#4 中野成樹(POOL-5+フランケンズ)

翻訳劇に出会う

中野成樹さん 柳沢 フランケンシュタイナーの立ち上げからガーディアンガーデン演劇フェスティバルまでが一つの節目なんでしょうか。

中野 フランケンシュタイナーはもともと、翻訳劇を上演しようと思って立ち上げたユニットです。こう言うと翻訳劇との出会いを振り返らなきゃいけないようなので、よし振り返りましょう(笑)。

ぼくが本格的に演劇を始めたのは大学に入ってからです。それまで演劇にまったく縁がなかったわけじゃないけど、高校演劇はやってなかった。でも、どうしてだか日芸の演劇学科演出コースってとこに入った。それで2年生のとき、授業内発表でたまたま演出をやる機会があって。でも演目はすでに決まっていて、それがソーントン・ワイルダーの『わが町』でした。いわゆる翻訳劇だったんですね。一緒にやる同級生の役者たちはすごく嫌がってました。「だれだよ、ワイルダーって?」「なんで翻訳劇なんてやるんだよ?」って。でも、ぼくはまるきり抵抗なかった。なぜかというと、父の知り合いに俳優座の役者さんがいて、そのせいで中学生のころから俳優座にときどき出かけていたんですね。だから、シェークスピア、モリエール、チェーホフ、ブレヒトなどは一通りみていて、それだからお芝居ってこういうものだろうと思ってて。

でも、とにかく同級生の役者連中は猛反対した。何が古いのか分からないけど「古い!」「自分たちをジョージとかエミリーとか呼ぶのは気持ち悪い!」「こんな翻訳劇をやれっていう先生たちはバカじゃないか?」なんて。まあ、みんな若くて突っ張ってましたからね。でも、ぼくももちろん同じように若かったから、そんな同級生に妙に反発したくて、「じゃあ日本のやつだったらいいのか。ジョージじゃなくて健治とか、エミリーじゃなくて恵美ちゃんが出てくる芝居なら納得するのか。どっちも結局他人じゃん、自分じゃないじゃん」って、そんなことを言った。実際は反発するためだけに言ったんだけど、実は(演劇を考える上で)すごく本質的なことを言っているんじゃないかと、後になって気が付いた。結局(芝居の役は)自分じゃないんですよね。そのとき初めて演劇の仕掛けに出会ったわけです。

しかも『わが町』は戯曲の指定で装置なしで、演劇的な手法というか、リアルタイムにことが進んでいくだけではなくて、ブレヒトやチェルフィッチュじゃないけれど、進行係という役割の人がいて「これから『わが町』をやりまーす」とか、あるシーンが終わると「××さん、ありがとう。いい演技でしたよ」というような仕掛けをふんだんに使った台本だったから、きっとそこでまた演劇ってもの(仕掛け)と出会ったのだと思います。それで、それが翻訳劇だった。いま思うと、本当にいい時期にいい作品に出会えたなと思います。

どうして『わが町』を上演することになったのかというと、その前年に大学のある先生が亡くなられて、で、その先生は『わが町』の大ファンだった。大学としては、追悼の意を込めての選定だったんでしょうね。ほんとによくぞ、という気持ちですね(笑)。そのときの授業内発表の演目が『わが町』ではなくて、まったく違う日本人劇作家の作品だったりしたら、いまどうなっていたか分からない。またワイルダーじゃなくて、例えばアーサー・ミラーをいきなりやらされたりしたら、演劇的な仕掛けのもっとも大胆なところに気付かなかっただろうし、あまり考えなかったかもしれない。

そのとき以降、翻訳劇にとても興味を持つようになった。その後も何本か授業内発表での演出の機会がありましたが、全部翻訳劇を選びました。シェークスピアを取り上げ、チェーホフに取り組み、卒業制作でモリエールを演出しました。なぜか一度、岩松了さんの作品も取り上げたことがあるんですが。でも、『わが町』で出会った演劇の仕掛け、それに出会ったときの感覚は決定的でした。シェークスピアは『お気に召すまま』をやったのですが、シェークスピアはもろ「演劇の仕掛けこそ演劇じゃないか」「それでそれは世界そのものじゃないか」と言っている人で、そんなことを続けながら、翻訳劇は本当におもしろい、と思ってましたね。

ウソっぽさを遊ぶ

柳沢 高校まで演劇部で活動したことがなくて、大学でいきなり演出コースに入ったんですか。どうして演劇を志望したんでしょう。

中野 日大付属の中学高校時代は吹奏楽部にいてトランペットを吹いていたので、本当は音楽大学に進みたかった。なぜか成績がよかったので推薦で日大なら医学部と法学部法律学科以外ならどこでも行けると言われていて、初めて人生の選択を迫られることになった。親は「いけるならいけるとこにいっとけ」といったふうで、受験戦争のピークでしたから。で、俳優座で芝居をみてたことも影響したんでしょうけど、何となく芸術学部の演劇学科に進むことにしました。日芸という響きに憧れたのかな? トランペットのレッスンを受けていた先生はとある音大を熱心に薦めてくれていて、日大に推薦で合格が決まった後に、ひそかに受験したんですが、だめだった。それでとりあえず演劇の方に進むことになったんです。

柳沢 ワイルダーの作品を演出するまでに、戯曲を取り上げて上演するとかはなかったのですか。

中野 なかったですね。大学に入ってすぐにミュージカル研究会ってサークルに所属して、舞台に出たりしてました。オリジナルミュージカルで、自分たちで作曲とかして。だから、1年のころは既成の戯曲ってものにあまり興味はなかったですね。

柳沢 そうでしたか。専門の演劇の授業は? 一般教養だけだったんですか。

中野 「日本演劇史」「西洋演劇史」「演出論」といった座学がたくさんあって、他には「演出実習」といった専門の実習科目がいくつかありました。あったんですが、何をやっていたかと言われると、うまく言えない。それぞれの先生が持っている演劇論を動いてやってみたということかな。スタニスラフスキーの研究をしていた高山図南雄先生の場合は、スタニスラフスキー・システムに従っていろいろやるんだけれども、18歳とか19歳の演劇経験未熟な学生が「スタニスラフスキーやってみよう」といきなり言われてもちんぷんかんぷんなわけですよ。しかも、若くて突っ張ってて、自己表現とか自分探しとか、個性をアピールしたがっているときに、難しいことを言われてもピンとこない。いまはあのとききちんとやってればと思いますけど。あのときの授業をもう一回受けたいなあ。きっと、すごくおもしろいことをやっていたんだと思います。

柳沢 翻訳劇を自分の課題として取り組んでいこうとしたとき、大学での授業というか勉強はどう関連したのですか。影響はあったのですか。

中野 直接どう影響を受けたかといわれると困りますが、日大の芸術学部という環境にいなければ、翻訳劇を上演する機会には出会えなかったことは事実だと思います。早稲田大に入って、例えば劇研に所属しても、翻訳劇を上演する機会にはなかなか出会えなかったでしょう。逆に言うといま、翻訳劇の上演に素直に出会えるのは日大芸術学部か伝統的な養成所ぐらいじゃないですか。実際はもっとあるかもしれませんけど。でも、そういった意味で大学に環境はありました。何か知りたいことがあって、研究室に行くとある程度はちゃんと教えてくれる先生がいて。そういうテーマだったら、この本を読みなさいというような雰囲気はあった。翻訳劇なんていうマニアックな分野にでも答えてくれる先生たちがいた。しかも、その上演についても答えてくれる先生もいた。嫌々ながらも、単位ほしさにぼくがやる翻訳劇に付き合わざるを得ない同級生もいた。だから、大学には感謝してます。

柳沢 そういう演劇史を継承させようとして作られた環境だったわけでしょうね。

中野 翻訳劇に興味を持って、そのまま勢いでフランケンシュタイナーを立ち上げた。POOL-5では方向性が違って翻訳劇はなかなかできなくて、それじゃあ別にユニット作るからと言って始めたんです。そのときは翻訳劇との距離を遊ぶ、ウソっぽさを遊ぶのが精一杯だった。在学中もそうだったんですが、とこかくオモチャのようにウソっぽくやっていこうぜ、という感じでした。それがオシャレでパンクだと思っていた。そうやって頑張っていたのがフランケンシュタイナーだった。STスポットのスパーキングで優勝したときはおそらくそこを褒められたんだと思う。そのときはチェーホフの『桜の園』をつぎはぎした芝居を上演したんだけれども、ガーディアンガーデン演劇フェスティバルまではその線で突っ走った。でも、それに落ちて、翻訳劇を遊んでいく路線はここまでだと、とりあえず一通りやってしまったという感じがしました。

柳沢 スパーキングにはチェルフィッチュも参加していて、そのチェルフィッチュを押さえて優勝したんですよね。

中野 そのときは(笑)。でもチェルフィッチュはまだ超リアルな日本語に転換していない時期だった。それでもとってもおもしろかったんだけれど、変わったのはその後ですね。

柳沢 そのころのSTスポットの密度はとても濃かったんでしょうね。

中野 そうですね。岡田君がいて、スタッフに(ダンスの)山田うんさん(注6)がいて、手塚夏子さん(注7)もその後、勤めて。

柳沢 STスポットの契約アーティストについて聞きたいのですが、これは年間契約ですか。

中野 一応は1年ごとの契約です。これは田中前館長が始めた制度で、もともとSTスポットを活性化しようという狙いがあって、贅沢に劇場を使わせてもらいました。ぼくは単純にあの空間が好きだったし、勝手に本拠地だと思っていたし。本拠地を持つメリットは計り知れなくて。これまたすごく感謝しています。ぼくはSTの契約アーティストであることにすごく誇りを持っているけれども、逆にST側にメリットがあるのか、STスポットの評価にどれぐらい貢献できてるのかってことを考えたりもします。いまSTスポットは神奈川県内でアート教育事業を展開していて、ぼくも高校に教えに行ったりしています。芝居を作るだけではなくて、そういうSTスポットの事業に関わっていくことも契約アーティストの役割になんじゃないかなと思ってます。

契約アーティストになって、作品の作り方が変わりました。劇場が空いていると、稽古や何やかやで割と自由に使わせてもらえるんですね。そこで初めて、空間の使い方がリアルな問題として浮上してきた。「海外じゃ、そんなの当たり前。日本が貧しいだけ」とおっしゃる方もいますが、海外は海外で日本は日本じゃないかと思いつつ、劇場と強い結びつきをもった集団ってのも日本でも少しずつ増えているし、やっぱりこういうのって大事だなとも思う。基本的には「海外では」とか「ロンドンじゃ」とか言う人って嫌いなんですけど(笑)。もっともっといろんな劇場が頑張ってほしい。例えば、本多グループが先頭に立って旗を振ったりしたら、小劇場の状況が動くと思いますね。

ガーディアンガーデン演劇フェスティバル以降、横浜に閉じこもっているような格好になっています。ちょっと臆病になってね。「あなたの売りは、なあに?」なんて言われると、コワーイ、コワイよお(笑)。「フランケンズって、いわゆる脱力系ですか?」とか言われてもねえ(笑)。そんなことばでくくるのはもう、やめてほしいと思いますね。それで、東京にいながら横浜に閉じこもってるんですけど。でも、そうは言ってもホームがあるからこそ、外へ遠征しなくちゃいけないのかなとは思ってます。STスポットというところをさらに心地よくしていくためにも、もっと外を味わってみないといけないから、そろそろ表に出て行きたいなと思います。来年2007年には東京公演を開きたいですね。まだずいぶん先だけど。

いまブレヒトがいたら

柳沢 ブレヒトの話がちょっと後回しになりましたね。

中野 じゃあ、ブレヒトについて話しましょうか。でもあまり詳しくないんですよ。

柳沢 ガーディアンガーデン演劇フェスティバルにブレヒトの作品で登場する人はこれからもう、いないんじゃないですか。

中野 当時はそういったせこい狙いでそれやったんでしょうね。うん、ブレヒトってさあ、小難しい顔してるけど、カッコいいじゃん。あのメガネとか革ジャンは、ちょっとパンクっぽくねえ、みたいな(笑)。昔はそんな感じだった。大げさな衣装をまとって上演している翻訳劇を、Tシャツ着てやっちゃおうぜ。そんな軽いのりですね。

柳沢 それがラフな翻訳劇ということばになったんですか。

中野 ぼくの中でブレヒトは、新劇を代表する小難しいイメージがあったから、そんなんじゃなくて、それっぽい単語を羅列するだけでそれっぽくなるじゃんということを、当時はやりたかった。それがラフっちゃラフだったのかな? でも、その後、フランケンシュタイナーを解散して新劇っぽさをなんとなく遊ぶってことに区切りを付けた後、もう一度翻訳劇を見直したいと思って今度はイプセンの『人形の家』に取り組んでみたんです。そうしたら、「らしさ」を遊ばなくても翻訳劇はおもしろいんじゃないかと思えるようになってきた。無理矢理にウソっぽいところを探したり、隙をついたりしなくても、素直にやりゃそれだけでおもしろいんじゃないかと。事実おもしろかったんですね。こりゃやっぱり昔の人がはまるだけの理由があるわ、と思えたんです。『人形の家』は利賀の演出家コンクールに応募しようと思っていたから、せりふはそのままでやりました。今まではさんざんせりふをいじってたんですけど、利賀ではテキストアレンジをしてはいけないことになっていましたから。その時、ある意味初めて、テキストをきちんと分析してみたりして、そうしたら『人形の家』はとてもカッコがよくてシャープで。ああ、もうおれたちの個性は必要ないんだなと思って。戯曲と本気で格闘する手応えを感じましたね。

柳沢 利賀の演出家コンクールはどうなったんですか。

中野 書類選考で落ちました。

柳沢 もったいないですね。

中野 もういいですよ(笑)。

柳沢 利賀で再起をかけたという感じですか。ガーディアンガーデンがだめなら利賀がある(笑)。

中野 小劇場界がだめなら演出家の世界があるさと思ったらそっちもだめだった(笑)。拒否された。だけどそのときはもう投げ出さなかった。『人形の家』で手応えを感じたからだと思います。自分がやりたいことがおぼろげに見え始めた。きっと、オレは翻訳劇ってものを使って、自分が抱えているもやもや、危うさ、揺らぎなどの正体を探ってみたいんだなって気付いた。そのためには、翻訳劇をファッションで遊ぶんじゃなくて、きちんと向き合うべきなんだって。だから仲間に入れてもらえなくても続けていこうと思った。自分自身の問題だから自分でやるしかないと思ったんでしょうね。

柳沢 美空ひばりが小さいとき、歌がうますぎて「のど自慢」に落ちたというエピソードがあるそうですが、そんなことを思い出しますね。大物にも前史がある(笑)。コンテストは課題があって、参加しようとすると何度もその課題に出会う。それだけでも意義があったりしますね。で、ブレヒトに戻りますが、ガーディアンガーデン演劇フェスティバルのときは、新劇が体現するものを遊ぶというスタイルとおっしゃってましたよね。

中野 そのフェスティバルで審査員だった、うにたもみいちさんに「もっと新劇おたくっぽさを出せばよかったのに」と言われましたね(笑)。でも結局、ここも利賀も落ちてよかったと思う。この間あらためてブレヒトを取り上げたのは、ドイツ年ということもありますが(笑)いまのぼくがブレヒトを取り上げたら今度はどうなるのかと思ったからです。ブレヒトを読み直してみると、昔の人が真剣になる気持ちは理解できます。言ってることや発想は力強いし、盲点を突かれる。この広場にどんな店を出そうかと町の人たちがもめているとき、ここを更地にしよう、と言い出すような感じかな。と言うより、町という概念をなくそう、と言ってる人のような気がする。だから、ぐらぐらしたり揺れたりしているときブレヒトに引き込まれる気持ちはすごく分かる。だから逆に日本では、ブレヒトの演劇論を本気で考えて、ブレヒト的なことをやろうとしている人はいま、おそらく劇場という場所にいないかもしれないと思ったりします。演劇だったら教育の現場とかセラピーとか、ボワール(注8)じゃないけれど演劇を使って現地の運動に参加したり。もしいまの日本にブレヒトがいたとしたら、演劇やってないかもしれない。多分インターネットを使い倒したり、「2ちゃんねる」をやったりしてるかもしれない。下手すると「2ちゃん」を作ったのはブレヒトだったとかね(笑)「荒らし」はいっさい放置とか(笑)。そんな気がしますね。

柳沢 ブレヒトがいまいたら、演劇じゃなくて、ほかの手段で活動したかもしれないということですね。

中野 だからいまブレヒトの演劇は、という言い方は見当違いかもしれない。劇場でブレヒト作品を上演し、ブレヒトを語ってもしょうがないかもしれないと考えたりもします。後で触れるだろうけど、柳沢さんが言うことばのフォルムじゃないけれど、いまはブレヒトが書いた物語だけをあえて使うべきであって、彼の演劇論はいまの日本には生かされないのかもしれないと考えたりもしますね。

柳沢 異化効果とか…。

中野 いま異化されていない舞台はないだろうと(笑)。本気でリアリズムの舞台をやった方がカッコよかったりするかもしれませんし。とにかく自分の演劇は自分で探さなきゃなあと。もちろん、ブレヒトと重なる部分がそこにでてくるかもしれないですけど。>>

注6)山田うん
ダンサー・振付家。ダンスカンパニーCo.山田うん主宰。ユーモアや機知に富んだ独特のダンス作品を発表。特に2004年初演の『W.i.f.e.』は高い評価を得た。国内外で公演、ワークショップ、コラボレーションの3つの柱で活動を展開している。

注7)手塚夏子
ダンサー、パフォーマー。2001年、STスポット“ラボ20”で『私的解剖実験』上演。以後このシリーズで身体の微細な制御、心と身体の回路の再構築や相互の連鎖反応を試みて注目される。最近は振り付けも。(注8)アウグスト・ボワール
「非抑圧者の演劇」を提唱。演劇ワークショップを通じて自分たちの問題を討論し合う手法を用い、観客が舞台に向かって座っているだけでなく、自分たち=観客を解放することをめざす。パウロ・フレイレの「対話的教育」とともに第三世界で広まる。