大橋可也&ダンサーズ「明晰の鎖」

◎消費社会と明晰さへの抵抗 慎重かつ根底的なアプローチで
竹重伸一(舞踊批評)

「明晰の鎖」公演チラシ1980年代以降日本の社会は資本主義の消費文化に全面的に支配されるようになったわけだが、実は消費社会が一番抑圧、管理しているのが身体である。
一つ例を挙げよう。ここ最近マスコミでは若者の凶暴化を騒ぎ立てる声が喧しいが、統計的なデータによると事実は正反対で、若者の凶悪犯罪は例えば1960年代以前と比べて明らかに減っているし、他の先進国の若者と比べても著しく少ないらしい。「日本の若者は、おそらく世界一、人を殺さない若者だ」と進化生物学の立場から殺人の研究をしている長谷川真理子・早大教授はいっている。(註)

このからくりはちょっと考えてみればすぐわかることである。つまり普段殺人事件など滅多に遭遇することがなくなったため、偶に起きる事件がTVなどによってセンセーショナルに繰り返し報道されて、そのイメージが人々の心に強く残ってしまうというだけなのである。そもそも1960年代以前はまだTVは庶民に広く行き渡っておらず、凶悪事件があっても今ほど人々の共通体験になっていたわけではないのである。おまけに「治安悪化」の掛け声の下に街のあらゆる場所に監視カメラが設置されていて、素人が誰でも自分の映像をネットに投稿できるYouTubeというものまである。その意味で現代人の身体は常に映像カメラによって反乱を起こさないように監視されているといってもいいだろう。そしてそのカメラの背後にいるのは国家の法であり、一般道徳といわれているものなのである。

もう一つ現代人の身体を強力に規制しているのが絶えず効率性のことばかり考えて無駄で無目的な動きをしないように見張っている超自我であり、この二つによって身体を忘却した状態におくことが消費社会の目的なのである。ならば身体を使うダンスこそそうした状況に抵抗する拠点とならなければならないはずなのだが、現実にはそういう問題意識を感じさせるダンスはほとんどなく、平板な日常性と馴れ合っているようなものばかりが氾濫している。

しかし大橋可也はこの「明晰の鎖」という作品で一つの抵抗の姿をはっきりと示してくれたと思う。大橋の初期の作品―私はそれを映像や文章でしか知らないのだが―では、その抵抗の身振りは暴力性やエロティシズムを前面に打ち出した多分にアナーキズムに近い方向性を持っていたように見える。ところが3年の活動中断時期を経た後の最近の作品の方法はより知的で構造的なアプローチに変化している。人によってはそれを洗練による衰弱と思う人もいるだろう。事実私も「あなたがここにいてほしい」にはそうした印象を受けてしまっていたのだが、この作品を観てそれが早とちりであったことを認めざるを得ない。彼は時代と闘うために非常に長いスパンでものを考え、より慎重かつ根底的に創作に挑んでいる。

大橋の作品には二つの重要な特徴があり、しかもその特徴は彼の世界観を反映した本質的なもののように思われる。

一つは個々のダンサー間の絶対的な距離とディスコミュニケーションである。ダンサーの意識は常に自分の身体の内部に閉じ込められていて他者と関係を持てない。これは「あなたがここにいてほしい」の男女の関係の中で既にはっきり提示されていたのだが、この残酷なまでの距離感にこそこの身体がふわふわ浮遊して輪郭がはっきりしていない時代に対する彼の強い批評意識が感じられる。

もう一つはダンサーの特権的な技術を否定し日常的な身振りを取り入れていることで、作品上で誰かのソロダンスがフィーチャーされるようなことは決してなく、メンバーは絶えず入れ替わっていて、その選択の基準は明らかに技術のレベルではない。そもそも大橋自身が自ら踊ることにあまり拘っていない。以前和栗由紀夫の好善社にいた大橋がその舞踏の世界から離れたのは、舞踏にもあるこの技術主義的な側面に嫌気がさしたのではないかと推測されるのである。この点では明らかに、彼はポスト・モダンダンスのコンセプトを継承している。日常性への帰還はダンサーである前に今の時代を生きる一人の人間であることを忘れさせないためだろう。

作品の具体的な細部に入ろう。
舞台奥正面の大きな搬入口が開かれたまま、下手側脇の壁から巨大な白い直方体の箱がドスーンと床に落下して第1部「通行人たち」は始まるともなく始まる。裏の道路に往来する人や自動車と分かち難い形で観客は二人の男のダンスを観ることになる。大橋はなぜこうした仕掛けを用意したのだろうか?

ダンサーに対しては眼前の観客だけでなく、同時代を生きている無数の人達に向けてこの作品が創られていることを実感させる意味合いがあっただろう。この公演に無料席が用意されたことと繋がっている面もある。一方観客の側からすると舞台上のダンサーだけでなく自分達観客も往来の人から見られていることを意識させられることによって、舞台と客席を上下関係なくフラットに結び付けて考えざるを得なくなる。ただこの第一部は時間的にも短く、踊りの密度からいってもプロローグといった趣があり、踊っていた二人の男は以後展開される女性ダンサーの踊りの傍観者としてだけ舞台上に存在することになる。

「明晰の鎖」公演
【写真は「明晰の鎖」公演から。撮影=GO 提供=大橋可也&ダンサーズ 禁無断転載】

第2部「ダウンワードスパイラル」は道路手前の舞台一番奥の空間から影のように登場した、一様にグレーの衣装を身に着けた四人の女性の徹底的にミニマルなダンスである。内面や個性といったものを表向き否定されたダンサー達は時にユニゾンを形成しながら、一人一人微妙に違う動きを苦行のように50分間延々と反復し続ける。舞台空間の対角線と前後の移動をベースにした振付は厳密で幾何学的な秩序を創り出していて、抽象的なバレエを観ているようだ。ただ内面は否定されても身体の記憶だけは残されていて、空手のような蹴りや床へのスライディング、服をめくってスカートの腰紐の辺りを触り不気味に笑うといった行為や「死ねばいいのに」という暴力的なせりふが挿入される。しかしそうした不穏さは飽くまでも断片としてしか意味を成さず、全体の秩序は微動だにしない。

これは現代社会において身体が置かれている状況の残酷な戯画である。冒頭で述べたような法と効率性、つまり明晰さによって支配され匿名化された身体は、僅かに残された固有の無意識の欲望さえ機能不全になって宙に漂うしかない。更に第2部の中盤辺りで搬入口がゆっくりと閉じられて頭上の蛍光灯が一個ずつ点灯され、それまでの増幅された劇場外の街路音に代わって舩橋陽のライブによるミニマルなサックス演奏が加わると閉塞感がより一層増してくる。時間が進行するに連れて、将に「明晰の鎖」にがんじがらめにされた身体の悲痛な喘ぎ声が聞こえてくるような気がした。

ただ予めぽっかり空けられていた舞台中央客席直ぐ手前の大きな正方形の穴にも照明が点るとこの空間が一つの謎として浮かび上がってくる。そして第2部の終わりの方で女性ダンサーの一人がこの穴に入って行き、第3部の別の四人の女性ダンサー達への連絡の役目を果たす。

その第3部の「ドッグ」はエロティシズムとイリュージョンを扱っている。大橋は舞踏出身ながら私が実際に観ている中断以降の作品では、ポスト・モダンダンスの影響を受けてかこの二つを扱うのを避けてきたように思われる。それが私が大橋の作品に今まで抱いていた不満の大きな部分だったのだが、彼はこの「ドッグ」でこれらの問題に対する彼流のアプローチを示してくれた。

舞台正面のバルコニーの一番下手側と舞台中央に椅子に座った女性、上手側手前の床に座った女性がいる。その三人の眼前にはそれぞれカメラが置かれていて、更にもう一人舞台上に縛られず劇場内のあちこちを忙しなく動き回り、時に他の女性達の邪魔をする女性がいて、彼女の動きも常にカメラで捕捉されている。リアルタイムでその四人の女性のダンスの映像が舞台のあちこちに設置された大小様々なスクリーンやTVに映され、しかもそのモニターに映し出される対象は頻繁に切り替えられる。ダンサー達はそれぞれ色取り取りの個性的な衣装やメークをして被写体としての自分を意識した媚態といってもいい仕草、表情をする。つまりここでは彼女達の身体は確かに観客の前に曝されているのだが、その意識には観客は存在せず眼前のカメラしかない。しかもそのエロティックな表現は恋人に撮らせているかのようなプライベート映像であり、二重の意味で観客は疎外されている。いわば観客は覗き見をしている立場に置かされているわけで、ここにこの「ドッグ」が濃密なイリュージョンを生み出しながらも、それがスペクタクルとして拡散していくのを免れている秘密がある。明晰さのもう一つの象徴であるカメラに支配された現代の汎映像社会を上手く逆手に取って、隠微な解放区を創り出すことに見事に成功している。

ラスト、それぞれのカメラの前から離れた孤独な四人の女性達は子供のように取っ組み合いをし、劇場の外の街路に出て全員で映像に納まる。第2部の閉塞した状況に対してごくささやかではあるがある種の希望を感じさせる美しいラストであった。ただし飽くまでもカメラの支配からは逃れられないという一抹のアイロニーを付け加えて。

一つ疑問があるとすれば、この作品が第2部以降女性達だけのダンスで構成されていて、男性二人は意図的に影の薄い存在にさせられていることだ。こうした男女のはっきりした区別は今までの大橋作品では見られなかったもので、今後どうなっていくのか注目していきたい。いずれにせよ21世紀に入ってからの日本のコンテンポラリーダンス界随一の成果といっても間違いはないだろう。
(註)内山幸雄「日本の若者は殺さない上下」、『こんな私たち白書5、6』(朝日新聞夕刊、2003年4月4、5日)
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第96号、2008年5月28日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
竹重伸一(たけしげ・しんいち)
1965年生まれ。舞踊批評。2006年より『テルプシコール通信』『DANCEART』『音楽舞踊新聞』『シアターアーツ』等に寄稿。現在『舞踊年鑑』概況記事の舞踏欄の執筆も担当している。また小劇場東京バビロンのダンス関連の企画にも参加。

【上演記録】
大橋可也&ダンサーズ明晰の鎖
吉祥寺シアター(2008年2月9日-2月11日)

【出演者、スタッフ】
出演:江夏令奈、垣内友香里、皆木正純、古舘奈津子、前田尚子、宮尾安紀乃、とまるながこ、中川敬文、いとうみえ、多田汐里

振付:大橋可也
音楽:舩橋陽
映像:岡崎文生(NEO VISION)
衣装:ROCCA WORKS
照明:遠藤清敏(ライトシップ)
音響:牛川紀政
舞台監督:原口佳子(office モリブデン)
演出助手:山田歩
宣伝写真:野村佐紀子
宣伝美術:佐藤寛之
記録写真:GO
映像版制作:古屋和臣
制作:三五さやか、ビーグル・インク株式会社
協力:村山季美、大橋めぐみ

助成:財団法人セゾン文化財団、芸術文化振興基金、財団法人東京都歴史文化財団 平成19年度創造活動支援事業、財団法人アサヒビール芸術文化財団
主催:大橋可也&ダンサーズ

▽「アフター突っ込んだトーク」
実施公演:2008/2/9(土)14:00
ナビゲーター:伊藤キム

【参考情報】
▽大谷能生talking about 大橋可也&ダンサーズ(レビューハウスラジオ

▽大橋可也&ダンサーズ「明晰の鎖」(動画ページ

大橋可也&ダンサーズ「明晰の鎖」
撮影日:2008/2/11 会場:吉祥寺シアター

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