文学座付属演劇研究所研修科発表会『天保十二年のシェイクスピア』(作・井上ひさし、演出・松本祐子)

文学座の研修科発表会が、信濃町にあるアトリエで上演された。劇団の研修生である彼らはおそらく二十代凸凹といった頃合い。たとえば、自分たちで劇団をもち、「小劇場」での公演を繰り返している同年代の演劇志願者たちと較べて、その活 … “文学座付属演劇研究所研修科発表会『天保十二年のシェイクスピア』(作・井上ひさし、演出・松本祐子)” の続きを読む

文学座の研修科発表会が、信濃町にあるアトリエで上演された。劇団の研修生である彼らはおそらく二十代凸凹といった頃合い。たとえば、自分たちで劇団をもち、「小劇場」での公演を繰り返している同年代の演劇志願者たちと較べて、その活動は外部に向けて発信されることが少ない。文学座に限らず、いわゆる〈新劇〉系列の劇団に所属する若者たちが日頃どのような活動をしているのか。いずれ文学座を背負って立つやも知れぬ人びとの〈いま〉、その一端を知る恰好の機会である。


今回、演出を担当した松本祐子が選んだのは、井上ひさしの『天保十二年のシェイクスピア』。昨年の蜷川幸雄演出による舞台成果が記憶に新しいこの作品が、たといそれが本公演ではないにしろ、文学座という〈場〉を得てどのように変るのか。この「発表会」のうちには、演出家・松本祐子の野心的な(とさえ云っていい)試みが見え隠れしている。

異常な長大さを誇る(?)戯曲を、休憩込の三時間半に纏めあげた松本演出、その最大の見せどころは、これが従来云われてきたような〈シェイクスピアのパロディ〉ではないということに尽きるだろう。もちろん物語構成としては、シェイクスピア劇からの典拠がアチラコチラに散らばっていて、それが劇の基本的な鍵言葉となるわけだ。しかし、原作戯曲に頻出する「註」は一切を排除され、絶対的な武器としての沙翁礼賛はまるで姿を見せない。大胆にカットされた台本は、あくまで『天保十二年のシェイクスピア』という自立した物語性を丁寧に追う、骨格の太い時代音楽劇の顔つきをしている。ピアノ(大森陽子)と琴・箏(松本英明)の生伴奏も効果を高める一助となった。

〈非・シェイクスピアもどき〉の装いは、すでに冒頭から見えていた。「てまえども、地主にあらず、地を這う地虫」。百姓たちの合唱で幕を開け、死んだ(殺された)登場人物は、すぐさま百姓・侠客・女郎に身を変えて舞台にあらわれる。後半、ほとんど百姓になった彼らが、力強く足を踏みならしながら声を合せて歌うとき、この芝居がほかでもない、百姓たちの地を這うような視線から生れる、百姓たちのための物語であることを知る。

大詰めとなる三世次の最期。彼を前後左右上下から取り囲む百姓たち、すべての登場人物が一斉に突き出す竹槍によって殺される幕切れは示唆的である。一瞬、時は止まり、まるで磔のキリストであるかのような姿が舞台に浮びあがる。血の色に染まった桜の花が舞い落ちるなか、三世次とおさちの死体を前にした百姓全員の壮麗な合唱、舞台は目蓋を閉じる。いささか抒情に寄ったきらいもあるが、物語の着地点をたしかなカタルシスで締めくくった。

前にも述べたが、もはやそこには〈シェイクスピアのパロディ〉という面影は微塵もない。いや、なくはない。いや、なくはないどころではない。たとえば『ロミオとジュリエット』が姿を見せる場面では、お光と王次の〈バカップル〉振りが、カラオケ然たるデュエットに乗って形象化されていただろう。また、娘に殺された「リア王」もどきの鰤の十兵衛が、隠亡百姓として自らの墓穴を掘るというイロニーも仕組まれていた。そうした例を一々挙げればきりがない。そこで、いま少し正確な物云いを試みるとすれば、シェイクスピア的なるものの強調をあえて避けることで、冗長とさえ云われる過剰さを抑え、物語の筋を通した。それが、松本版『天保十二年のシェイクスピア』の結構だったのではないだろうか。

「人別」にも入れず、キャスト表に名前すら与えられない抱え百姓たち。しかし彼らは終始、劇世界の底を蠢いている。これが百姓たちの劇だと考えるとき、まだ〈誰でもない〉研修生らによって演ぜられる無名性に、絢爛たる〈豪華スター競演〉が話題を呼んだ蜷川版への返歌ではないか…などと詮ない深読みをしてみたくもなる。劇団員への途上過程にあって、名も知られていない研修生たちとの共同作業が、松本祐子の戯曲読解をたしかに裏づけていただろう。名前を与えられキャラクター化された劇中人物も、死ねば百姓(・侠客・女郎)としてその他大勢のうちに還る。三世次という一人の男が成り上がる物語を、無名の下層民による群衆劇で囲いこんだ趣向は、むしろ「天保十二年」のほうに光をあてることで批評化され、『天保十二年のシェイクスピア』上演の新しい可能性を提示していた。

若々しい俳優陣は、単純な技芸の粗けずりは措いても難しい戯曲を好演していたように思う。お里役の女優をはじめ、「女優が育つ」と云われる文学座の伝統は継承されつつ、きじるしの王次、佐渡の三世次をそれぞれ演じた男優らも印象に残った。戯曲の猥雑な性質と、舞台上の真直ぐな姿勢が時にぶつかり、幾つかの俗っぽい、艶っぽい場面で照れや恥じらいが窺われたものの、百姓の合唱などは重々しく、悲哀を以て真摯である。気鋭の松本祐子をコンダクターに、過剰な世界観をギュッと凝縮した舞台を見せた。現代演劇は、何も「小劇場」だけに在るのではない。当り前のことだけれど、改めて気づかされた、そんな思い。(文学座アトリエ/2006.9.30)

【上演記録】

作  井上ひさし
演出 松本祐子

音楽 熊野大輔
    松本英明

演奏 松本英明(箏)
    大森暢子(ピアノ)

出演 文学座付属演劇研究所研修科生

日時 9/29(金)18:00
    9/30(土)13:00/18:00
    10/1(日)13:00

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