の予算がいま年間1000億円ちょっとですから、全然レベルが違う。桁外れです。パレスチナから今年、劇団を招きましたが、彼らはよく調べていて、日本の文化関係者が苦しいことは知っている。なぜアーチストは立ち上がらないのかというんです。ぐうの音も出ません。

あと文化庁のお金の出し方がヨーロッパなどと違います。ヨーロッパの場合は劇場やフェスティバルにお金が出て、そこがアーチストを雇用することでお金が行き渡る仕組みです。日本も公共事業では工事担当の企業にお金が出て、それが雇用された人たちに流れて経済効果が高まることになりますが、日本の文化行政は、末端に直接お金が出てしまう。劇団や芸術家単位になるんです。これでは経済効果も生まれません。文化庁の問題というより、芸術団体の問題、アート側の問題です。

また予算規模があまりにも違うので、ヨーロッパのように公共ホールは専属の劇団を雇えなどとは、リアリティーがなくて言う気も起きませんが、いまぼくはそれでも、演出家を1人でいいから雇えと言っているのです。それぐらいは可能だろう。そうなれば随分状況が違ってくるのではないか。せめてそれぐらいやればいいのにと思いますね。もちろんレパートリー・シアターのようなものを作ってみたいですけど、このフェスティバルが一段落したら、レパートリー・シアターを一つだけ立ち上げてみたいという感じがしますね。

社会は変えられるという常識

-今年のフェスティバル・プログラムに、市村さんの「開催にあたって」という短いメッセージが載っています。その中でベルリン壁崩壊後の10年を経て「 <世界> の壊れ方と弱肉強食の非人間的世界」が出現したと前置きして、「招聘するベルリンのフォルクス・ビューネ芸術総監督カストルフの作品には <世界> への痛切な皮肉が込められている。このような『世界を抱え込みながら』なおかつ作品を作り続けようとする意志はどこからくるのだろう。日本のアーチストは世界のアーチストと意識を共有しているのだろうか」という言葉がありました。演劇の世界も現実から何がしかの波紋を受け取って成立しますので、ここには9.11以降、演劇も何らかのモチーフや表現を現実から受け止めざるを得ないのではないかというメッセージとも受け取れます。日本の演劇の何かを汲み取ってほしいと示唆しているのでしょうか。

市村 プログラムに載せた言葉は、少なくともアーチストは権威や権力に何らかの態度を示さないとまずいのではないか、ということなんです。別に反体制でも体制でもいいんですけど、権力に迎合するのはアートの基本性格ではないと思っていて、そういうポリティカルな部分は日本の演劇からは失われてきたのではないかと思います。端的には「これは政治でも宗教でもなく、芸術です」という言い方を素朴にしてしまうことに表れています。この言い方はとても奇妙です。芸術は政治も宗教もすべてを含んでいますよ、と言わないとおかしなことになる。特に日本の演劇でポリティカルなものが失われてきていますが、そもそも演劇ってポリティカルなんだという気がしますね。かつて日本でもそうだったし、いまの日本の状況が特殊なんだと考えた方が正しいのではないでしょうか。人間にとって重要なことは演劇にぎっしり詰まっているということなんです。

学生にはよく言うんですが、海外に行って日本の常識が通用しないことがいくつかある。日本の学生はよく、何を言っても何をしても、社会は変わらないじゃないかと平気で言います。大人もそうですね。これはヨーロッパではだれにも理解されない。分からないと言われる。向こうでは変わると思っているから。そこが根本的に違っていると思います。何か行動を起こせば変わるのだと信じている。そう信じられる社会だということです。先ほども言いましたが、日本のアーチストは立ち上がらないのか、という言葉にもそのことが表れています。

ただ、ヨーロッパがこぞって反対したのに変わらない、初めての事態に最近ぶつかった。それがイラク戦争だったと思います。あのときヨーロッパには深い挫折感が広がりました。おそらく第二次大戦後初めての経験でしょう。ベルリンの壁ですら壊れたのだから、変わらないはずはないと思っていましたから。フランスなどで年金の切り下げなんかしたら、ゼネストが起きて、おそらく大統領の首が飛ぶと思います。日本はまったく平気ですからね。政権交代もない。ヨーロッパはどこの国でも、みんなが立ち上がれば大統領だって変えられると思っている。社会の根本的な前提が違うのだと思いますね。こういうことを言うと、日本では偏向しているとかみられがちですが、権力に対する態度を自分でしっかり考えておかないと、芸術は作れないのではないかとぼくは思っています。芸術のいちばん本(もと)になるところを話すのですが、なかなか受け入れられそうにありませんね。

-なるほど。

市村 パレスチナから劇団がきましたが、日本人の多くは、パレスチナは難民も多く、食べるにも事欠くような状況でとても貧しいところだと考えているようです。ところがパレスチナからやって来た劇団員たちは、若いスタッフと話していて、たまたま給料を比べようと言い出したんです。ドルに換算していくらという数字を出し合って、彼らはそこから住居費を差し引こうと言う。ぼくは教育費も引いてほしいと思いましたが、とにかくそうやって比べると、向こうの方が実質的な所得は多いんです。日本が豊かだというのは、ぼくはうそだと思う。日本は豊かだとだれも信じて疑わないけれど、実は豊かではない。

フランスでもドイツでも、月に一度か二度は家族で劇場に足を運ぶ。日本じゃできないでしょう。フォルクス・ビューネ公演の入場料を抑えに抑えて4000円にしました。赤字覚悟です。でも安くすれば来てくれるかと思いましたが、途中で気づきました。無駄だと思いましたね。4000円だとすると、だれかを誘うと2人分で8000円。交通費もかかるし、外食したら1万円を超える。お父さんの小遣いが月3万円だとすると、そんなお金は出せるわけがない。1000円だったら違ったかもしれませんが、それは無理。では4000円が安いかというと、月の小遣いから4000円出すということは、そう簡単ではない。でもヨーロッパに行くと劇場は満杯で、さまざまなお客さんが入っている。どちらが豊かでしょうか。名目賃金を比べると、日本は確かに高い。しかし実質的な暮らしぶりを比べると、向こうがはるかに豊かだという実感があります。それなのに日本は自分たちが豊かだと思っている。これはだまされているんじゃないかと思います。

いや、これは比喩の問題ではなくて、本当に豊かじゃない、貧しいんです。そういうだまされたり隠された事実を、アートが暴いてくれないといけないのではないかと思いますけどね。われわれの素朴な意識はすごく操作されているような気がしますね。海外の劇団やカンパニーを招いて、ぼくとしては非常に勉強になりました。日本の常識は、ほとんど非常識かもしれない。今後もこういうことを、違った言い方で表現できればいいと思います。

南米シリーズを検討

市村 中東シリーズ、ドイツシリーズの次は、南米を取り上げることになるかもしれません。南米の演劇がある意味を持つのではないかといま、ぼんやり考えている段階です。

-確かに中南米の音楽や文学作品はよく日本に紹介されますが、演劇はほとんどと言っていいほど紹介されてないし、情報も少ない。おもしろそうですね。

市村 南米諸国の紹介されていない演劇を呼ぼうということでもいいかもしれませんが、何かもうひとつ、意義を見つけたい。招く理由がいくつかないと、なかなか本気になれないんですよ。プログラムはいくつかの意義が重なってできあがっていくものですから、まだちょっと弱いですね。

-南米と地域で分けるやり方もありますが、ポルトガル語圏のブラジルを除くとスペイン語圏の演劇というくくり方も可能ではないでしょうか。国という枠組みに縛られないでスペイン語圏の戯曲や劇団をみていけば、まだまだおもしろいものがあるような気がします。

市村 難しいのは、演劇の分かるスペイン語関係者が少ないことです。演劇分野で国際交流するのは大変なんです。ダンスや音楽に比べて何倍も手間がかりり、時間もかかる、お金もかかる。言葉の問題も解決しなければならない。ダンスに比べて倍以上の費用がかかります。なんでこんな苦労してまでやるのかという世界です。>>