コンドルズ「大いなる幻影」

◎「大いなる幻影」としての「日本のコンテンポラリー・ダンス」
木村覚(ダンス批評)

「大いなる幻影」公演チラシ最近の「エンタの神様」(日本テレビ系列のお笑い番組)はすごい。何がか、というとつまらなさにおいてすごいのである。「爆笑の60分!笑いが止まらない」と冒頭にキャプションがあらわれるのとは対照的に、圧倒的に笑えない60分。以前からそうだったともいえるが、このところ笑えない程度が極まっているように見える。お笑いブーム末期という現状を象徴的に映像化しようと目指しているのか?と勘ぐりたくなるほどに、次々と登場する芸人は、どこかでかつて見たような(そしてもはや誰もがすでに消費してしまった)ネタと形式をなぞってゆくばかりで、ネタの個性はキャラ設定以外ほぼない。笑いのマニエリスム(マンネリズム)。笑えない笑いを笑う。いや、視聴者はもう通常の意味では笑っていないだろう。それでも番組は堂々と続行している。それは大いなる謎だ。その謎において「エンタの神様」は、いま見るに値する番組である(少なくともぼくのなかで)。

そもそも(お)笑いとは高度なものである。そのネタのどこがおかしいのか、笑いのツボを的確に、瞬時に掴まないと笑えない。笑いは難しい。故に、その難しさに忠実である限り、ひとの笑いたいという素朴で純粋な欲望は成就しにくい。1990年代の松本人志のコントのように極北を目指した笑いが笑いを難解なものにしたとすれば、そのハードルを極端に下げて「笑いが止まらない」状態にどんなひとでも誘いかけてくれるのが「エンタの神様」なのである。

「笑いが止まらない」ようにするにはどうすればいいか。笑いのツボを見えやすくするか、そもそもツボというものをなくせばいい。ヒットゾーンを大きくしあるいはヒットゾーンなるものをなくした笑い。その笑いは、芸人の個性が発揮される技=ネタというよりも、いわば工場生産的システムのなせる技だ。既視感のあるネタの形式は、はっとさせる笑いのツボの発見とかそうした芸術的(?)な技巧はない分、分かりやすく「ここは笑うところですよ!」あるいは「笑っていていいですよ!」という指示を与えてくれる。その笑いは、オートマチックなシステムであり、見る者に安心感を与えるサーヴィスそのものである。笑いを欲している者に向けて、芸人としてというよりもビジネスマンとして行うサーヴィス、と言い換えてもいい。

などということを、いわくいい難いイラダチとともに、彩の国さいたま芸術劇場の座席に身を沈めながらずっと考えていた。コンドルズの公演はいつも舞台よりも客席を見る方が面白い。舞台ははっきり言ってつまらない。にもかかわらず、観客は実に楽しそうで何が起きても笑っている(昔「箸が転がっても笑う」という言い回しがあったけれど、正に)。ほぼ交互に連なるダンスとコント。ダンスで彼らは寝てコントで笑う(以前ほど多くはないけれど、事実、今回も隣の席の大学生はコントで笑いダンスになるとぐっすり眠っていた)。とはいえ、そのコントのレヴェルは「おふざけ」以外ではなく、面白いとはいい難い。ゾウがキリンとセックスする影絵芝居、横並びになってポッキーを口で渡し合う王様ゲーム、ノーテクで踊るバレエ、環境問題(?)について熱弁をふるう男、、、どれもどこかで見たようなネタで、パロディと言えば聞こえはいいけれど、むしろそうしたメタ的な振る舞い(批評性)は希薄、むしろただベタにやっているようにみえる。

あえてそれをメタ的であるとみなすのならば、コントをしつつ次のようなインフォメーションを発しているとは、いえるのではないだろうか。「はい、ぼくたちがいまやっていることは、そんなに難しいことではありません、どこでどう笑ってもいいです。そもそも言いたいことがあるわけではなく、とくに感じ取って欲しいポイントはないので、自由に受け取ってください」。

こうした安心感を与える仕掛けは、いたるところ張り巡らせてある。冒頭のおなじみのCMは、舞台をテレビ化する機能をなす。あるいは、派手な照明の効果や通常のダンス公演に較べれば異常なほどの音量で流すロック系音楽など、執拗な演出は、ロック・コンサートのフォーマットを導入し、独特の一体感を生み出すのに大いに機能している。コンテンポラリー・ダンスのテレビ化とロック・コンサート化は、ほぼなにも起きないけど楽しい時間を生み出す。いや「何も起こさないからこそ楽しい時間は生まれるのだ」とでも宣言するかのように、何も起きないということを執拗に懸命にやっているようにさえ見える。
ちょっとおかしくて、ちょっと切なくて、ちょっと驚いて、ちょっとくだらなくて、ちょっと踊れて、、、とすべては「ちょっと」なのだ。足らない、至らないこの「ちょっと」の感じは、考えてみれば、日本のコンテンポラリー・ダンスがこの数年でメジャー化するなかで見いだした、ひとつの美学といえるのかもしれない、とにもかくにも。

会場で配布されたパンフレットに構成・映像・振付の近藤良平はこう発言している。「コンドルズがもしNoismのようなメンバーだったら、僕の振り付けを完全にコピーして踊ってくれるだろうと思う。でも、彼らは、上げるはずの右手を上げていなかったり、自分で勝手に解釈しちゃう訳。でも、だからといって揃えようとするのは不可能だし、僕もそこは求めていない」「僕はもともと完璧主義者じゃないし、完全な完成形にはそんなに興味がない。だって、はみ出てたりとか、時々糸がひょいって出ていたりするほうが、見ていておもしろいでしょ。そういう出っ張りがあるのも、人間なんだからしゃあないんだし。」

桜井圭介コドモ身体論を「人間だもの」的に再解釈するとこういうことになるのか?などと強引な文脈化を施したくなる発言である。桜井氏はコドモ身体論をとおして、日本のコンテンポラリー・ダンスの潜在的可能性を追求した。その論が湛えていた政治性・批評性は、ほとんど理解されず看過されたまま、誤解だけが増殖し、安易に流用され、ときは過ぎている。その一方で、なし崩し的に、事実として、こうした思いこみ(近藤のパンフの言葉を借りれば「大いなる勘違い」)=「大いなる幻影」が、いまの日本のコンテンポラリー・ダンスと呼ばれているものの世間的実像となっている。「コンテンポラリー・ダンス」にカテゴライズされるダンサー、振付家、カンパニーのなかで、間違いなく最も集客力があり最もメジャーな展開をしているのはコンドルズなのである、その事実から理解する限り。

「大いなる幻影」はある意味で正に「爆笑の90分!笑いが止まらない」なのだった。とても楽しそうに笑いを止めない観客を見ていると「エンタの神様」よりはいいのかも、とも思う。あえていえばマニエリスム(マンネリズム=形式の模倣・転用)として不十分である、という点でコンドルズは優れている。コンドルズはなんでもあり(なんにもしない)なのである。彼らはアーティストという以上にビジネスマンである。アートというより顧客のニーズを追求する。近藤のダンスとその他の場面との配分がこの点を考えるに絶妙で、明らかに魅力的な近藤のダンスはしかし、あまりにしっかり展開されるとこれまで述べてきたようなシステムが崩れるので、いいところでスッと暗転してしまう。これはだからダンス公演ではない。「いや、そういう通常のダンスじゃない ものをコンテンポラリー・ダンスっていうんじゃないんですか?」と、もしいわれるのならば、ぼくはそれに返答せず、日本のコンテンポラ リー・ダンスのサークルから、遠く遠く距離をとって生きていこうと思 う。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第95号、2008年5月21日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
木村覚(きむら・さとる)
1971年5月千葉県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻(美学藝術学専門分野)単位取得満期退学。日本女子大講師(人間社会学部)。美学研究者、ダンスを中心とした批評。
・wonderland掲載の劇評一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kimura-satoru/

【上演記録】
コンドルズ「大いなる幻影」-埼玉スペシャル公演2008
彩の国さいたま芸術劇場 大ホール(2008年5月 17日-18日)

構成・演出・テキスト: 近藤良平
出演: 青田潤一 石渕聡 オクダサトシ 勝山康晴 鎌倉道彦 古賀剛 小林顕作(映像出演) 田中たつろう 橋爪利博 藤田善宏 山本光二郎 近藤良平※小林顕作は映像のみでの出演。
チケット(税込)
全席指定 一般席: 前売4,000円 当日4,500円 学生席:2,000円
メンバーズ: 前売3,600円 当日4,050円

企画制作:ROCK STAR有限会社/財団法人埼玉県芸術文化振興財団
主催:財団法人埼玉県芸術文化振興財団

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