hmp「Rio.」

◎独自の作品形式で「問い」を産出 アヴァンギャルドの保守化を超えて
高橋宏幸(演劇批評)

hmp「Rio.」公演チラシ芸術の表現における「実験」や「アヴァンギャルド」など、作品や傾向に付けられる言葉は、何をもっていえるのか。また、それぞれの時代の様式や形式に対して付けられた名称の基底にあるものとは何か。

それらの表象を見ると、必ずしも外から与えられたものとは限らないということがある。ジャンルの規定も同じだが、個々の作品の表象をまとめて形式を名付けるときにも、それらは形式が形式を自己言及的に作品の内在性において、自己規定しはじめるから連動的に作用する。だから、時に表現の先端を走る表現者こそが、そこから逃れられない磁場を抱えてしまう。ある時代の躍動の中心にいた実践者が、次の展開の導入が難しくなるのは、そのためである。それは、ときにアヴァンギャルドを標榜したものが、最も保守的なものへと転化することにもつながっている。

これらは、毎年水妖忌という岸田理生の命日の記念日前後に、様々な集団が「岸田理生連続作品上演」として作品を集中的に上演する企画が、今年は「岸田理生アヴァンギャルドフェスティバル」とコンセプトが付されたことにも関係する。いま古びてしまったアヴァンギャルドという言葉を背負うことは、何をもってアヴァンギャルドといえるのかが、作品に冠される言葉として、保守的なものへと転化する問題と無縁ではないからだ。

そのフェスティバルの一環で、いま関西で注目される若手の劇団であるhmpが、岸田理生の代表作ともいえる『糸地獄』を原作として、『Rio.』という作品を上演した。

これは、昨年大阪の精華小劇場で上演された作品を改訂したものであるが、いままでの彼らの作品を見ると、上演が一見難しいと思われるハイナー・ミュラーやブレヒトなど、近作ではカフカの短編などを原作として、物語や構成を一度身体や音などに解体して再び作品を構築し直している。そこから考えると、今回の原作はいままで扱ってきた、いわば実験的な戯曲や作品に比べると、非常に優れた戯曲であるがゆえに、今までとは趣が異なる。

岸田理生の作品のなかで、おそらく最も有名なこの作品は、1980年代という演劇を含めて、日本全体が何かにとり憑かれたかのように浮かれた享楽の時代に背を向けて、近代日本の土着的な暗部をモチーフにしている。それは、寺山をはじめとするアングラ演劇の影響を直に受け継ぐ。60年代の演劇が表象される際の土着性や家制度、少年や少女といった無垢なものや、聖なるものと俗なるものとして娼婦として貶められたものが反転して女神となることなど、それらが物語となっているからだ。

90年代の作品になると、ハイナー・ミュラーやオン・ケンセンとの出会い、韓国演劇への接近などがあり、物語としての戯曲ではなく、テクストとして戯曲を取り扱い、実験の場を作り上げては解体することによってアングラ的なものから移動を見せた。

もちろん、散文詩ともいえる言葉で書かれた作品は、岸田の特色となって常に現れているが、それでも後期のテクストではなく、アングラの色合いが強い『糸地獄』を選択したのは、hmpにとっては一つの挑戦ともいえる。

そこには高度に洗練された岸田理生の言葉の群れとアングラが孕んだ物語性という原作の「抵抗」を解体して、アゴラ劇場の狭い空間に構成する必要があったからだ。

舞台は、畳みが敷かれ、奥に娼家をかたどったテープが貼られ、壁の上に時計と天皇の肖像が置かれている。物語の背景である1939年の日本がもったモダニズム期の華やかな雰囲気が終わり、戦争へと突入していく前夜ともいうべき一時が、全体的に真っ暗な色調のなかに表れている。

原作の『糸地獄』では昼間は糸屋で、夜は娼家となる家に名前しか思い出せない娘がたどり着いて、そこで血を紡ぎ出してつないでしまう母的なるものの連鎖と、その血統のなかで引き継がれていく家など、多層的な問題が連動されて物語が描かれる。『Rio.』の場合、物語の中にオリジナルの言葉や岸田理生の別の作品である『捨子物語』の一節などが挿入され、作品がコラージュされる。

「Rio.」公演
【写真は「Rio」公演(初演2006年11月)から。撮影=ヨシダダイスケ 会場=精華小劇場(大阪)提供=hmp 禁無断転載】

しかし、様々な要素が入りテクストが構成されても、ストーリーはより焦点が絞られて、少女の母探しが中心となる。少女が母を探して、1930年代の日本の都市モダニズム期を思わせるような衣装や、郵便屋、兵隊など登場人物が配されたエピソードをかいくぐり様々なところを旅する。

その舞台の上にいる天皇の肖像などは、原作と違って名前のない少女である最下層のものと、聖なるものとしての天皇の姿が同居するように表れている。そして台詞はあるものの、ストレートプレイではなく、主に役者の身振りや動きによって一つ一つのシーンが、丹念に作られてhmpの独自の作品の形式となっている。

いわゆるアングラ的なるものとして、白塗りの役者や高い声を声で発することが、情念や土着性のある「肉体」とは切り離され訓練された身体として引き継がれているのだ。

ただ、物語の単純さとは裏腹に、台詞に頼らずに身振りや音などに比重が偏っているためか、細かいシーンなどは原作を全く知らない観客にとって捉えづらい面もあっただろう。それが分からなくとも、昨今の小劇場系の舞台にしては、珍しいくらい練習を積み重ねた役者の身体の所作などの、作品の形式は見ているものを飽きさせることはないが、原作の物語を幾重にも貫く様々なテーマから透かして見えてくる血や家や母なるもの、それは日本という地域性の問題まで繋がるものが、「母を探して」に絞られたことにより薄れてしまったのも事実である。それは母を探す旅ともいえるロードムービーのような要素が、アゴラ劇場の狭い空間には不向きであったこととも関係する。

ただし、彼らが自分の形式を絶えず作ろうと、声や身体、作品をつらぬくモチーフのなかで独自の形式に暴力的に変換した上での「問い」を産出していることは確かである。その「問い」とは、実験をするために場を構築することが捉えられた磁場となってしまうことを避けるかのように、作品の形式を確立させる一部に常に結びつけようとしていることだ。

その若手にしてはめずらしい程の精度の高さは、一般的な演劇から見れば実験的とかアヴァンギャルドと言われてしまうのかもしれないが、あくまで自分たちの表現を見つけようとする点で実験という問いを作ろうとしているのであり、芸術という概念を超えるものに携わるものの本質的な行為といえる。それは本来の演劇の正統であり、アヴァンギャルドが運動を失った保守的な演劇と背反するなかで繋がりあっていることと同じである。そこに『糸地獄』が選択され、なおかつ岸田理生のアヴァンギャルドと物語が繋がる結節点が、今回の作品を含めてあったのではないだろうか。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第54号、2007年8月8日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
高橋宏幸(たかはし・ひろゆき)
1978年岐阜県生まれ。演劇批評。近・現代演劇研究。近畿大学国際人文科学研究所研究員。『図書新聞』『シアターアーツ』などで演劇批評を連載。
・wonderland 掲載劇評一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takahashi-hiroyuki/

【上演記録】
hmp『Rio.』
こまばアゴラ劇場(2007年6月26日-28日)

テクスト:岸田理生
作・演出:笠井友仁

出演:
白井沙代子
高安美帆
伊原加津美
伊藤歌枝子
川内絵里奈
田口翼
山崎祐利栄
米本賀織
内藤絵理香
窪田涼子
岡田蕗子

スタッフ
音響:宮田充規(Gakken staff room)
照明:根来直義(Top.gear)
舞台監督:堀田誠(CQ)
宣伝美術:大久保篤(松本工房)
宣伝写真:ヨシダダイスケ
宣伝ヘアメイク:夛田恵子
書:aki
宣伝衣裳提供:着物屋一反
制作:伊原加積
制作協力:池淵厚子、大内珠帆、my(thel&co.)

☆アフタートーク:理生さんと「あの頃」の演劇
*ゲスト
26日(火)19:30の回終演後 岡本章(錬肉工房主宰・演出家)、西堂行人(舞台批評)
27日(水)19:30の回終演後 中野志朗(文学座・演出家)、高橋宏幸(舞台批評)

☆イベント:「水妖忌」
28日(木)15:00参加費:無料

チケット料金
一般 前売:2,500円/当日:2,800円
学生 前売:2,000円/当日:2,300円
フェス通し券:12,000円
*2回目以降:500円(1回目観劇の際の半券が必要)

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